暦と四季
暦といふものは、地球の緯度と同じやうに、人間生活の便宜上から、本来無記のものである時間空間を、仮
に人為的に区分整理したものにすぎないのだ。一日が二十四時間だらうが二十時間だらうが、一年が十二ケ月
だらうが十三ケ月だらうが、宇宙本来の時間には毫も変りがないことであり、要は人間生活の便利のために、
都合の好い区分をしたにすぎない。太陰暦と太陽暦の相違は、時間の標準を月と太陽に定めることの相違であ
るが、理論上から言へば、何れが正しいと言ふことはない筈である。何れにしても、人間生活に便利の好い方
が好いわけである。
ところでこの見地から言ふと、太陰暦の旧暦の方が、すべてに於て人間の生活と密接し、便利が多いやうに
思はれる。たとへば旧暦では、四季の季節が、ほぼ人間の感ずる実際の気温感と一致するし、彼岸、土用、入
梅、冬至等、人間生活に必要な節用事が、はつきり暦の上で記入されるし、何よりも自然と人生との関係が、
ぴつたりよく肉感的に一致してるので、暦自身が家政日記の代りをするし、歳時記の代りもするといふもので
ある。特に農家に於ては、種蒔きや収穫やの時期が、万事暦の指定通りになつてるのだから、旧暦の暦なしに
は、一日も生活できないといふほどである。
ところが近頃では、世界の国々がたいてい皆新暦を用ゐるやうになつてしまつた。日本でも明治以来旧暦を
廃し、露西亜でも革命以後は新暦を取り、最後に独り遅れた本場の支那でさへも、最近は新暦を用ゐるやうに
法令された。それで日本の新旧対照暦では、つい最近まで、旧麿のことを「支那暦」と書いてゐたが、これも
改訂しなければならないだらう。
話が少し余事に亙るが、最近事変の直前まで、東京市内の支那料理店では、毎年二月中旬頃になると「本日
支那の正月に付休業」といふ札を出して居た。それを通りかかつた田舎者が、さも珍しさうに眺めながら、
「何だ支那の正月だなんて、日本の旧暦と同じぢやないか。」と呟いてるのを町でよく見かけたものであつた。
とにかく世界の国々が、今ではこぞつて新暦を採用するやうになつたのは、やはり人間の生活状態が一変し
て、新暦を便利とするやうになつたからであらう。太陽を標準とする新暦は、人間の感覚する自然の季節感と
は一致しないが、地球の緯度の相違によつて生ずる、時差の狂ひを尠くすることや、インタナショナルに時間
を正確にできる点やで、海外貿易の発達した商業資本圏には便利である。これに反して太陰暦は、本来農業上
の便利の為に、農業国によつて使用されたものである。故にそれは、専ら過去の日本、支那、露西亜等の農業
国で用ゐられた。だがこれ等の国々も最近商工業国に転化したので、暦もまた変化しなければならなくなつた。
暦の上で、およそ四季の区別位わけの解らないものはない。専門の学者にきいても、やはりよく解らないら
しく、一向腑に落ちる解答をしてくれない。かつて小学校に行つてる親類の女の子が、八月上旬の暑熱盛りに
手紙を寄して「立秋清冷の候になりましたが、皆様お変りもなく云々」と書いてあつたので、家内一同腹を抱
へて大笑ひをしたが、後でその子供に逢つて聞いたら、学校で先生がさう教へたと言ふ。成程暦を見たら、八
月五日が立秋となつてゐるのである。もつともその学校の先生は、磨の上では立秋ですが、まだ実際には夏の
気温ですと教へたといふ。ところがその子供には、暦の上の「秋」が、実際上の「夏」であるといふことの矛
盾が、どうしても不思議で理解できないといふ。
だがこれは子供ばかりぢやない。大人の我々にもちよつと理解できない不思議である。なぜかといふと、人
問の言葉で意味する四季(春とか夏とかいふ観念)は、太陽の運行による天文学とは関係がなく、単に人間自
身の感覚本位で、習慣的に言はれる言葉に過ぎないのに、一方で暦の上の季節規定は、純粋に学理的のもので
あるからだ。
しかし旧暦の太陰暦では、この学理と実際とが比較的よく一致してゐる。旧暦時代の習慣では今の居でおよ
そ二月中旬から五月中旬頃までが春であり、八月中旬頃迄が夏、九月から十一月中旬頃迄が秋、十二月から二
月中旬頃迄が冬となつてる。然るに今の二月中旬頃は、旧暦の方で正月一日になつてるので、丁度ぐあい工合よく、
新年と共に立春が来るわけであり、それ故に「年立つ春の悦びを賀し奉る」といふことになる。とにかく新年
