詩壇に出た頃



虞女詩集を出すまで

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 僕が本気で詩を書き出したのは、高等学校を中途で止め、田舎でごろごろ暮して居た時からである。その前
にも歌や新饅詩のやうなものを少しは書いたが、少年時代の僕は、むしろ文学よりも思想的なものに興味をも
って居たので、解りもしない哲学書の顆を乳讃し、少年の杢虚な頭脳で、生意気にも宇宙論や宗教論を書いて
得意で居た。高等学校に居た時には、今の「水蜜」の歌人石井直三郎氏などと同級で窒を一緒にしたので、盛
んに道徳論や法律論を鋼はせ、毎日友人と議論ばかりして居た。そんなことで文学にはあまり熱心でなく、僕
自身も小哲畢者をもつて任じて居た。友人たちは僕のことを詭粁学者と渾名し、煩さく議論をしかけるのを嫌
がつて敬遠して居た。
 学校を止してからは、音楽に熱中してギタアなどばかり弾いて居たが、側ら小説や詩集などを讃み始めた○
常時詩壇には、北原白秋、三木露風の南B頭を始めとし、川路柳虹、高村光太郎、佐藤春夫、西條八十、富田
砕花等の諸氏が既に名を成して威張つて居り、頑士幸次郎、山村暮鳥、加藤介春、生田春月等の諸氏も新進の
2Jア 廊下と室房

元気で廼躍して居た0しかし常時の僕には、白秋氏以外の人は全く興味がなく、殆んどだれの詰も讃んで居な
かつた0ただ白秋氏六だけを愛讃して居た0そこで僕の稀れに作る詩は、たいてい「思ひ出」の模倣みたい
になつてしまつた0詩には自信をもつことができなかつた。
それでも後には、やつと白秋氏の影響から脱し、多少自信のある詩が書けて爽たので、常時白秋氏の出して
居た雑彗ザムボア」に投書した○この慧には、前から室生犀星が詩を書いて居り、殆んど毎競掲載されて
居た0白秋氏は室生君を非常に愛して居て、その詩を常に激賞し「琴詩壇の新しき俊才」と言つて推薦され
て居た0僕豊た室生君の詩が好きで、むしろ白秋氏の詩以↓に愛讃して居た0伺この「ザムポア」には、室
生君の外に最近死んだ大手拓次君が吉川惣蒜のペンネームで詩を書いて居た0それから伶同じ慧に、最近
若い人々の間に伍して活躍してゐる竹内勝太郎氏も詩を書いて居た。
常時の詩壇では、この白秋氏の「ザムポア」と三木露風氏の「未来」とが欝する権威であつて、奉)の
南雑誌に作を載せれば、直ちに詩人として認められるほどの構成を持つて居た0それほどの難詰であるから、
いくら投書したつて容易に載せられるものではなく、たいてい墾育にきまつて居る。僕も線香を覚悟で出した
が、事ひにして採用され、その1白秋氏から賞讃の御言葉まで頂戴した0詩の投書といふことは、僕としては
これが始めての経験だつたが、うまくパスしたので嬉しかつた0その最初の投書の詩は、新潮慧ら出した僕
の詩集「純情小豊」の中にある「夜汽車」といふ詩であつた0(こ打「夜汽車」は後に改題したので、初め
の題は「みちゆき」と言ふのであつた。)
 しかしこの「ザムポア」は、僕の詩の載つた琴を最後として廃刊してしまつたので、折角詩壇に出かかつた
僕も、その後に雲の横綱を解くしてしまつた0だが事ひに白秋氏の心付で、後には若山牧水氏の雑誌「創
作レに篠表する便宜を得た0この「創作」には、僕と室生君との外、白鳥省吾、山村暮烏、書川惣高等の諸
2∫β
k斉が書鴨で居たャ∵ごの吉川惣一郎君(大手拓次)と室生犀星君と、僕とを泣ぺて、常時の詩壇人は白秋靡下の
三羽鴇と栴した。最近その三羽鵜の一羽が死んでしまつたので、僕としては甚だ寂しい思ひがする。
