西洋の羨ましさ


 昔は西洋人の生活が羨ましかつた一。何もかも羨ましかつた。第一に食物が羨ましかつた。三度三度に洋食を
食ぺ、バタを食ぺ、牛乳、乳酪、腸詰、アイスクリームのやうなものを常食にしてゐるといふことが、蜃育期
の僕には挺れが出るほど羨ましかつ七。それから椅子に腰かけて居ることが羨ましかつた。僕は一生に一度で
                       ソ フ ァ
好いから、窓のある洋風の家に住み、長椅子に腰かけ、寝壷の上に眠る生活をしてみたいと思つた。僕は理髪
店に待つて、頭髪を西洋人のやうに縮らしてくれと頼んだ。僕が十歳の時に、伯父が横濱異人街の話をしてく
          ギヤマソ
れた。その異人屋敷は椅子で出爽、窓の破璃を透して室内の人物が見え、内には筏のやうに明るい燈火がつい
てると言つた。その夢のやうな異人の囲を、成長してからも憧憬れて居たのであつた。
 しかし最近では、すつかり西洋が平凡に見え、昔の憧れを無くしてしまつた。洋食なんか、今では何時でも
普通に食へるし、日本料理より値段も安く、味も劣つた大衆食物に襲つてしまつた。洋風の文化住宅なんてい
ふものも、今では安月給取りが住む家になつて居るし、髪を締らしたモダンガールも、今では却つて野暮な田
舎趣味になりかかつてる。今日のエキゾチシズムは、昔と逆に古風な日本へ憧憬してゐる。今の僕の理想を言
へば、京都の室町あたりに居を構へ、天井の低い茶座敷でも建て、琴でも弾く女そ一緒に寂しく暮してみたい
のである。今ではもはや、西洋へ行きたいといふ気もなくなつた。行つた所で、日本と同じやうな事にすぎな
いと思ふからだ。西洋に珍しいものは何もない。
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Z周凋周周周瀾瑞領硝絹・づ頭已かしただ}つだけ、今でもまだ西洋を羨ましく思つて居ることがある0それは彼等の生活の明け放した朗
      らかさと、自由に徹底した個人主義の杜合である0僕はそれをいつも活動馬眞館の中で考へるのである0外国
     物の映室を見る毎ぺ、彼等の婁合の愉快らしさ、懸愛の朗らかさ、思ひ切つて自由にふるまふ大勝な個人主義
     などを考へ、僕はつくづく嘆息して西洋が羨ましくなり、映真の進行とは関係なしに、そこだけの感激で涙を
    流してしまふのである0どうして僕が、そんなに深く感激するかと言へば、つまり僕等の周囲に於ける牡合の
     事情1あまりに日本的な事情 が、現賓的に脱れがたく僕等を苦しめて居るからである0賓際日本の紅合
     に於ては、竺つ自分の思ふ通りに自由に出来ないのである0住居;移挿するにも、隣近所の人々がかれこ
     れと干渉する。少し濁創的な新しい着物を着れば、たちまち周囲から非難され、問題硯され、干渉される0日
     本の若い懸人たちは、政令の目を忍び、警察の目を忍び、盗人のやうに暗い物蔭で逢曳きしてゐる0およそ世
     の中に、日本人の宴禽ぐらゐ陰気臭いものはない0皆は隣席の人に気兼ねしつつ、窮屈に四角張つて酒を飲ん
     でゐる。思ひきつて笑ひふざけることも無ければ、陽気に合唱して踊ることもない0稀れにそこまで座が乱れ
      たら、もはや宴合でなくて狼着であり、赦舎人の合でなくして、節度なき野哲人の合になつてる0浅ましい限
          りである。
      日本人の生活には、眞の「身由」もなく「享楽」もない0第一我々の封建的儒教道徳が、すぺての享欒を悪
     と認めて嫌忌してゐる。そして、我々の家族主義が、蒜の個人的な自由生活を束縛するのだ0昔徳川幕府は、
     謀叛人の隠匿を防ぐ政策として、地方と都合の全国に亙り、名主や家主による聯璧是の融合を作り、警察政
     治と連絡して腐族主義を普遍させた。そしてこの警察的家族主義の遺風が、同じ徳川時代の儒教と共に、今日
     なほ二十世紀の日本人を苦しめてるのづ。徳川幕府の治下に於て、日本の民衆は自由を奪はれ、竺つ朗らか
      に行為することもできなかつた。そしてこの陰惨と憂鬱とは、今日も伶梅雨つぼく績いて居るのだ0

