日本語の普及と統制について
日本語を世界的に普及するには、何うしたら好いかといふ質問を、近頃諸所で受けるが、この答は極めて簡単である。昔ローマ帝国は、その領土と国際勢力の拡大に比例して、ラテン語を全世界に普遍させた。かつての繁盛した支那は、その文字と言語で朝鮮日本を植民地化した。今日地球上に太陽の没する事がないと言はれる大英帝国は、その国語を以て殆んど世界のエスペラント的通用語に代用させてゐる。日本語を世界的に普遍させるためには、日本を古代のローマ支那と同じく、世界の覇王的優者に進出させる外はない。政治的、経済的、文化的に、或る一国の勢力が支配権を握る限り、その版図内の住民たちは、必要から已むを得ず支配者の言語を学ぶのである。この場合にその支配者の国語が、学習にむづかしいとかいふことは問題でない。かつての日本人は、その優れた文化や藝術を学ぶために、万難を排して支那語や和蘭陀語を学習した。
今日、文化振興会あたりで、日本語の世界的普及について、その国際的方法論が議せられてゐるのは、たまたま日本の勢力が、亜細亜から欧洲にまで進出し、政治的にも経済的にも、世界の畏怖するところとなつてゐる事実を証明してゐる。かつての日本人にとつて、英語や漢語が必然の学習課目であつた如く、今日以後の紅毛人や支那人にとつて、おそらく日本語が必然不可欠の学習課目になるであらう。しかしその世界的普及を計る目的から、如何にせば日本語を平易化し得るかとか、如何にして日本語を外人に教ふべきかといふやうなことを、日本人が自から苦労して考へる必要はない。況んや他人の便利を計る為に、自らその自国語をローマ字化したり、外国語との普遍的共通化を思惟したりするのは愚の極である。いかなる外国人と雖も、物好きや好奇心で他国語を習ひはしない。彼等は皆パンの為に、利慾のために、或は自己保存の防禦の為に、必要に迫られて、已むを得ず外人鴃舌の語を学ぶのである。そしてかかる必要からは、学習の難易の如きは問題でない。
しかし今日日本語が、外人にとつて極めて学習困難の国語であることは、充分想像するに難くない。第一日本語は、動詞がフレーズの最後に来ることで、支那西洋の言葉の逆様である。次に「てにをは」といふものがあり外国語には類のない文法の働きをする。それから人代名詞に種類の多いこと、敬語が多く煩雑なこと、主格がしばしば省略されること、関係代名詞がないこと、単数と複数の区別がないこと、その為意味の論理的判然性を欠いてること等、外人にとつてずゐぶん厄介な難物であるにちがひない。だがしかしこんなことは、逆に僕等が彼等の外国語を学ぶ時に、ひとしく困難を感ずることであり、プラスマイナスでイコールの帳消しになつてしまふ。外国人の方から見れば、日本語は逆立ちをした言葉であるが、僕等の側から見れば、逆に彼等の言葉の方が逆様である。すべての聞慣れぬ外国語は、異邦人にとつて「悪魔の作つた言葉」である。
だが、それとは別の目的から、僕等は日本語の統制を切望してゐる。と言ふわけは現代過渡期の日本語が、実際始末におへないほど、支離滅裂の混乱をしてゐるからである。本当のことを言ふと、日本語の学習に困難を感ずるのは、外国人の側でなくして、却つて僕等自身の側であるかも知れないのだ。第一、小学校で子供に文法を教へる時、先生がテキストの無いのに困つてしまふ。古典の文章の語には立派な文法が出来てるけれども、現代口語の日本語には、未だそのグラムマアがないからである。つまり言ひ換へれば、文法の法則を発見することが出来ないはど、言葉が支離滅裂に混乱して、収拾しがたい状態にあるのである。それ故今日の問題は「如何にして外人に日本語を教ふべきか」でなくして「先づ如何にして日本語を統制すべきか」といふ、我等自身の内省問題に帰つてくる。
所でこの国語統制問題については、大正以来代々の政府当局者、特に文部省の当局者が意を用ゐて居るところであるが、政府の方針に一定の確信がないと見えて、内閣と大臣の変る毎に、常にその統制方針が動揺変化し、朝令暮改、却つて益々混乱をひどくするばかりである。たとへば仮名の書き方にしろ、少し前の政府は「トーキヨー」式を指令したのに、次の政府は「トウキヨウ」に改変し、全国小学校の教科書を改訂した。これでは学習の子供たちが、益々頭を混乱させるばかりである。