 かうした雑誌の関係から、常時若山牧水氏とよく逢つて謡をした。牧水氏に連れられて始めて吉原の遊廓へ
案内され、朝締りの酒の味を教つたりした。牧水氏の印象は今考へてもなつかしい思ひ出であり、忘られない
人であつた。しかし室生君とは交際がなく、遠地に居て手紙の往復をするばかりだつた。昔時僕は全く室生君
の詩に惑溺して、その小曲の如き一つ残らず暗詞したほどであつた。町を歩く時も、散歩する時にも、いつも
小饗で室生君の詩を朗吟して居た。それほどのファンであるから、自然に僕の詩の中に室生君の言葉が現はれ、
つまり模倣になつてしまつたのである。その頃「アララギ」を編輯して居た斎藤茂吉氏にもよく逢つて講をし
たが、茂吉氏は始め僕の「ザムボア」に出した詩を激貸してくれたにかかはらず、その後に書くものを一向に
讃めてくれない。のみならず「詰らない詩だ」といつて一蹴された。僕が頼に障つてその理由を開いたら、室
生犀星の模倣だからと答へられた。たしかに模倣と言はれても仕方が無いほど、室生君の詩のスタイルが僕の
中に浸入して来たのであつた。前にはやつと白秋氏の影響から脱した僕が、今度はまた室生君の捕虜になつた
わけで、その後の僕の苦悩はひとへにその影響を脱することにのみかかつて居た。そして割合に早く、その方
の切り捨ては成功したが、その短かい間が苦しかつた。
 かれこれして居る中に、金澤に居る室生君から手紙が来て、近く前橋へ行くからよろしくたのむといふ通知
であつた。僕も室生君には是非逢ひたかつたので、すぐに承知の返事を出した。そして早速室生君がやつて来
た。この「あこがれの詩人」に対する、僕の第一印象は甚だ悪かつた。「青き魚を釣る人」などで想像した僕
のイメーヂの室生君は、非常に繊細な神経をもつた青白い魚のやうな美少年の姿であつた。然るに現貰の室生
君は、ガッチリした眉を四角に怒らし、太い櫻のステッキを振り錮した頑強な小男で、非常に粗野で荒々しい
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感じがした0その上言葉や行為の上にも、何か垢ぬけのしない田舎の典型的な文学青年といふ感じがあつた。
それは都合人的な気質をもつてる僕の神経には、少し荒々しく粗野にすぎる印象だつた。しかしそれょりも驚
いたのは、まるで無二竿やつて衆たことだつた0それで前橋に官分滞在するからよろしく頼むといふ御宣託
である。
常時全く親がかりで暮して居た僕0金五十鏡也の小道鏡をもらふためにも、一々使用上の理由書を提出しな
ければならなかつた僕として、この圃々しいお客様の待遇には全く困つた。その上伺困つたことには、父が文
筆者をひどく毛嫌ひすることである0・父は世の中に嫌ひな者が三つあると言つた。文拳者と新聞記者と、それ
から無職人ださうである0僕の文畢趣味なんかも、父には内澄で隠れてやつて居たほどなので、あまり風鰹の
好くない室生君、おまけに無職人と文畢者と、父の嫌ひな二つの資格を具へた鳳来人が飛び込んでは、此虞で
どんな騒ぎが起ることかわからない○そこで僕の第一に苦心したことは、どこか父の目に付かない所へ室生君
を隠しておいて、内諾に滞在費を工夫することであつた。
 そこでとにかく、利根川の岸遽にある一明館といふ下宿屋へ案内して、毎日僕の方から訪ねて行つて講をし
た0そこの下宿屋の南の座敷で、室生君は銀紙のコップを作つて可愛い女中にやつたりして居た。それから下
駄を履いて河原に降り、土筆や嫁菜の生えてる早春の河遽を造逢しながら、彼の詩集にある「前橋公園」や
「利根の砂山」などの詩を作つて侍しい放愁を慰めて居た0第一印象は悪かつたが、交際するにしたがつて、
