住宅について

 僕は建築のことは門外漢だが、近頃郊外に新築される住宅には嫌厭を禁じ得ないものが多い。趣味が俗悪だと言ふばかりでなく、本質的に住宅としての条件を欠如してゐるからである。住宅の目的は、雨露を凌ぐといふことの外に、心身の安静で快適な生活を目的とする。そしてこの目的から、通常な光線の採光といふことが、住宅建築の必須な条件になるのである。然るに近頃の郊外住宅はまるでこの点の配意を無視し、温室かサナトリアムの病室みたいに、家の四面を硝子戸で張り廻し、雨戸もなく障子も尠く、家の内部が殆んど戸外と同じやうな明るさである。こんな家に住んでは、心身の安静や休息はもとよりのこと、落着いた家庭生活の情味を味ふことも出来はしない。おそらくこの種の悪流行は、太陽の光線浴が健康に好いといふ、誤つた半可通の衛生思想に基づくのだらうが、住宅の第一意義を忘れた衛生思想は、寧ろ滑稽といふ外ない。外国人の住む純西洋館の室内は、今の日本の家に比して薄暮のやうに薄暗く感じられるが、それが住宅として丁度適度の採光なのである。日本でも昔の家は障子が多く、軒を深くして適度に柔らかな採光をしてゐるし、特に茶座敷の如きは、安静と休息の目的から、理想的の採光をしてゐるのである。今のサナトリアムのやうな家に住んでる人達を考へると、現代日本人の文化的情操に対して、僕は根本的の懐疑を持たざるを得なくなる。つまり彼等は一にも二にも栄養、実利、健康、衛生といふやうなことばかりを考へ、生活を豊かにすることの趣味性と文化情操を欠いてるのである。ヴイターミンやカロリイの比量のみを計算して料理をつくり、肝腎の調味を無視したまづい食物を食ひながら、自ら文化的だと思つてる人間ほど、度しがたいものはない。かういふ半可通のインテリ人種が、明治の所謂「文明開化思潮」をつくり、一世を俗悪な物質的実利主義に導いたのだが、この頃の所謂文化主義や生活改善主義といふものも、たいてい、この時代風潮の亜流にすぎない。況んやその栄養料理式の実用主義が、多くの場合却つて非科学で、実生活の健康に適しないのである。たとへば硝子が紫外線を通過させないことが、最近の科学で証明されてるのに、そんな硝子張りの家に住むのは無意味であるし、湿気を吸収する為に、日本の住宅に保健上必須とされる紙障子を、故意に使用しないのは愚の極である。特に昼夜の室内温度を調和する目的から、日本住宅に最も必要である雨戸を廃し、昼夜の冷熱変化が甚だしい椅子戸の家に住んで、家族がたえず風邪をひいてゐる如きは、非科学的でもあるし不衛生の極でもある。最近伝へるところによれば、空襲防備演習の実験から、雨戸の設備がない家の消燈が不完全であることが解り、爾後郊外の住宅には、可及的に雨戸を取り付けさせるさうであるが、単に国防上ばかりでなく、保健上にも大いに結構なことだと思ふ。
 尚ついでながら、最近流行の日本住宅に関する二三の不満を披瀝しよう。
 第一に不体裁なことは、日本風の家屋の側に、洋館まがひの応接室を取り付けることである。和洋折衷なら好いけれども、これは全く不調和の和洋混同であり、おそらく悪趣味の極致であらう。しかもこの種の売家や貸家に限つて、一般の需用者が多いといふのであるから、以て如何に現代の日本人が、趣味的に俗化してゐるかを知るべきである。
 次に怪訝に堪へないのは、母屋が純日本式であるに拘らず、周囲の塀や垣根を低くして、洋風の門を付けた家の多いことである。純粋の西洋住宅は窓が小さく室内が密閉式に出来てるので、たとひ塀や垣根が無くても、通行人などに外から室内の生活を覗見される恐れがない。その上屏が厳重に鍵かけられてゐるので、容易に盗賊や空巣狙ひに襲はれる憂ひがない。然るに日本の家はこれとちがつて、全部が開放式であるために、外から室内が丸見えであり、盗難の恐れも多いので、必要上是非とも塀を高くし、門を厳重にせねばならないのである。もし日本住宅に強ひて洋風の塀門をつける場合は、庭に樹木を多く繁茂させて、外部からの際見を遮断せねばならないだらう。
 郊外を散歩しながら、僕がしばしば不審に堪へないのは、この種の奇妙な家、即ち日本家屋に洋風の低い塀を凝らし、しかも庭に何の植込の樹木もなく、洋風の芝生庭園としてゐる家の多いことである。こんな家に平気で住んでる人達は、僕にとつて全く心理的に不可解である。戸外の通行人から、室内の生活が丸見えに見え、時に或は、女が半裸体で寝ころんで居たり、子供が食物を争つて喧嘩してゐるところなど、すべての家庭生活が公衆の前に臆面もなく展開されるやうな家に住んで、無神経に平然と安住してゐる種類の人種は、心理的に不可解といふ外はない。しかもそれが長屋住ひの貧民ではなく、相当の知識階級に属する会社員や紳士なのである。