                                                    ′
J〃 廊下と室房

私は四十歳に近くなるまでも、田舎の小都合に孤濁で住み、そこで妻を要り、且つ両親や兄妹やの大家族と
共に、同じ;の家の内で生活して居た0それからして私は、肉の肺腑の中に弛み込む迄も、家族主義のあら
ゆる陰鬱さを知り蓋した0田舎の小都合の人々は、すべて皆私の顔を知り、私の生活の一彗動を知り蓋して
居た0私は絶えず人々に注硯され、批判され、そして事乍に嘲笑され侮辱された。それは徳川時代の江戸住民
が、長屋の監督者である家主によつて、事々に生活を監硯され、政府に上告されて居たのと同じであつた。幕
府政府はその申告から、一々また人々を審判し、孝子に賞状を輿へたり、放蕩者を罰したりした。そこで孝子
には緑が遠く、放蕩者に顆近してゐた私の生活が、地方住民の家族主義から、いかに煩はしく審判されたかは
言ふ迄もない。
 東京に移り、私二家の家族だけで、畢濁に生活するやうになつてから、私は始めてやや「自由」といふこと
の意味を知つた○都合は流石に都合であり、田舎に此すればすべてが西洋の風に近く、個人主義的思想が行き
渡つて居た0都合に於ては、隣人と隣人とが顔を知らず、互に無関心に生活して居た。私がどんな生活を勝手
にしょうと、田舎のやうに煩さく批判されることが無かつた0・私は都合に住むことの遅かつたのを、百度も繰
返して後悔した○しかしそれも比較にすぎない○都合に慣れるにしたがつて、私はまた新しい疑惑を感じて来
た0私は時々、大東京の眞中に草蓬々たる田舎を眺め、銀座ビル街の近代市直に、蒼乎たる御用捉燈の灯影を
見て吃驚する0日本の大都合に見るこの幻影こそ、それ自ら日本文化の血液に残留してゐるところの、封建制
度に取り憑かれた幽壷に外ならない○都合も、田舎も、おしなべてまだ我等の文化は、早く目醒めた近代人の
生活に適してゐない0電車に乗る時も、街を歩く時も、劇場に居る時も、商店に行く時も、伽排店に遊興する
時も、家に六で居る時も、すぺてに於て私たちの生活は自由でなく、封建制の古い幽壷に想きまとはれで居
る0今日まだ日本人は、あの外国映董に見る人々みたいに、朗らかに笑ひ、享欒し、人生を自由に表現するこ
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 」 ノ
Z周周頂脳憎弓、▲
\習頂萱∨.♪
ち:凝が出水ないのである。それはまだ、あまりに暗すぎるところの日本である0
 私は西洋の趣味に俺きた。私は古典の日本に締り、古い京都の町に住んで、琴を輝く娘と一緒に暮して居た
 い。だがそれさへも、私に許されない自由であらう0私は茶座敷の暗さを好む0しかしながら文明の暗さを悼
 む。むしろ趣味を犠牲にしても、私は西洋に住む方を取るであらう0
和歌と懸愛
古代高天原に住んでゐた大和民族の文明は、賓に和歌と轡愛とに始まつた0詳しく言へば、日本人は、和歌
によつてその愛欲生活を蛮術化するこトに、最初の文化的情操を紀元させた0和歌と日本人卜の関係は、古代
ギリシャ人とオリムボスの紳々のやうなものであり、そしてその神話の太陽紳となつてるものが、日本でほ
「愛」の女神ゲイナスに表象されて居たのである0
それ故に「和歌」と「敬愛」と「大和心」は、日本歴史に於て三竺慣の関係にある0和歌を離れて大和心
は解説されず、また懸愛を忘れて和歌のポエジイは成立しない0例へば埠世の徳川時代は、政府の儒教教育が
櫻愛をひどく賎しみ、すぺての愛欲生活を邪悪成した時代であつた0そしてこの江戸時代こそ、日本歴史に於
て最も反園粋的な時代であ嘗人々が眞の「大和心」を失つて居た時代であつた0それ故にまた江戸時代は、
和歌が誉衰顧した時代であつた0江戸時代の歌人−香川景樹の輩1は、極めて平坦卑俗の調子で、日常
性の身連歌のみを作つて居た。即ちそれは、蓑1に於て「歌のない時代」であつた0反封の現象として、j
∫〃 廊下と室房

