能と戦国武士
能を初めて見物した一ドイツ人が、謡曲の旋律について述べた感想は、非常に意味の深いものであつた。彼はかう書いてる。全体の旋律から受ける感じは、印度の宗教音楽(念仏、読経)とよく似てゐる。しかし最も印象的には、何かの大罪を犯した人間が、自責と懺悔の念に耐へないで、歔歓哀泣してゐるやうに聴えると。この外人の批評をきいてから後、能を観る毎に、いつも私も亦、同じやうな感銘を強く受けるのである。そしてこの感銘の原因が、能や謡曲それ自身のモチーヴの中に、抜きがたく実在してゐることを発見した。
人も知る如く、能は猿楽や田楽から発展した。それらの原型能ともいふべきものは、すでに早く室町以前から、戦国の武士たちに愛好されてゐたものと思はれる。ところで当時の武士たちは概ね禅学によつて精神修養をし、危地に臨んで動ぜず、生死一如の達観に到る武士の心がけを学んでゐた。そのため鎌倉室町の時代においては、後世徳川時代の儒教と同じやうに、禅が武士道と結びつけられ、禅宗が武家の公式宗教となつてゐたが、一面にはまた、法然、親鸞等によつて開祖された念仏浄土宗が、武士階級の間にも広く信仰された。
しかし地獄一定の懺悔を説き、西方浄土の悲願を説き、念仏三昧を教へる法然等の新教は、本来空の不動心を教へる禅宗とは反対に、極めて人間的哀傷感に充ちたリリカルな宗教である。禅学は儒教と同じく、ストイックな武士道精神と一致する要素を多分に持つてゐるが、念仏浄土宗の悲願精神は、法然自ら、自力本願の修行に耐へないやうな、意志薄弱の衆生のために啓いた愚痴念仏の道と説いた如く、およそストイックな武士道精神とは、対蹠的のもののやうに思はれる。それにもかかはらず、鎌倉時代に浄土宗が開祖され、法然、親鸞の新宗が一世を風靡したのは、殺伐誅戮を事とする武士の心に、それが深い慰安と安心立命をあたへたからである。熊谷直実をはじめ、当時の多くの武士たちは、彼が甲胃を脱いで武士を廃業したその日から、直ちに浄土宗に帰依して念仏三昧の日を送つた。
江戸泰平時代の裃をきた武士とはちがつて、戦国時代の武士は、日夜に戦場に馳せて殺戮を事としてゐた。敵は周囲の到るところにあつた。昨日の親友は今日の仇敵となり、昨日の主君は今日の敵将になつた。そして骨肉相食み、父子兄弟が左右に陣別して殺し合つた。戦陣に臨んで弓をひく時、彼等の念中にあるものは、ひとへにただ武勇の功名あるのみ。人倫人情を顧みる如き暇はなかつたであらう。しかし事経つて平和が来た時、初めて彼等は、その犯した罪の由々しく恐ろしいことを考へる。半夜夢にうなされてる武士の枕頭には、彼の手にかけて殺した親友や骨肉や、罪も怨みもない可憐な若武者の姿やが、連綿として続々現はれてくるのである。それからして彼等は、にはかに世の無常を感じ、仏門に帰依して懺悔購罪の生涯に入るのである。
それ故に武士と僧侶は、戦国時代における二律反則のやうなものである。私は子供の時、平清盛や、上杉謙信や、北條泰時が、頭を剃つて僧衣を着け、大入道になつてゐる図を見て不思議に思ひ、妙にグロテスクの思ひがした。だが彼等の場合にあつては、それが必然の心境であり、せめて形の上だけでも、贖罪の意志を表することによつて、自らその倫理的良心を慰めてゐたのである。そして一層自由の環境にあつたものは、熊谷の蓮生坊の如く、或は文覚の如く、西行の如く、潔よく武士を捨てて出家隠遁してしまつた。塵の世を拾てて山家に入る遁世隠者の思想は、実に戦国における特有の時代思潮であつた。かくして日本の武士道と「物のあはれ」の仏教情操とは、西洋における騎士道とキリスト教の如く、不離にして一体な物の両面となつたのである。そしてかかる武士道精神の典型を、近く人々は乃木大将に見るのであつた。
放順港に多く部下を失つたことを、ひとへに己が責任として世に謝罪し、敗将ステッセルに同情の涙を注ぎ、二子を喪つて無常を観じ、遂に明治大帝に殉死した乃木将軍は、常に「物のあはれ」を感じ続けて、生涯を懺悔念仏に終つた人であつた。将軍がもし戦国乱世のせに生れてゐたら、熊谷直実等と同じく、必ずや出家遁世したにちがひないのだ。
能と謡曲とは、かかる乱世戦国の時代に生れ、後に室町時代に至つて完成した。そしてこれを愛護したのは、さうした贖罪世紀の武士たちであつた。外国人の耳に響いたごとく、能の舞台情調や謡曲の旋律するモチーヴに、南無阿弥陀仏の声を和して、大罪人の歔欲するごとき懺悔の哀音が、綿々切々として聞えるのは当然である。そしてその哀音を聴き得る人だけが、真にまた能を理解し得る人であらう。