 近頃の住宅では、天井をむやみに高くすることが流行するが、これもまた時代病的悪趣味の一つである。兼好法師も徒然草で言つてるやうに、天井の高いのは冬塞くして燈火が暗い。もつとも照明の発達した今日では、燈火の暗いのは電燈のワット次第でどうにもなるが、冬寒くして住み難いのは事実である。元来天井の高いのは、ホールとか、サロンとか、寺院の本堂とかの公共的大広間に通ずるので、個人の臥居をする住宅には不通である。なぜなら気分が散伏して、家庭的な落着きと安静がない上に、光線の放射が多角的で、居間や書斎としての、適宜な心地よい採光が得られないからである。それ故に茶室の天井は、辛うじて人の頭がつかへない程度に、できるだけ低く作つてあるが、気分の安静といふ点、採光の幽邃といふ点から見れば、これが最善の方式である。それはど極端でないとしても、一般に住宅としての天井は、あまり高すぎない方が好い筈である。にもかかはらず今の人たちが、一般に天井の高い家を好むといふのは、住宅をサナトリアム視する誤つた思想の為と、一つには見栄外観の俗悪な華麗を悦ぶ成金趣味 ― 特にこれは重役等の会社員に多い通弊だが ― の為であらう。
 最後に尚一つ。紙障子の一部に硝子をはめ込むのは、今では殆んど公式的に普遍化してゐることであるが、これもあまり感心した工夫ではない。元来日本の家の紙障子は、湿気を防ぐ保健上の必要以外に、採光の点で申分のない役目をしてゐる。即ち硝子のやうにドギツくなく、カーテンのやうに陰鬱でなく、丁度畳敷の日本座敷に適するやうに極めて柔らかで雅致のある適度の明るさを採光するので、その調和の美しさと快よさとは、外国人の常に嘆賞して措かない所である。それほど紙障子は、日本住宅に於ける主要な中心的な建具であるから、出来るだけその白紙の面積を広くした方が、衛生的にも採光的にもよく、就中特に美学的にも美しいのである。然るにその一部を切つて椅子にするのは、以上の何れの見地から見ても感服できない。(特に四枚建ての障子で、一枚毎に硝子を入れる如きは、悪どくしつこさの極みである。)障子にせよ唐紙にせよ、日本住宅の建具の特色は、極めて軽くて手解りがよく、開閉がスラスラとした所に妙味が存するのに、折角の紙障子に椅子を入れたりしては、それだけ重量が増して開閉の手触りが悪くなり、ひいては日常の住心地にさへ影響する。もし室内に坐つて他を透現することの便利を言へば、他から室内を覗見されることの不快と利害相殺するであらう。さらにこの利のみを採つて、害を防ぐために考案された一種の硝子入障子、猫間障子の類に至つては、最も俗悪な成金的待合趣味と言ふべきである。なぜなら日本住宅の建具、掛に就中紙障子の如きは、元来その素朴簡素のところに瀟洒な美的本質が存するのに、これに煩瑣な小細工的加工を加へ、ロクロ仕掛的の建具にするといふのは、その意匠自身が既に悪趣味であるからである。
 日本の六大都市の中では、東京の女が最も外出好きださうである。これには勿論、他の色々な事情もあるだらうけれども、一つにはその住宅建築の為かとも思はれる。京都や、大阪や、名古屋等の都会地では、一般人の住宅に一種の土地柄のタイプがあり、非常に典雅な凝つた趣味で、極めて住心地好く造られてゐる。大阪や京都へ行つて、人の家庭を訪問すると、如何にも「家」へ這入つたといふ気持ちがする。それほど住宅が落着きよく、適度に薄暗い光線で和らげ、中庭や土蔵によつて、奥行き深く構成されてる。特に京都や名古屋などでは、普通の中産階級の庶民の家にもきまつて風雅な茶座敷と露地とがついてる。さういふ土地柄に住んでる人々は、実際に「家」そのものをホームと考へ、すべての楽しみと安息とを自分の家の中で充たしてゐるのだ。一生その深窓の中に閉じこめられて、殆んど外出を許されない支那の女は、この世に比類なく住み心地のよい部屋を持つてるさうだが、反対に西洋人が外出好きなのは、都会に住む大部分の市民が、自己の家といふものを持たず、殺風景なアパートや間借生活をしてる為である。今日都会に住んでる日本人は、この点で西洋人より幸福であり、借家住ひにしろ、たいてい自分の家を持つてる。公園といふやうな物も、西洋の真似をして造つたけれども、実際言ふと、日本人の生活にはあまり必要がないのである。にもかかはらず、東京の女が外出好きだといふことは、たしかにその住宅の居心地悪さが一つの原因になつてると思ふ。特にまたさうした外出好きの女たちが、所謂文化住宅 ― これほど俗悪で殺風景な住宅はない ― に住んでる郊外居住者の子女であることを考へる時、一層この臆測の確実性が加はつて来る。
 女は本来、家を守るべき筈のものである。職業婦人は別として、普通の良家の主婦や娘等やがこれといふほどの用事もないのに、家を外にして町を歩き廻るといふのは、社会風紀上の問題としても、決して悦ぶべき傾向ではないであらう。日本の新しい建築家は、この点で一部の社会的責任を負はねばならない。