治の中期は和歌の最も讐た時代であり、且つ讐歌の最も琴完時代であつた0そしで我々の日本歴史は、
この同じ時代に支警戦ひ、蕗望と戦ひ、貰的に新しく震して、民族性の本質たる「大和心」を最もよ
く磯拝して居る。
このやうに日本人は、その民族的大和心を芸する時に限つて、いつ息ず和歌を作り、且つ讐歌を讐
させる0けだし大和心の扁性たる「責」すらが、日本人の民族性では「愛」のシノニムになつてゐるから
だ0そしてこの純粋な是精神を、その最も原始的なエスプリで表現してゐる毒が「古事記」と「莞集」
との和歌である。
日本歴史に於ける、最初の最も偉大な詩人は、賓に悲壮な英雄日本式争であつた0争は英雄であると共に、
日本で最もすぐれた抒情詩人の儀二人者だつた。
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 さねさし相模の小野に燃ゆる火の焔中に立ちて問ひし君はも
賊に包囲されて火をかけられ、危ふく戦死されょ>つとする義の際にも、尋はその愛人の名を驚く呼ばれ
て居たのである0竜洋の騎士たちは、敵と戦ふ前に先づ橙人の名を呼び、戦死する前にもまたそれを呼んで
死んだ0さうした彼等の騎士道は、カトリック教の浪漫主義に情挽の根を持つてゐる0是の大和民族の武士
道は、西洋のそれに似てまた自ら異つた精神がある。即ち
                つるぎ
 少女の枕遽に我が置きし創の太刀。その太刀はや。
1」」
震にその辛苦のノ生を迭づた慧、臨終に際して彗を厳み、愛用の太刀に別離の誓流し給ふは纂であ
と、同じ日本武争が、臨終にのぞんで歌ひ給ひし如くである。東伐西征、
幾度か、、死地にのぞむ危険を冒して、
旬瀾周那‖.り11く1。・⊥巧、
る?しかもその涙は、太刀を預けられた愛人の少女の窺にも流されて居る。この歌の言葉は短かい。だがその
意味は挽く、悲壮にして綿々透きるなきの恨みを帯びてる。即ち尊の胸中には、その長く苦しかつた「戦争の
ための一生」と、甘く楽しかつた「懸愛のための一生」とが、交互に交錯して思ひ出され、不思議な人生その
ものへの告別を、怪しみ悲しんで居られるのである。そこでこの歌には、ホーマー的ヒロイツタな叙事詩(英
雄詩)の情操と、ハイネ的スヰートな抒情詩(轡愛詩)の情操と、二つの封択的な詩情が、一つに結合融和し
て現はれて居る。そ⊥てこの一つの精神こそ、所謂「戦にも強く懸にも強い」天孫大和民族の原質的な民族性
で、奈良朝以後に於ける日本武士道の本源となつてるのである。
    もろ は  と
剣太刀諸刃の挽きに足踏みて死にも死になむ君によりては
          ますらを
天地に少し牢らぬ丈夫と思ひし我れや男心もなき 萬菓集
萬稟集
 これら奈良朝時代の轡愛歌も、常時の剛健な日本人の情操をよく現はして居る。上古に於ける日本の武士道
は、西洋の騎士道と同じやうに、「武貞」と「轡愛」を楯の両面に刻んで進軍した。後に支那から儒教が這入
り、特に徳川氏がそれを強制教育して以来、懸愛が購しまれて楯の一面から抹殺された。今日一般の日本人、
特に政府や軍部の考へてる武士道といふものは、徳川氏が歪曲したこの支部儒教的忠孝主義の武士道であり、
眞の国粋的な大和民族の「大和心」ではないのである。本居宣長や平田篤胤等の国学者によつて指導された明
治維新の革命は、この支那儒教化した日本を新しく改造して、上古王朝時代の国粋日本へ復古するための運動
だつた。然るにこの革命の精神は、今日に於て全く邪曲に歪められ、却つて益ヒ儒教主義の強制する世となつ
てる。
j〃 廊下と室房
 J■