僕はだんだん室生君の人物が好きになつて来た○彼は決して粗野の荒々しい人物ではなく、非常にデリケート
な紳経と感受性とを持つた人間、即ち天質的の詩人であることが鮮つて来た。それが粗野に見かけられたのは、
彼の性情の中に自然人としてのナイーヴな本質がある為と、一つには過去に殆んど教養が無いためであつた。
ハ室生君の学歴は小学校二年だけであつたJ
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、費卜月速一周ぜ滞奄して居る間、毎日二人で逢つて話怒出で居た月下町の煙草塵に一寸締虜な娘が居て、
いつも店に坐つて居た。室生君はそれを嫁にもらひたいから、僕に交渉してくれと言ふのである。乞食同様な
無名詩人のところへ、普通の娘が嫁に来る筈が無いと思つたが、それでも念のために先方へ話してみたら、果
して頭から突慢どんに断られた、。しかし室生君は、別に失望もしないで平気で居た。つまり彼は、金の無い寂
しさと一緒に、性の悩ましい寂しさを持てあまして居たのであつた。だが僕の方では、彼の長滞留を持てあま
して、そろそろ引きあげてくれるやうに講を進めた。すると室生君は、金澤へ蹄れば父の遺産が三千園だかも
らへると言つた。(それがデタラメであることは後で解つた。)それでとにかく、郷里へ締ると寸ふことになり、
停車場へ迭つて行つた。彼はその頃、一種の妙な長髪にして、女の断髪みたいに頸で一直線に毛を切つて居た。
それが四角の水平の眉と封照して、丁度古代エヂプト人のやうな姿に見えた。その室生君が、櫻の太いステッ
キをついて歩いて行く背後姿を、僕は後から見迭りながら、言ひ方もなく寂しく悲しい思ひに耽つた。一膿こ
の男は、僕の所を立つて何虞へ行かうとするのだらう? 何虞まであの櫻のステッキをついて行くのだらう?
その前途の造を考へて暗然とし、友情の義理を果し得ない僕の境遇を悲しく思つた。
東京へ出るやうになつてから、すヾに北原白秋氏を訪ねた。その頃白秋氏は、まだ両親と同居して居られ、
若く美しい夫人が居られた。この夫人こそ、例の名歌集「桐の花」に歌はれて居る白秋氏の懸人であつた。白
秋氏のやうな稀有の天才詩人と、すぐまのあたりで逢つて講をすることは、僕にとつて夢のやうな幸運の悦び
であつた。白秋氏は家中をあげて僕を歓待され、是非滞留するやうにすすめられたので、そのまま三日も泊つ
てしまつた。まだ若い紅顔の白秋氏はYいつも赤いネクタイをかけて居られた。辟途の倖の中でも、僕は白秋
氏のことばかり考へて居た。
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常時白秋氏は、新しく雑誌「アルス」を蜃行して居られたので、僕もまた室生君や大手君等と一緒に、毎兢
殆んど快かさず詩を書いて居た○この頃僕は、既に白秋氏や室生君の影響を完全に脱却して、妄の風格を有
する三イクな詩を書いて居た0その僕の攣つた詩は、常時の詩壇から邪道硯せられ、奇警で乱暴な破蓼的の
詩として攻撃された0特に三木露風氏を中心とする象徴詩汲の詩人たちから非難された。そこで僕の立場とし
ては、勢ひ祀士幸次郎君等と聯合して「反象徴詩渡の主張」を掲げねばならなくなつた。これが後に「文章世
界」に書いた僕の有名な論文「三木蕗風表の詩を放追せょ」となつて現れたのである。常時白秋氏と露風氏
とは、詩壇の二大王国を為して封立して居たので、露風氏を中心とする象徴詩汲の詩人たちは、畢に僕ばかり