現代日本語でいちばん困る欠点は、文字の視覚によらない限り、耳で聴いて意味のわからない言葉があり、しかもそれが多量にあることである。ラヂオのアナウンスを聴いてゐると、必ず話の中に意味の取れない言葉が出てくる。その度毎に放送者は、これを文字の形に示して、一々「砲身」即ち「大砲の胴」とか、「詩心」即ち「詩の心」とかいふ風に解説づけるが、聴いてゐてこれほど馬鹿馬鹿しく、滑稽な感じのするものはない。外国人がこれを聴いたら、恐らく何と思ふであらうか。耳で聴いて意味がわからず、文字の視覚上に翻訳して、漸く対手に納得させるやうな、二重に手間のかかる厄介な言葉を、日常用語としてゐる僕等に対して、おそらく笑止以上の奇怪事とさへ感ずるだらう。日本語にこんな不便さがある限りは、たとひそれが世界的に普遍したところで、ラテン語やフランス語の如く、世界人類の文化語となり得ないのは勿論、英語のやうな実用的コンマーシアル語にもならないだらう。
我等の美しい大和言葉を、そもそもこんな風に悪化したのは、かつて支那の文字を輸入した時その原語の発音を等閑にし、平仄も抑揚もなく、無韻の日本読みでデタラメに発音したからである。元来象形文字といふものは、音標文字とちがつて、類似の混同し易い語が多く出来るので、支那人はそれを区別する為に、特に語の抑揚に変化をつけ、平音と仄音との別を厳重にし、所謂四声法によつて精緻な韻律学典を規定した。然るに日本人は、象形文字だけを輸入しながら、読み方の正しい韻律学を等閑にした為、文字面で読まない限り、耳で聴いて解らないやうな奇妙な言葉が、日常語として国語の中に紛れ込んだ。例へば支那人の場合、「太陽」と「大洋」、「製紙」と「製糸」、「賞牌」と「勝敗」との発音は別であり、四声の韻によつて区別される。それが日本人の場合、僕等は製紙会社と製糸会社、製綿会社と製麺会社とを、一々その漢字を示して、フィギュアルに重訳せねばならないのである。
しかし尚江戸時代までは、かうした日常語が比較的に尠なく、不便を感ずることが稀れであつた。僕等の賢明な先祖たちは、日常会話に於ては、できるだけ純粋の和語を用ゐ、努めて漢語を避けたからである。権威を尊ぶ官辺の用語でさへも、賞与、監獄、法令、逮捕等の漢語を避け、国粋の和語で「ご褒美」「牢屋」「お触れ」「召し捕り」などと言つた。然るに明治以来、いはゆる官員様の天下となつて、政府が先頭にこの種の漢語を濫用してから、書生先づこれを氾濫させ、下また上に倣つて国語害悪の因子を作つた。しかし就中悪かつたのは、西洋舶来の思想や観念やを、時のインテリが翻訳して、生硬な漢語にしたことだつた。例へば「家庭」「失恋」「相愛」「希望」「理想」「憧憬」「文藝」「学術」「主観」「客観」等、僕等が今日使つてる日常語の大部分は、殆んど皆この翻訳語である。もしこの種の漢語を全部日本語から除去したら、僕等は今日、何一つ思想上のことを話し得ないだらう。そしてしかも、これがいちばん国語の純潔性を汚毒させ、日本語を「耳で聴いて解らない言葉」に畸型化させて居るのである。(此処で不思議に思ふことは、物質上の事物に属するものが、多くは西洋の原語通りに、洋名で直輸入されることである。即ち例へば、シャッポ、シャボン、ランプ、ステッキ、タキシイ、バス、ゲートル、サーベル、ステーション、ビルヂング、デパート、アパート、ホテル、コンクリートの類。)
かうした現代日本語の猥雑を整理し、その非実用的不便さを救はうとして、普ねく世に叫びかけてるものに、ローマ字論者と仮名文字論者の一味がある。言ふ迄もなく彼等は、国語国字統制主義者の二派であり、その言ふ所に多く聴くべき真理がある。たしかに彼等の説を採用すれば、「製紙」「製糸」「静思」「制止」「生死」の如き異義同音の言葉は、次第に用ゐられなくなつて廃滅するか、もしくは必要から発音の区別が生れ、日本語にもまた支那西洋の言葉の如く、厳重な韻律法則が出来るであらう。和歌でもなく俳句でもなく、西洋風な韻律長詩をイデーとしてる僕等にとつて、この点ローマ字論者の主張は甚だ好都合である。