飴事はとにかく、土古の和歌に現はれたこの剛健な精神は、平安朝時代に移つて全く柔窮に失はれてしまつ
た0その代りに「大和心」は、その優美さの方面に於て著るしい蜃展をした0なぜなら歌が男性の手を離れて、
女性の側の手に移つたからである0平安朝の和歌は、大和心からその武勇の方面を捨象して、他の蒜である
優美の方面だけを抽象した0しかしながら樽愛は、依然として「敷島の造」の中枢神経となつて居たのである。
樺愛をその中心に置かないやうな歌道や歌壇は、毒↓に於てもはや「敷島の造」ではないのである。なぜな
らそれは、日本文化の俸統する国粋精神を忘れたものであるからだ。
十五世紀頃日本に爽たポルトガル人の耶蘇教曾師は、百人毒その他によつて、日本の俳数倍侶が攣愛歌を
詠むことを知り、邪淫驚くに耐へたる破戒坊主と魔造宗教の圃だといつて罵つて居る。ヴィナスの胸像を見て
さへ、十字を切つて悪魔退散を誓キリスト教の宗教観で日本を見たら、平気で色つぽい懸歌を詠み、姫君枝
と蒜に泣んで「われても末に逢はんとぞ思ふ」など言つてる中世の借侶が、日蓮の怒撃と共に「末世の色餓
鬼坊主」として罵られるのも無理がない○しかしそれを香定するなら、岩戸神楽の開開からして、是の文明
そのものが根本的に香定される0日本の文化史では、「攣といふことが「美」といふことと一つであり、和
歌も蓋丁も物のあはれも、それから生活の耳化的様式も、すぺて皆それを中心にして蜃達して来た。日本語の
「攣といふ語は、英語のラヴや濁逸語のリーべとちがつで、もつと趣味性の深い文化的内面性を持つてるの
である0日本人が懸歌を作るのは、西洋人が讃美歌を唄ふと同じく、先組の徳を讃へるところの、;の国民
的教養であり、併せてまた一つの宗教的行為なのだ。
 それ故に日本では、昔から毒の天皇や皇族方が、自ら先に立つて熱烈な轡愛歌を作られて居る。世界名
虞の囲の歴史を見でも、一国の帝王が平民に伍して、人間的純情の愛欲詩など作られてる例を知らない。もし
それが有づたところで、私用の手箱の中に深く秘して居るので、日本のやうに廉く天下に公表された例を開か
∫∫6

い。日本に於ける皇室と人民との親密な人間的関係は、かうした鮎で誠に世界に顆なきものであり、メ人民が
天皇を親の如く慕ひ奉るのも無理がない。そしてこの図柄は、民族詩としての和歌が有る限り綬くのである。
 筆者は先に「懸変名歌集」といふ書物を出版した。この書は始め「日本名歌集」といふ題で編輯に志したの
                                                                                     一
であるけれども、萬棄始め勅撰集を讃むにしたがひ、日本の名歌といふ名歌が、殆んど皆轡愛詩ばかりであり、
それが全饅の七十パーセントを占めるやうになつたので、遂に題をかへて懸愛名歌集としたのである。それほ
ど質的にも量的にも、懸愛詩は和歌の中心的宇宙となつて居る。賓に「懸愛を離れて和歌がない」と言ふぺき
ほど、和歌と懸愛との関係は密接である。しかし同じ椿愛でも、奈良朝時代と平安朝では、大いにそY趣味的
様式を異にして居る。萬葉集\に現はれた奈良朝時代の懸愛は、非常に熱烈であり、直情的であa、それ故にま
たナイーヴ.で野生的である。