ではなく、白秋氏を正面の敵として盛んに攻撃した0然るに白秋氏の陣営には一人の論客もなく、皆獣つて詩
を書くばかりの人たちなので、僕が一人で跳び出して戦線に立ち、柳澤健氏や富田砕花氏を封手に廻して大に
男ましく奮闘した0白秋氏のことを悪口する人々に封しては、自分のことを言はれるよりも腹が立つので、い
つもムキになつて食つてかかつた0(そのため僕は、敵のものから白秋の飼犬と毒舌された。)
 やがて僕は、室生犀星君と計つて雑誌「感情」を態行した0常時は詩の雑誌が極めてすくなく、詩壇全部で
やつと十種位にすぎなかつたので、反響も大きく、諸方で讃まれて批評された。この雑誌の装暢は、表紙の意
匠れら釘装まで、僕がすつかり自分で考へ、ただ表紙に入れる檜だけを恩地孝四郎君に措いてもらつた。その
恩地君の檜は非常に新鮮で面白く、毎兢攣へて新しいものを用ゐたので、一般に極めて好評であり、たちまち
にして模倣の雑誌が積出して来た0今その古い「感情」を出して見ても、装幌の趣味が好いことで自分ながら
感心する○ちょつと葉巻煙草の箱のやうな碇い古雅な意匠で、これだけ好い趣味の雲仙は、今日の詩壇にも見
笛らないほどである○因に恩地君は、この「感情」の表紙を措いてから一躍新しい毒家として進出された。
 この雑諺の同人としては僕と室生君との外に、初期は恩地孝四郎君一人だけであつたが、後には竹村俊郎君
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と多均不二君とが加はつて五人になつた。死んだ山村暮鳥君も後に準同人として加はり、末期に至つては色々
な若い人が書き出したので、雑誌の特色が無くなつて鰐散してしまつた。やたらに若い人たちを入れたのは、
社費の経済上の都合であつて、人選はすべて室生君がした。
 その頃僕はドストイェフスキイの小説を始めて讃み、すつかり感嘆してしまつたので室生君や山村暮烏君に
も推薦して讃むやうにすすめた。やがて二人ともドストイェフスキイに魅力されて、僕と同じく熱心なファン
になつてしまつた。室生君の如きは、その第一詩集(愛の詩集)の表紙に、ド氏小説中の一少女ネルリの顔を
描いたほどであつたし、山村君もまたその詩の中にドストイェフスキイのことを盛んに書いた0しかし室生君
も山村君も、ド氏の文季情操の一部にある感傷的な道徳性、即ち人道主義の方面ばかりを主として見、常時の
「白樺汲」の人々と同じく、ドストイェフスキイを人道主義者として畏敬して居た。然るに僕の方では、主と
してド氏の文畢から、その深刻な心理学や、犯罪拳や、ポオなどに共通する病的攣態精神の方面ばかりを見て
居たので、同じド氏に封する崇敬でも、僕と二人の友人とは、全然見解の鮎を異にして居た。そこで室生君や
山村君と、ドストイェフスキイ論でいつもよく議論をし、互に意志の疎通しない寂しさを感じ合つたが、今に
して考へてみれば、此虞に僕等の性格の別れる個性の分岐鮎があつたので、一方で僕が「月に吠える」の詩人
となり、室生君等が「愛の詩集」の詩人として、反封の道に態展した素質の因縁であつたのである。
魔女詩集「月に吠える」を出したのは、たしか僕が三十四歳の時であつた。それが偶然にも、ボードレエル
の「悪の華」と同年であると言つて就編してくれた人があつたが、僕としては少し寂しい思ひもした0と言ふ
のは北原白秋氏や三木露風氏等が、早r既に十七歳位で詩壇に出、二十歳を越えた時に既に堂々たる大家にな
って居たことを考へ、自分の過去の無為と非才とを悲しく反省したからだつた。(もつとも少年時代の僕は、
