新年の辞

新年来り
門松は白く光り。
道路みな霜に凍りて
冬の凛烈たる寒気の中
地球はその周暦を新たにするか。
れれは尚悔いて恨みず
百度もまた昨日の弾劾を新たにせむ。
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見よ! 人生は過失なり
今日の思惟するものを断絶して
百たびもなほ昨日の悔恨を新たにせむ。

 年々歳々花相似たり。年々歳々人同じからずといふ詩があるが、個人的な生活からいへば、年々歳々同じやうな人間が、同じやうな生活を繰返してゐるのである。人のすべての行為は、天質的な性格によつて決定される。人は環境によつて反応するが、その反応の様式といふものは、人の先天的な気質によつて、常に一定の法則に公式されてゐる。A型血液型の人を、ある一定の環境に置けば、どんな反応によつて、どんな行為をするかといふことが明白である。今日の進歩した医学は、すべての病気の素因が、外部からの伝染になく、個人の遺伝的な体質(病的素因)にあることを証明してゐるし、今日の刑法学者と犯罪学者は、多くの犯罪の原因が、犯罪的素因の性格に存するのであつて、犯罪的条件の環境にないことを論証してゐる。人のすべての生活と行動とは、その個人的気質の「傾向」によつて決定される。丁度たとへば円錐形の物体が、常にその頂点を中心として周囲運動をする如く、人が環境に対して反応する法則は、そのもの自体の先天的な気質によつて傾向づけられてゐるのである。酸性とアルカリ性とが、その素因する一定の反応を示すやうに、人生は傾向の発展した宿命の連鎖にすぎない。自由意志などといはれるものは、主観の幻覚にしか過ぎないのである。
 新年来り、新年去り、人は永久に同じことを繰返してゐる。年暮れて残るものは、無限の悔恨ばかりであり、年来りて思ふことは、人生虚妄の嘆ばかりである。天が下に新しきもの有ることなしと嘆息した古のユダヤびとは、千度地球の周暦した今日でさへも、生きて再度同じ嘆きを歌ふだらう。冬の凛烈たる寒気の中で、霜に光る門松を眺める時、人はその魂の氷を噛んで、人生のきびしさに驚くのである。百度もなは昨日の悔恨を繰返して、あへてその悔恨を悔いることなく、今年もまた去年のやうに、あらゆる過失と愚行を反復しようと決意する時、むしろ人は自然に向つて弾劾するところの、意志のきびしい憤りを感ずるのである。
 幕末、訪欧使節の一行が印度洋を航行した時、一同が甲板に集つて大騒ぎをしてゐた、般の船員が不審に思つてわけを聞いたら、赤道を見るのだと答へたといふ話がある。地球儀の上に赤く描いてある帯の赤道が、現実に見えるものだと思つてゐたのだ。新年になつて年始をしたり、初日の出を見ようとして騒いだりする人の心理が、丁度これによく似てゐる。暦なんてものは、地球儀の緯度や経度と同じやうに、人間生活の便宜上から、無記無限の宇宙の時間を、かりに人為的に置分したものにすぎない。新暦一月一日の初日の出は、旧暦二月十四日の太陽であり、無始無終の宇宙の時空を、いつも規則正しく運行してゐるところの、平常の通りの太陽と変りがない。それを珍らしさうに見物するのは、実際に有りもしない地球儀の赤道を、印度洋で見ようとした人の心理と同じである。
 だがさうした好奇心もなく、年の始めの改まつた気分も起らなくなつたら人生は単調でやりきれなくなるであらう。年始に「おめでたう」をいひ歩く日本人も、街頭に「ハッピー・ニュー・イーア」を交換する西洋人も、心の中では真に賀慶祝福してゐるのではない。長い生活の経験から、年々歳々同じ行事を繰返して、年々歳々無為に老いて行くことを知つてる人々は、年始のやるせない憂愁感をまぎらすために、故意に酒を飲んで元気をつけ、縁起を祝つてお目出たうを叫ぶのである。忘年会と新年宴会とは、同じ心理の重複にすぎない。
 しかし人間の幸福は、未来を予想できないといふことにある。それからして人々は、勝手に都合の好いことを考へ、いつも年頭に際して、一陽来復の幸運を予想する。「今年こそは」と、多くの人々は考へる。「何か途方もない幸運がやつてくるやうな感じがする」と。だがその漠然たる感じは、たいていの場合に外れてしまふ。そして年々歳々同じ失敗と失望を繰返して、人生を悔恨の中に経つてしまふのである。せめてはその漠然たる予感によつて、世間が一陽来復の新年景気に浮かれてゐる時、衆とともに享楽して酒を飲み、大いに宴会して快楽するのが利口である。