  直に逢ひて見ればのみこそ魂きはる命に向ふ吾が懸止まめ
とか
d
  いつまでか生きむ命ぞおほよそに懸つつあらずは死なむまされり

とかいふ顆の直情一途のナイーヴな懸愛歌は、爾後の古今集や新古今集には見られない。平安朝以後の椿愛歌
は、直情性を失つた代りにインテリの知性を加へ、趣味性の賓術的精練を深くして来た。特に
夕暮は雲の旗手に物ぞ思ふ天つ杢なる人を懸ふとて  古今集
ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ懸をするかな
古今集
J■
∫J7 廊下と室房

といふ顆の績紗たるイメーヂ風の象徴味を碍誓来た0私自身の趣味から言へば、かうした象徴攣愛詩も好き
であるし、萬葉時代の直情主義も好きである○しかし常葉時代には、緻愛歌以外にも旗の歌や叙景の歌で秀れ
た名歌が多かつたが、古今以後の八代集になると、ひとり橙愛歌だけが光つて居て、他はすぺて讃むに耐へな
いほど退屈である0そしてこの退屈な部分だけを、より卑俗に模倣したのが近世徳川期の歌であり、これが今
日宮内省に入つてる所謂「蕾汲和歌」の系統である。
最後に今日の歌壇について毒しょう0前に自分は、橡を中心としない歌道や歌壇は、眞の「敷島の道」で
ないと言つたが、今日の日本の歌壇は、たしかに敷島の造を外れ、和歌の純正なエスプリを無くした異端であ
る0特にアララギ汲の如きは、棲愛的情緒を忌み嫌ひ、歌の世界の外に排斥してゐるといふ話だが、もし毒
とすれば想像のできない不思議な講で、驚くに耐へた馬鹿の話といふ外はない。萬菓集二十巻、その七割を占
めるものが椿愛歌である○それを除外して何虞に彼等は常葉集を讃んで居るのだ。うぺなる哉や彼等アララギ
汲の歌と言ツぱ、日常茶飯の身遽雑事を、感動もなく詩情もなく、茶飲話の卑近な調子で年々淡々に叙ぺてる
ので、宛然徳川末期の香川桂園を踏襲して居る0数年前ある短歌雑議で、自分は彼等の歌と宮内省御歌所の背
振和歌とを封照し、共にひとしく桂園汲の堕落した亜流であると断定したが、最近に於て両者の接近は益逼
るしく、アララギ汲の歌がそれ自ら「蕾汲和歌」と表になつてしまつた0その上さらに何も言ふ必要はない
のである。
 詩はその詩情を持たない人間によつ妄ばれる時、蓋丁中での最も慈しき遊戯蓋丁に堕落する。しかして詩
情とは、日常性の卑俗から高く躍動した精神を言ふのである○詩が韻律を持つ所以のものは、詩情の呼び起す
心の浪が、表現に於ける言葉の浪と節奏とを求めるからだ○心に浪の起伏がない平坦の日常性から、表現の報
∫∫β
、 \ 、_
 ■苛 男頂
    こさ
       モ
文的な抑揚や節奏が生れ得る道理がない。うべなる哉やアララギ汲の歌と言ツぱ、外見上には正しく和歌の訳
文的格調を踏んで居ながら、賓際には讃んで少しの音楽的抑揚も感じられないほど、全く散文的平坦な韻文で
ある。即ちそれは眞の本質的な「韻文」でなく、それ故にまた眞の 「歌」ではないのである。昔自分等の作つ
た或る自由詩は、本質上には全く散文であるものを、書式の行を別けることによつて、視覚の外見上から
(詩)と紛らして居た。同じやうにまた今日の歌人たちが、本質上に全く散文であるところの文学を、外
に和歌の定形語数律を汝べることで、韻文らしく紛らして居るのである。

