日本の宴会
日本の宴合について、小泉八雲が外人の物珍らしさで、いかにもエキゾチックに印象的な描馬をしてゐる。
しかしここにいふのはそれではない。入貢が書いたやうな純日本式の宴合1卜塵の座敷に坐り、漕が出て臍部
が出び、垂者が来てお酌をし、舞妓が立つて踊り、最後に客が奉蓋しをするといふやうな − は、近ごろ僕ら
の仲間の婁合には殆んどない。このごろざらにある宴合といふのは、椅子に腰かけて西洋料理を食ひ、テーブ
ルスピーチをしておしまひになる婁合である。かういふのを洋式宴合といふのだらうが、外国で生活してゐた
人に開いてみると、どうも西洋本場の宴合とは、大分様子がちがふやうに思はれる。いはば一種の日本化した
洋式宴曾で、我が国濁特のものだらう。
僕は元来引つ込みがちで、多人数の中へ出ることを好まない性分なので、たいていの合には出ないのだが、
それでも東京へ移住してから、ずゐぶんいろいろな宴合へ出席した。そしてその度毎に、不愉快な印象ばかり
が残るのである。第一に不快なことは、開合の時間が一定しないことである。僕は生活のずぼらにかかはらず、
時間を守ることは極めてパンクチユアリチイの人間なので、必ず指定された時間かつきりに出席する0ところ
が行つて見ると、殆んど誰もまだ来て居ないのである。やうやく二人か三人の人が、捺室の隅の方に小さく囲
ってる始末である。所在がないので煙草を吸つて待つてると、やうやくぼつぼつと集まつて来て、捧室の中が
賑やかになる。だがそれでもまだなかなか開合しない。時計を見ると、六時開禽のはずのが七時になつてゐる0
正午に食つた童食の腹がへとへとに杢いてくる。七時牛になつて軽重が満員に近くなつてるのに、まだ食堂へ
の案内がない。どういふわけかと聞くと、出席のはずの人が、なほまだ二人ばかり来ないといふのである0や
っと入時になつて、やうやくテーブルに案内され、これから開合致しますといふ始末である0
おょそ社交上でこれほど腹の立つことはない。宴合に人を招きながら、約束通りの時間に来た人を食事時に
二時間も杢腹で待たせるといふことは、どう考へても穐節に合はない非祀である。もつとも大きな宴禽になる
と、その間に飴興を見せたり、ボーイがコタテルをついでくれたりするが、普通は放りつぱなしで手持不沙汰
に待たせておく。それで客も平気、主人も平気でゐる菊持は、どうしても僕には理解できない。西洋では、決
してこんなことはないさうである。客も正しく時間通りに集るし、主人側も必ず時間通りに閲合する。もし遅
刻した人があつたら、宴合の中途から出座するさうである。日本でもさうしたらよいと思ふのだが、どういふ
心理か諒解できない。
それで僕は、ある友人にこのことを話したら、君が時間通りに出席するから悪いので、日本の婁曾といふも
のは、習慣によつて一時聞くらゐ遅れて行くものだと敦へてくれた。それからまた日本の宴合では、重要な地
2jア 阿符
位にある偉い人ほど遅れて後から出席するのが法になつてゐる。あまり早く行つて待つてゐるのは、いかにも
御馳走を常にして来たやうで、品が悪く下司に見えると注意してくれた。説明をきいて、戌程さういふものか
と思つたが、それ以来宴合へ出席するのが、いょいょますます厭になつた。
席が決つて、テーブルへついてからは、ボーイが後から後からと皿を運ぶので、まるでガツガツ迫ひ立てら
れるやうに食はねばならぬ。宴合といふものは、元来人々とともに歓を交し、談笑享楽しながら飲食する筈のも
のなのだらうが、これではまるで食気一方、餓鬼の集合みたいなものである。特に僕のやうな上戸薫は、料理
に迫はれて全く酒を飲む暇がない。片手でビフテキを食ひながら、片手で忙しく日本酒を飲むなんてのは、ど
う考へても悪趣味の極致である。仕方がないから飲む方を断念して、チヤツプリンの「モダンタイムス」みた
いに、機械仕掛で後から後から出てくる料理を、無理に我慢して食つてしまふと、幹事が立ち上つて名を指名
し、テーブルスピーチといふことになる。これがまた我慢のできない難物である。一人二人なら聞いてもをら
