蟻と近代戦争

 メーテルリンクの「蟻の生活」といふ旧版の本を、この頃書架の隅に発見して、何年ぶりかで読み返してみたが、時局と関連して新しい興味があつた。この書は主として蟻の国家と社会組織についての記述であるが、詩人科学者としてのメーテルリンクは、人類以上の最高度に発達した蟻の社会について、しばしば感嘆と羨望の辞をもらしてゐる。特に蟻の戦争についてかう書いてゐる。蟻を好戦的な動物のやうに考へるのは、誤つた素人の俗見である。蟻は本来極めて勤勉な労働者であつて、何よりも平和を愛する動物である。しかしその社会の平和や安寧が、何等かの事情によつて危機に際する場合だけは、驚くべき勇敢無比の戦士になる。普通、蟻の戦争は、労働蟻の卵を他から掠奪する必要に迫まられた時、もしくは外敵に侵略された場合にのみ、極めて稀れに行はれる。しかしその戦争は組織や軍略の文明的なのに拘らず甚だ人道主義的であつて、鹵獲の必要以上には決して無用の殺戮をせず、出来得る限り、死傷の惨害を避けようとしてゐる。たとへば或る場合に、攻撃者はその大軍を集中して、敵の巣の一方を攻撃する。そして敵がこれに防戦するため、全軍の兵力をそこに動員してゐる間に、他の部隊が背後に廻り無防禦の空巣に入つて卵を奪ひ、全く一兵一卒をも死傷しないで、そのまま無流血に引き上げてしまふやうな作戦をすると。
 メーテルリンクはこれに附記して、人間の戦争がいかに野蛮非人道的であり、無用の流血や残虐やを悦ぶかといふことを慨嘆してゐる。蓋し蟻の集団的社会生活は、歴史的に人間よりずつと早く発達した。人間が社会生活をした歴史は浅く、明白に言つて我々は未だ真の「社会的動物」になつて居ない。今日の人間社会は、言はば「利己主義者の寄合ひ世帯」にすぎず、社会として甚だ不完全のものにすぎないのである。したがつて戦争に於ける観念も、蟻とちがつて我々はなほ甚だプリミチーヴであり、野蛮の好戦本能から脱して居ない。もう少し詳しく言へば、人間の戦争は、必要にせまる鹵獲物の実利以上に、より好戦本能の盲目的のパッションに行動されてゐる。したがつてまた、無用の流血や残虐が多くなるのは当然である。
 しかし流石に人間共も、近代に於ける殺人武器の恐ろしい発達と、その大規模戦の凄惨な結果におびえて、最近漸く、戦争への視角を転化して来たやうに思はれる。すくなくとも欧羅巴の諸国民は、前世界大戦以来、戦争の惨禍を身に沁みて痛感してゐる。彼等のすべてが願つてゐることは、でき得る限り戦争を避けたいといふこと、もし已むを得ない場合に於ても、最少限度の必要以外に、破壊や流血をすくなくしたいといふことである。そして今度の欧州戦争が、かうした彼等の願望を事毎に実証してゐるやうに思はれる。特にヒットラーは、かかる時代民衆の心理を掴んで、初めから戦争を極めて合理的に、巧妙な政策で発展させた。たとへば彼は、初めから無流血主義を宣伝して、巧みにチェッコやオーストリアを併合し、已むを得ずしてポーランドと交戦した後さへも、英仏との戦争を可及的に避けようとし、しばしば和平を提言した。そして事破れた一瞬間、直ちに起つて電撃一閃、旬日にして仏蘭西を屈服せしめた。この時多くの人々は、余勢を駆つて直ちに英国攻撃に移ると思つたのに、意外にもまた外交戦に逆戻りし、無流血の中に事を収攬しようと計画してゐる。
 つまりヒットラーの意図してゐることは、ドイツの実利を獲得する以外には、できるだけ戦争の惨禍を避け、無用の流血を避けようといふのである。そしてこのヒットラーの意志は、とりも直さず独逸民衆の一般的意志にほかならない。かれら独逸人もまた、英国人や仏国人と共に、前大戦の痛ましい経験によつて、戦争の悲惨を痛切に知つてゐるのである。それ故ポーランド戦争が起つた時、彼等の或る一部には、ヒットラーの無流血主義を楯にとつて、その破綻を攻撃したものがあつたほどである。