 今日の日本に於て、僅かに和歌の正道を守る唯一の人。そしてそれ故に孤濁である輿謝野晶子氏が、記者の
質問する現歌壇への批判に答へて 「今の歌壇の進んでる道は、作品上でも思想上でも、全く私等とは緑のない
別世界の観念です。私としては、一切何も言ふことがなく、批判することもありません」と断言して、キツパ
リ歌壇に絶交状を投げつけられたことは、まことに悲壮でもあり富然でもある態度であつた。
悲懸の歌人式子内親王
 平安朝時代は、女性が文学を濁占した時代であつた。散文の方には、一代の閏秀作家紫式部や、稀代のエッ
セイスト清少納言があり、哉文の方には小野小町、和泉式部、赤染衛門等の名歌人が澤山居た。しかしこれら
歌人群の中で、眞の天質的な抒情歌人卜言ふべきものは、賓に和泉式部と式子内親王の二人であらう0
 和泉式部と式子内親王とは、その懸愛歌人としての純情性に於て、他に此顆なく酷似した一対の女性であつ
J∫夕 廊下とヂ房

たが、両者の杜禽的環境は大いに異つて居た。和泉式部は、
の一生は質に放縦な愛慾生活の達績だつた。言はば彼女は、
に反して式子内親王は、後白河法皇の第三皇女として生れ、
生れであり、自由の生活が出来ないところへ、紳に仕へる聖女として、生誓貞不犯の境遇を強ひられた。彼
女の左は白百合のやうに純潔であり、和泉式部の乱行放慧生涯とコントラス差して居る。
和泉式部の誓に於ては、その讐生活そのものの日常相が、直ちに歌の詠嘆となつて表現されてた。即ち
言へば「生活印蓼術」であつた0然るに式子内親王の誓は、警が心の内部に秘められて居り、生活に現は
すことの出来ないイメーヂだつた0若く美しい女性が、ひとり粛院に閉ぢこもつて、やり所のない青春の悩み
に悶え、心の秘密を忍びがたく歌つたもの、それが即ちこの人の拳術であつた0(雷「定家」には、式子内
彗と藤原定家との橙物語が取材されてる0勿論毒的虚構であり、賓際ペそんなことは有り得なかつたが、
しか畠親王が心ひそかに、常時歌道第一の俊才たる藤竪家に思ひを寄せられて居られたかも知らないとい
ふことは、あながち要の臆測とも断定できない0能楽「定家」に於て、式子内彗の警、葛かづらに縛ら
れて身鰹の自由を失ひ、煩悶の悩みに苦しみ悶える美女の古塚に表象したのは、まことにシムボりズムとして
意味が深く、深刻である。)
式子内親王の歌にあつては、慧葺のものでなくつて、心中に秘められた情熱の歎息だつた。つまり言へ
ば、彼女は六で心ひそかに愛人の幻影を胸に抱いて居た0そして何時も恥かしげに、その幻影と誓したり、
封坐したり、散歩したり、すねたり、寂しがつたりして居た○紳女の雪白な着物をきても、彼女は青春の少女
 であつた。
 それ故に式子温王の歌は、他の女流歌人のそれとちがつて、全くユニイタで猫自な情趣をもつてる。それ
常時の宮廷女官としては比較的下級の生れで、そ
橙に生れて緻に死んだやうなものであつた。これ
若くして早く蘭院の神女に奉られた。既に高貴の
j20
細悶粥ポi約gいり…リg…b…g…H…‥m欄ggf…_g細
微的な風趣を帯び、幽玄で影の深い飴萌を曳いてる0これ式子内親王が、象徴懸愛歌人として濁歩する所以で
あるの以下その作例を示して解説しょう。

                             つ はり
 我が瀾は知る人もなしせく床の浜もらすな黄楊の小枕
 人知れず思つてゐる攣心に秘めた思ひを抱いて、夜毎ひそかに枕を涙に濡らして居る0かくも苦しく切な
                                                つ 止り
い思ひを、だれも知つてくれる人はなく、またそれを打ち明けることも出来ない0「涙もらすな黄楊の小枕」
と、枕を抱いて泣き濡れながら、枕を柏手に話をしてゐるのである0いかにも女らしく、純情で、悩ましさの
思ひが充ちてる歌である。

 忘れてはうち嘆かるる夕かな我れのみ知りて週ぐる月日を

 何も知らずに居る相手を、自分だけで心ひそかに思つて居るのだ○そして長い月日の間、苦しい胸を抱いて
嘆き暮した。だが、いくら嘆いたとて、それが何になるものでもない、無益な嘆きは止めにしよう、と思ひな
がらも、また忘れ七は嘆かれるのである。懸を知つて、しかも撥を語ることの出来ない境遇に居る女ほど、世
に悩ましく悲惨なものはないであらう。しかもそれが、外部の祀合的事情によつて強制された境遇なのである0
 玉の緒よ絶えなば紹えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする
ゎが命よ。むしろ早く死なば死ね、生きてこの1の苦しさに耐へられない、といふ意味である0「玉の緒」
J2∫ 廊下と室房