と共に春が来るといふことは、人生に新しい希望の更生感をあたへる事で、いかにも楽しく悦ばしい思ひがす
る。そしてこんな暦を作つた昔の支那の天文学者が、いかに聡明な人間学者であつたかといふことも考へられ
るのである。
しかしこの旧暦時代の四季観念は、厳重に言ふと、少し日本の実際と符節してゐない。二月中旬(年によつ
ては二月上旬)頃は、日本ではまだ冬の真盛りで、一年中の最も寒い時節である。日本で本当の春の季節を感
覚するのは、やつと三月頃からであるから、この点は西洋の習慣の方がよく当つてゐる。西洋の習慣では、普
通に三月から五月迄が春、六月から八月迄が夏、十二月から二月迄が冬となつてる。これがいちばんよく、日
本の実際の季節と符合してゐる。(津田左右吉氏の説によると、日本の四季の誤謬は、支那の暦による支那人
の四季観念を、緯度や気候のちがふ日本に移して、そのまま直輸入した為だと言ふ。実際、北京あたりに居た
人に聞くと、支那では季節と暦がよく一致し、驚くほどだと言ふことである)
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明治になつてから、日本は苗事嘗套の習慣を一新したが、因襲の久しき、未だそれを完全に脱し得ないもの
が麹づてゐる。たとへば磨の上に於ける四季の習慣観念の如きその一例である。今日新暦の}月}日は、膏暦
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の師走厳冬中に首るも.ので、学理上の暦からは勿論のこと、人間の感覚する経験上からも、到底これを立春の
候とは言へない筈である。それにもかかはらず日本人の大多数は、今日何年々歳々の年賀状に「新春の霹を賀
し奉り候」とか「恭賀新春」とか「迎春」とか書いてるのである。更歳新春、年の初めと共に春が来り、年の
終りと共に四季が終るといふ、古い蕾暦時代の季節観念が、今日命日本人の俸統中に根強く残つてることは、
年々多くの年賀状を見る毎に驚くのである。
前にも述ぺた通り、四季の直分は天文学によるのでなく、主として人間の習慣によるのであるから、一月厳
冬の侯を春と呼んだところで、必ずしも理論的に誤つてるとは言へないけれども、茸際人間の感覚と一致せず、
経験に於て不合理な矛盾を持つてる分顆法は、出来る限り廃止した方が好いと思ふ。特に俳句を作る人々など
はこの鮎で季節と歳時記の矛盾に悩み、現に今日、非常に厄介なヂレンマに陥つてゐるのである。かうした因
襲を保守する場合、今の麿で一月二月の厳冬が春の季に入り、七月八月の酷暑の候が秋となり、十月十一月の
仲秋清冷の侯が冬になるのだから、俳人以外の一般人と雄も、日常の挨拶や手紙の文句にまごつき、一方なら
ぬ不便と困惑を感ずる次第である。既に新暦を用ゐる以上はよろしくこの膏習を一新して、西洋流に春を三、
四、五。夏を六、七、八。秋を九、十、十一。冬を十二、一、二と各三ケ月宛に分顆すぺきである。(もつと
も厳重には、西洋でも、春は二月二十日頃から五月二十日頃迄となり、以下これに準じて敷へてゐる。)そし
てこの習俗改正の教育には、誰よりもまづ、小学校の先生が任に首るべきだと思ふ。
俳人輿謝帝村のことを書いた僕の或書中で、「凧きのふの室の有りどころ」といふ句を、冬の部に入れて併
読したところ、季がちがふと言つて詰問して来た人があつた。従来の歳時記では、凧は春の部に入つてるから
である。しかし北風の吹く大室に、凧が唸りをあげて揚つてゐる頃の季節は、どう感覚しても冬の厳寒の季節
であり、またさう感覚しなければ、かうした俳句の詩味を理解することが不可能である。従来の歳時記で、こ
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れが春の部になつてるのは、前に述ぺた通り支那の麿を直輸入して、「立春」と「新年」とを、気温気候の異
なる日本で、無理にコジつけょうとしたことから、避けがたく生じた不自然だつた。嘗暦にして既にかくの如
し0況んや太陽暦に於て、年の初めを春とすることの不自然なのは、あへて言ふまでもないであらう。
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