 世界の意外事と言はれた、仏蘭西のあまりに脆い降伏も、同じやうに、戦争忌避の時代心理を実証してゐるし、巴里やロンドンの大都市が、予想に反して大規模の空爆破壊を免がれてゐるのも、やはり戦争の惨鍋を可及的に避けようとする、人心意向の黙約的な現はれである。特に今次の戦争に於て、未曾有の大会戦にも拘らず、敵味方を通じて死傷者の数が極めて尠く、却つて捕虜がその数倍の多数に達してゐるのは、最もよく、この露骨な事実を証明してゐる。実際人々はもはや心から戦争を欲して居ないのである。だがそれにもかかはらず、人間の慾深さは無限であり、既に多くを持つてゐるものは、その一分をも取られまいとして血眼になり、未だ多くを持たないものは、油断なく他から奪はうとして必死になつてゐる。そこで結局、戦争が避けがたく起つてゐるが、此所に所謂「河豚は食ひたし命は惜しし」といふ矛盾のヂレンマが生じて来る。つまり言へば人々は、できるだけ戦争の惨禍を小規模に限定して、できるだけ多くの実利を鹵獲したいのである。
 それ故に近代人の戦争心理は、古代人のそれと大いに異つて居る。成吉思汗や歴山大王に率ゐられた昔の蒙古人や希臘人は、戦争そのものにロマンチックな詩美を感じ、男子無上の壮快事として、純粋に好戦本能のパッションから半ば酩酊状態で戦争した。だが今日の知性的で実利主義の人々は、もはや成吉思汗や歴山大王のやうな英雄によつて、その単なる帝王的権力慾や、無意味な領土拡張慾やの、空虚なヒロイズムの犠牲になることを欲しない。今日文明国の人々は、何よりも先づ自己の生活を考へ、自己及び自己の属する社会と民族との、現質的な実利実益を考へて居る。そしてその実利実益が、確実に保証される限りに於て、初めて戦争の意義を認め、初めて真に犠牲的の勇猛心を起すのである。
 かかる今日の民衆を率ゐるものは、もはや成吉思汗タイプの英雄ではない。今日の新しい英雄は、さうした軍人的天才者でなくして、ヒットラーやムッソリーニの如き、寧ろ純粋の政治家的天才的者である。なぜなら今日の如く、人心が可及的に戦争を忌避する時代には、常に軍略の始まる前に、外交政治の巧みなカケ引が必要となり、事実またそれのみが、戦争の勝敗を決するからである。おそらく人類の未来に於て、戦争は商業と同じく、一つの実利的な外交カケ引にさへなるであらう。現に我々のそれよりも遙かに発達した蟻の社会に於ては、実利以外のどんなことも、戦争の動因に入つて居ない。蟻がその戦争に於て、敵味方の犠牲者をできるだけ尠なくし、可及的に殺戮を避けようとするのは、人間の観察者が思惟する如き、人道主義者的なモラルからするのではなく、彼等の本能が智慧づけてゐるところの、遠大にして徹底的な実利主義からしてゐるのである。道徳が実利主義や利己主義の本能と一致する時、それが真の理想社会である。最近代の人間戦争は同じやうな実利主義から、表面上にはその残虐性を尠なくし、次第に蟻のそれに近づく如き外観を呈してゐる。もしそれが更に一歩進めば、外交上の威嚇や虚勢のカケ引のみで、戦争を全く未然に防ぐこともできるのである。そして現に事実上ヒットラー等が、その巧妙な近代戦術を、すくなくとも意識的に計画して居るのである。「文武は車の両輪の如し」といふことは、昔から常に言はれてゐる。だが今日では、武はむしろ文(政治)の広い圏内に内包される。なぜなら軍備そのものが、今日の世界に於ては、むしろ威嚇の為の政治手段になつてゐるからである。第一次欧州戦争に於て独逸が敗北した真の原因は、カイゼル及びその一派の軍閥が、軍事行動を政治行動の上に置いた為に、外交と内治を誤つた責だと言はれて居る。今日の英雄ヒットラーは、この点で独逸を救ひ、併せて新世界の秩序を再建設することに成功してゐる。彼に対する我等の最も大きな興味は、歴史上の多くの大政治家と同じく彼が時代の民心をよく理解してゐることで、超人の偉大な心理学者であるといふ点にある。