れるが、五人も六人もの人が立ち上つて、型にはまつた御座なりの外交筋令を長々と述べるのだから、とても
退屈で我慢ができない。しかも面白くもないのに、一々手を叩いて喝宋したり、おつき合ひで義理に笑つたり
して聞かねばならぬ。やつとこの黄苦がすむと、それで呆つ気なく散合、おしまひといふことになるのである。
昔からいふ通り、酒と、女と、音楽とは、婁禽の三大必要條件である。酒もなく音楽もなく、女菊もない婁
合なんていふのは、てんで宴禽の部顆に入らないやうなものである。西洋人といふ妙な人種は、よくもこんな
無味乾燥な宴合を態明し、それで満足してるものだと思ひ、洋行した知人に尋ねたら、本場の西洋人のする洋
式宴合といふのは、そんなわけのものでなく、まるで様子がちがつてゐるのだづフだ。本場の西洋宴合では、
男ばかりの集合といふことがなく、必ずその妻や娘が同伴で列席する。それで男女一人おきにはさみ合つて席
につくことになるわけだが、その天人や令嬢といふ奴が、日本の蜃者以上に社交慣れて、男の話相手をするこ
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とがうまいのだから、たちまち隣席の異性同士で講がはずみ、おのづから和束裔々たる談笑の宴合菊分が出て
くるわけだ。しかも合の前後にはダンスがあり、場合によつては終夜の歓を意すこともできるのだから、それ
が本官の 「宴合」にちがひない。
日本でも近頃、かうした洋風を模倣して、まれに夫人令嬢同伴同座の婁禽があるにはあるが、これはまた普
通以上に窮屈でつまらない。さうした座上での御婦人は、キチンと椅子に腰かけたまま、セリイ酒一杯飲まう
とせず(これは後で皆ボーイの御馳走になつてしまふ)下目を使つてテーブルクロースと批み合つてる。これ
では男客も窮屈だから、よけいに獣つてむんずり屋になり硬ばつた顔をしてバタつく一方にな.つてしまふ。そ
れに第一、男女席が別々になり、互ひに遠くから批み合つてるのでは詰も出来ない。こんなことなら、女なん
か呼ばない方がずつとよいのだ。さうした種顆の宴合中で、就中代表的に不愉快なのは結婚式の賀宴である。
挨拶がすみ、花嫁荏増が退場した後になつてさへも、来客同士が歎つて差し向ひ、謹厳そのもののやうな点を
して、遽に最後まで、笑撃一つおこらずに経つてしまふやうなことが紗なくない。謹厳にするのは神前儀式中
の穏節である。祝賀になつてからの酒宴の座は、陽気にはしやいで座を賑やかに取りもつのが、常識で考へて
も紳士淑女の穫節だと思はれるのに、最も華やかなるべき結婚賀宴を、葬式のやうに陰気にさせて、自他とも
に祀に恥ぢず平然としてゐる人々の気持は、僕に諒解できない以上に外国人にとつても不思議であらう。その
くせ彼等は、純日本式の宴合では、申分のない紳士的社交人に攣るのである。即ち八雲のへルン先生が書いて
る様に、初め一應の儀祀挨拶があるまで、羽織袴に威儀を正して列座してるが、それが経つて酒宴に移り、拳
者の一小隊が入場して来るとともに、急に一奨して和気霜々たる宴合気分を構成し、自他ともに歓を交し、或
は未知の人と盃を交換して、眞に宴合そのものの意義を表すことを知つてるのである。
要するに今の日本では、純日本風の座敷宴禽以外に眞の「婁合」といふべき婁合がないのである。「ない」
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といふょりも、賓はそれが「有り得ない」のである。世間でいふ洋式宴禽といふものは、賓に宴合でも何でも
なく、畢に食つて演説するための集合にしかすぎないのだ。しかも多くの場合、それはたいてい義理で出席す
る筋の催しである。これが最も算用的で、現代人向に安償な簡易生活に邁つてるので、官今専ら流行するのに
ちがひないが、世界でおそらく、これほど挽趣味殺風景の宴合はないであらう。
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