しかしながら彼等の実行して居る方法論には、いささか僕等の腑に落ちない箇所がある。たとへば彼等は、「僕は好きだ」「僕は嫌ひだ」「それは桜だ」「空は青い」「天は高い」等の場合、助辞の「は」をHAと書かないで、WAもしくは(わ)と書くのが普通である。だがこの場合の正しい発音は、如何に考へてもHAもしくは「は」であつて、WAである道理がない。それ故にこそ、僕等が日常会話でしやべる時は、HAのHがサイレントになり、普通の聴覚上には「僕ア好きだ」「僕ア嫌ひだ」「そりア桜だ」といふ風に聞えるのである。「空は青く天は高い」と言ふのを、文章語で「空青く天高し」と転化するのは、Hがサイレントになつた上に、母音のAが主語に附尾して省略され、語勢上の簡潔化をする為である。もしWAもしくは「わ」であつたら、如何に音便上に転化しても「僕ア好きだ」といふ風に聞える筈がないのである。すべてこれ等のことは、少しく聴覚神経を鋭敏にして聴いて居れば、誰も容易に帰ることなのである。しかしローマ字論者や仮名文字論者は、不思議にこの点が音痴であり、国語に対する「耳」の感覚を喪失してゐる。それにもかかはらず尚彼等は、自ら主張して 「話す通りの発音で書く」と言つてる。これよりひどい矛盾はない。
前に既に述べた通り、現代過渡期の日本語を、その混乱と不便さとから救ふものは、何よりも視覚に頼る習慣の廃止であり、耳だけで聴いて意味がわかる言葉の方へ、次第に正しく指導して行かねばならない。そしてこの目的からは、言語の発韻によく注意し、漢字輸入以来忘れられてゐたところの、我等の 「耳の健康」を恢復せねばならないのである。文部省の新方針が、以前の 「トーキヨー」「ソーデアロー」式を廃して、比較的正しい仮名づかひに変更したのも、おそらくは聴覚上に於ける発音のデリカシイを保存し、国語の乱暴な音痴的破壊を防せがうとする為だらう。況んや漢字廃止を唱へ、日本語の音標文字化を主張するローマ字論者が、自ら「国府津」をKOZUと書き、「関東」をKANTOと書き、「菓子」をKASIと書き、「蝶々」をTYOTYOと書き、以て自らその国語の無茶な音痴的破壊に率先するのは、如何にしても諒解に苦しむことである。なぜなら国府津の正しい発音は、停車場の駅札に書いてある通り、正に「かふづ」もしKAHUZUであつて、決して「こ−づ」もしくはKOZUではない。同様に関東の正韻はKWANTOであり、菓子はKWASIであつてKASIでなく、蝶々は「てふてふ」であつて「チョーチョー」ではない。もとよりかかる区別は微妙であり、今の聴覚を喪失し、国民ひとしく耳の健康を失つてゐる現代多数の日本人には、教ふべく容易に教へられない難事かも知れない。しかも我等の国語をその破滅から救済すべく、現代日本の教育が必須に要求するものは、何よりもその「耳の健康」の恢復であり、実に微妙なアクセントや平仄の差を、正確に聴きわけることの練習なのだ。もしその国民的訓練ができなかつたら、ローマ字論の採用の如き、既にその大前提に於て成立できない筈である。
かうした場合に、最も嫌忌すべき俗論は、誤つた実益主義や浅薄な便利主義である。彼等はその大衆的普通の実用性と便利さの故に「ソーデアロー」式仮名づかひを支持し、現代日本語の猥雑と混乱を肯定して、通用する一切の音痴的デタラメ言語を、無修正にそのままで採用しようと欲するのである。思ふにこの種の実利的俗論者が、意外にもローマ字論者や仮名文字論者の中枢を為してゐるかも解らない。そしてもしさうならば、僕は絶対的に彼等の主義に反対である。なぜなら彼等の意志することは、日本語をその不便さと不潔さから救ふのでなく、却つてこれを邪悪に流用させようとするのだから。凡ての場合、ザインをザインとして無批判に肯定しながら、一方でゾルレンの指導イデーを見ないものは、即ち所謂「俗論」であつて、志士の共々与しないところである。一時の利得と便利の為に、日本語久遠の計りごとを忘却し、その真の実用性と藝術美とを、共に二つながら破滅する如き思想は、すくなくとも僕等知識人の仲間から駆除したい。