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文壇に名を為さうなどといふ野心を少しも持つて居なかつた0僕の理想の英雄は、大藁家と大哲筆者であつ
た。)
詩集の出版で困つたのは、やはりまた金の問題だつた0かうした出版の事情に通じない僕は、昔時大久保に
住んでゐた歌人前田夕暮氏を訪ねて相談した0前田氏を訪ねたのは、その難詰「詩歌」に僕が詩を書いてる関
係からであつた0餞談に亙るけれども、常時は歌壇と詩慧密接に接近して居て、若山牧水、前田夕暮、斎藤
茂吉等の歌人諸氏が、妄で大に詩壇の評論をして僕等を導き、且つその雑誌を開放して牛ば詩のためにさい
てくれた0したがつて常時の歌人はト綜括的に日本の詩歌界をジャーナ〜する概があり、却つて僕等の詩人よ
りも世界が廣く、堂々として威厳を持つて居た0(そのもつと昔は、輿謝野革幹や晶子氏やの歌人が、賓に日
本の全文壇をジャーナルし、且つ自ら王位の地位に居て指導した0今の歌人の地位は、賓に小さな穴の中に低
落したものである。)
 夕暮氏の計算では、最低に見三百園は入用だと言ふことだつた0常時の僕としては、出費を父にせぴるよ
り外に造がなく、しかもそれは容易ならぬ困難だつた○前にも書いた通り、父は羞丁と文学者とを毛嫌ひにし
て居た0父は文学者のことを「羽織ゴロ」と稗して居た0そして僕にしばしば意見して言つた。「お前は何に
成つてもかまはん0しかし決して羽織ゴロ潔けはなつてくれるな0」然るに父の意志に反して、遽にその羽
織ゴロになつてしまつた僕は、全く親不孝の不肯の子で、今更父の墓の前に、懲塊に耐へない思ひをするばか
りである0が、常時としては詩集を出すことに熱中して居たので、何とかしてうまく父をゴマカシたいと悪計
した0そこで母音情を打ち明け、他のことの用途にしてせびつてもらひ、到頭三富を提つてしまつたいそ
れで漸く詩集が出たわけだが、常時としてもあれだけの嘩童を入れ、あれだけの装鳩をした本が、三百風位で
 よく出水たものだと思ふ0この鮎で今でも出版者の前田夕暮氏に感謝して居る。
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r「月に吠える」 は、ノし航し出ると同時に態址貫禁止を食つてしまつた。額田時僕は田舎に居たので甚nソ措名義人
の室生君が警察に呼ばれた。係りの役人の説明によると、中の二篇ほどの詩が意く、風俗壊乱になるのださう
である。その悪い詩といふのは、今から見て何でもない普通の詩で、全く馬鹿馬鹿しいやうなものであるが、
警察ではそれを丁寧に朗讃して聞かせてくれたさうである。後で室生君の話をきくと、巡査がそれを朗讃する
のを恭いてゐると、如何にも猥嚢の感じがしたと言つた。しかし室生君の将明がよかつた為か、幸ひにもその
二篇の詩を別除することによつて解禁された。ところが既に本は街の店頭に出て居るので、巡査が一々本屋を
姻つて、その部分の詩四頁ばかりを引き裂いて行つた。そのため初版本は、その分だけ破いて落丁になつて居
るのである。
 この饅資禁止事件は、思ふにあの詩集の標題や装嶋やが、常時としては甚だ奇警で珍しく、何か妙な異様の
ショックを役人に輿へた馬だと思はれる。特にあの田中君や恩地君の挿蓋は、何か解らぬながらも直覚的に
「怪しい」といふ漁感を警官にあたへたにちがひない。そこであの詩集が挙動不審のカドで引つ張られたわけ
なのだが、調ぺて見れば別に犯罪の形跡もなく、どこと言つて別に怪しい節もないので、無事に放免してしま
つても好いのであるが、やはり何かそのままではすまない気がするので、無理に二箔の詩を探して叱つた上、
