能の上演禁止について
能の「大原御幸」が上演禁止になつた。あの蕭条たる山里の尼院の中で、浮世を捨てた主従三人の女が、静物のやうにじつと坐つたまま、十数分もの長い間、物悲しくも美しい抒情の述懐を合唱する場面は、すべての能の中でも最も幽玄で印象に残る場面であるが、今後再びそれが見られないと思ふと、永久に宝石を失つたやうな寂しさが感じられる。先には「蝉丸」が禁止になり「船弁慶」の一部が抹殺されたが、今後は皇室に関する一切の能を禁じ、長く廃演にするといふことである。するとさしづめ式子内親王をシテ役にした「定家」や、醍醐天皇とおぼしき帝の出給ふ「草子洗小町」やを初め、幾多の美しい傑作能が、今後舞台から消滅することになるのであらう。
警視庁の方の理由は、臣下たるものが皇族に扮し、娯楽興行物に演藝するといふのは、畏れ多く不敬のことだといふのである。成程一応はもつともの理由であるが、いささか杓子定規の役人思想が、世話の行きすぎをしたかとも考へられる。すべての物事は、法律的の言語概念で考へないで、深くその物の本質する精神から考へるのが大切である。娯楽演藝物とは言ひながら、能は歌舞伎や活動写真とはちがつてゐる。能は武家の式楽として、最も厳重な格式の下に、長裃の儀礼を以て観覧されたものである。これを見る者は将軍であり、大名であり、当時の貴族たる武士階級者であつた。平民階級の町人等には、かたく法律を以てその観覧が禁じられた。それほど鄭重に儀礼を正して、荘重に演ぜられた式楽なのだ。今日もし市井の大衆劇や娯楽的の映画劇で、皇室を主題とする如き物が現はれたら、あへて警察の令を待つ迄もなく、僕等が率先してその不敬を責めるであらう。だが観客が皆礼服を着、儀式を正し、最敬礼を以て列座し、そして演藝そのものと演出者とが、最も厳粛荘重なる精神を以てする舞台に於て、たとひ皇室に関する場面があらうとも、一概に不敬呼ばはりをすることはできないだらう。勿論今日の能の観客は、昔のやうに礼儀正しくはない。しかし能そのものの藝術精神は、依然として伝統のままに荘重な式楽であり、何等卑俗の娯楽性を持たないのである。況んや能は、五百年もの長い伝統を経た古典劇である。ニイチエも言ふ通り、人は幾度も繰返される劇に於ては、もはや筋やストーリイを見ようとしないで、もつぱら演技の形式だけを見るのである。「大原御幸」や「蝉丸」などの観客は、シテが皇族であることなど意識しないで、単にそれが現世左近であり、梅若萬三郎であることだけを見てゐるのである。警視庁の取締りが、映画や現代劇にやかましく、時代劇や歌舞伎劇に比較的寛大だといふことも、おそらくこの同じ理由にもとづくにちがひない。新しく出来たナマのものは、臭気の刺激性が甚だしい。しかし五世紀も経た骨董品に、今さら何の臭気があらう。枯骨を叩いてその肉臭を探索し、今さらに事新しく公告するのは、却つて人心を惑はすことの愚になりはしないか。
能を見て感心するのは、それが武家時代の創作であるにかかはらず、皇室に対して最善の敬愛を表してることである。人も知る通り、能は室町時代に完成した藝術であり、これのパトロンは足利義満や義政の将軍だつた。日本の小学歴史では、足利氏一族を大逆賊のやうに教へるけれども、事実が必ずしもさうでないことは、能の舞台を見てもわかるのである。能に出る皇族は、最高の敬意と尊厳を以て扱はれ、常に将軍等の武士階級よりも上位に、崇高にして神聖なものとして敬はれてる。いやしくも不敬な態度や軽薄な精神を以て、皇室を取材した如きものはないのである。実に二千五百余年来、中途に武家の専制時代を経てさへも、皇室に対する至誠の純情は、日本人の本能から抜きがたいものであつたことを、しばしば自分は能を見て思ふのである。
日本人の忠君愛国思想が、支那や西洋のそれと根本的にちがふところは、皇室が我々の先祖であり、天皇が我等の真の大御親におはしますといふことの、君臣一家族の親密な観念にある。外国の君主国、特に古代支那やペルシアの東洋諸国では、強制的に君主が人民を威圧するため、天子は紫袍を着て金殿玉楼の高楼に坐し、臣下に対して奴隷的服従の忠節を強ひた。それらの国々では、君主は単に「恐ろしきもの」の表象であつた。そして何の慕はしきもの、親愛すべきものでもなかつた。然るに日本はちがつてゐた。古事記や萬葉集の昔から、我等は天皇を神として崇め奉つてゐたが、同時に血肉の親として、あらゆる日本人の慈父として、心情から慕ひまゐらせて居たのである。天皇と人民とが、いかに肉親的にしたしかつたかは、時にしばしば至上が諧謔を弄されたり、臣下と心おきなく遊宴されたりしたことの、古事記や萬葉集の文献によつて明らかである。そしてかかる和気藹々たる君主関係は、決して外国にはなかつたのである。
ところで問題になつた能の多くは、皇室に対する人民の愛慕の情を、一層深めることはあつても、これに反する箇所はないのである。僕等は日本の古典史をよみ、不遇に崩ぜられた天皇の怨恨や憤怒を聞いて、逆賊に対する憎みと怒りを新たにするが、その人間的告白の故に、天皇への忠義心が変るやうなことは絶対にない。能を禁演する政府の真意は、おそらくそれが娯楽物だといふだけではなく、ことに皇室に関することは、出来るだけ民衆の心に触れさせたくないといふ意義に基くのだらう。果してもし然りとすれば、古事記、萬葉集、増鏡の類を初めとし、源氏物語等の古典文学に至るまで、遂に公演を禁じなければならないだらう。かくの如き施政は、古代のぺルシアや支那の如く、威嚇的君主制を強ひる国には好いかも知れないが、日本の如く君臣一体となつてる国では、却つて人民と皇室との関係を迂遠にし、いたづらに内容なき形式上の威圧感のみを、純情の民にあたへることになるであらう。特に「船弁慶」の如きは、平知盛の亡霊の台詞中に、主上を始め奉り平家の一族西海の浪に漂ひ云々といふのが、娯楽物の故に不敬だと言ふのであるが、取締りも此処に至つては、少しく病的に神経質すぎると言はねばならぬ。
さらに此処で提出される根本の疑問は、能が果して警察の定義の如く「娯楽物」といふ概念に適応されるか否かといふことである。能の如く、少数の教養人を観衆とする高尚の古典藝術が、もし所謂「娯楽物」であるとすれば、ワグネルの音楽も、雪舟、大雅堂の美術も、はたまた僕等の書く詩や小説の純文学も、本質に於て皆広義の娯楽物といふことになるかも知れない。いはゆる娯楽演藝と純藝術との相違は、僕等の常識が知る限りに於ては、結局つまり大衆演劇と能楽との区別にすぎない。故にこの問題を延長すれば、単に能楽ばかりでなく、藝術一般、文化一般に関する問題になる。政府はこの大きな文化問題に対し、どんな解釈を以て施政方針を取らうとするのか。さらに機を見てこれを質問したいと思ふのである。