説諭放免といふことになつたのであらう。僕はその件を聞いた時に、てつきりこれは挿檜でやられたと直覚し
た。葺際あの中には可成キハどいエロチックの檜が入つて居た。特に田中君の描いた赤紙(それは劇薬の包紙
である) の檜の中には女の××を手で××してゐる物凄い奴があるので、これが禁止にならなかつたことは、
今日の常識で考へても、むしろ不思議に思はれる位である。むろん係りの役人に解らなかつた為であるが、何
かよく鮮らないながらも、直覚的に「怪しい」といふ感じをあたへたので、その嫌疑が詩の方へ廻つて来たに
ちがひないのだ。とにかく危ないところで禁止が助つたのはありがたかつた。(この禁止事件もまた、偶然に
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ボードレユルの「慈の華」初版と符合するといつて、前と同じ人が政商しでくれたひ)
詩集の批評は漁想以上に好評で、至るところに大喝采を博した。河井酵著、野口米次郎・」川路柳虹、高村光
太郎、山村暮鳥、加藤介春、日夏秋之介等、昔時の詩壇を代表してゐる詩人が、一再に皆諸方で激賞してくれ
た0特に詩人乗小説家の岩野泡鳴氏の如きは、雑誌「文章世界」に批評を書き、同氏としてはかつて無い最大
の讃尉を述ぺてくれた。山村暮鳥と加藤介春の二氏は、これを日本最高の肇術とまで、最高級に讃めてくれた。
昔時伶健在で居た森鴎外先生にも一本を戯じたところ、丁寧な手紙で穫状が衆、近頃最も面白く讃んだ好詩集
だと言つて讃めてくれた。それに東昇朝日や時事を始め、各新開がその新刊紹介欄で十行もの長い許を書いて
賞頒してくれた。無名の詩人の虞女詩集に封して、新聞が十行もの新刊紹介を書くといふことは、常時に於て
は他に例のないことだつた。僕は一躍して詩壇の筏形役者になつてしまつた。ただ内心少し寂しかつたのは、
常時僕が最も畏敬して居た先輩蒲原有明氏から一言の批評も開くことができず、詩集の受取り端書さへもらへ
ないことであつた0しかし北原白秋氏は、僕の成功を祝して祀宴を開いてくれた。室生犀星君は、自分より後
から出て先に馳けぬけた僕の姿を見て、さすがに少し寂しさうな様子であつたが、それでも僕のために心から
悦んで握手してくれた。
「月に吠える」の原稿を整理する時、僕は鎌倉の旗館海月棲に止宿して居たが、日夏秋之介君が近所に居たの
で親しく交際した。その原稿が書き上つた時、印刷のために東京へ出て来たが、出版の嬉しさと安心とで、す
つかりビアホールで酔つばらつてしまひ、そのまま大事の原稿をなくしてしまつた。辛ひ備忘のノー†があつ
たので、改めてまた書き直して出版したが、その為室生君の序文も一緒に紛失して、二度も同君に執筆をたの
むやうな失態を演じた0このことは「失はれた原稿」といふ見出しで、常時方々の新聞や雑誌にゴシップされ
 たが、今となればなつかしい思ひ出の一つである。
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「感情」といふ雑誌の名は、昔時自然主義の文壇が、理智を偏重して詩的精神を博座し、すぺてのセンチメントや情熱を
排斥したに封し、故意に反旗を掲げて標梼したのである。

常時、柳澤健氏の書いた或る論文中に、彿蘭西語で「猫が気管支加答兄を病んでる」と書いても詩になるが、日本語で
その同じことを開いては、全然プロゼツタで詩にならないと言つた。僕の「月に吠える」等で試みた詩が、常時の詩壇か
ら異端扱ひにされ、俗塵粗雑なプロゼツタの詩として、非文寧呼ばれされたことも官然である0