は「魂」に掛けで命の緒を首写る三絶えなば轡乙ね」と、温く叩きつけるやうに歌つ■てるので、如何にも
哀切迫つて耐へがたい思ひがする0しかも↑の句に移つて「警もぞする」と調子を落し、彗しげに悲しん
でるのは、何虞までも女性の歌らしい歌である。
 しるぺせょ跡なき浪に漕ぐ舟の行方も知らぬ八重の汐風
沖を漕ぎ行く舟のやうに、行方も知らず自分の椿は導かれて行く0この燃ゆる思ひ、是に深くなりまさつ
て行く情熱は、轟どこまで行つたら止まるのだらう0それは地平線の向ふに見える海のやうに、無限に遠く
繚紗として限界がない○ああもう私は自分を制御することが出来なくなつた0どうにかしてくれ。だれか来て、
自分を導いてくれ0自分の行く道をしるぺしてくれ!と身悶えをして訴へてる驚である。しかもこの歌に
は、椿といふ字が与もなく、且つ少しもそれを表面に歌つてない0ただそれを墓の慧にこめて、思ひ入
れ深く情象して居る0即ちこれは「象徴警詩」なのである0かうした象徴警歌は、古今集の頃から既にあ
つたけれども、式子内親王のこの盲に比眉すぺき名歌は無かつた0この歌を吟じてゐると、不思議に何虞か
遠い所へ心を導かれて行くやうな思ひがする0単なる素朴的な情熱ではなく、内に複篭玄な詩情をもつた椿
愛歌である0ロセッチの影響をうけた卜言はれる蒲原有明氏の初期の作や、併蘭西近代の象徴詩の中にも、か
うした纂の幽玄讐詩があるが、是の和歌としては、最も讐した最高の形式であるだらう。/
 夢にても見ゆらむものを嘆きつつうち貯る脊の袖のけしきは  〔
 これほど自分が感ひ焦れて、毎夜の如く涙に袖を濡らしてゐるのに、無情の人は少しも自分を思つてくれな
 い0せめではこの憐れな姿が、夢にでも見えさうなものを、といふ女のさめざめとした讐である。式子内観
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謂馴……耶針ek境遇の上から、.dそれは止むを得ない悲劇であづた0
】川「dハ
しかもその悲劇を彼女は生渡持ち越したのだ。眞に傷ましくもいぢらしいことの極みであつた。
  生きてよも明日まで人はつらからじこの夕暮を訪はば訪へかし

 苦しい懸を忍び績けて、もはや命も準乙るほどになつてしまつた。生きてよも明日までは長らへ(まい0せめ
て人に情あらば、今日の最後の夕暮を訪ねてくれ。といふ橙歌である。「明日まで人はつらからじ」といふの
は、死んでしまつた明日になれば、流石に愛人も自分を憐れに思ふだらうといふ意味。「よも」は、よも長ら
へまいといふ「よもや」の意味と、流石によもや辛くないだらうといふ意味の「よもや」の南方に掛けてある。
五句の「訪はば訪へかし」は、如何にもあきらめて投げ出したやうな歌ひぶりで、人の訪ねて来ないことを漁
期しっつ、しかも来る々ら来てくれと、カなく寂しげに嘆息してゐる。技巧的にも秀れた名歌であるが、この
切々たる哀傷の質感は、讃者の肺腑に迫るものがある。

  ほととぎすその神山の放にしてほの語ひし茎ぞ忘れぬ

 旗中の日の追懐である。凛草の茂る山の上で、或る人と楽しい話をした。杢には夏の雲が白く浮んで居て、
広かに時鳥が鳴いて乳卜の意0その神山は、そのかみの昔に語呂を掛けてる0追懐の夢に浮ぶ、灰かな淡
い懸である。

 桐の葉も踏みわけがたくなりにけり必ず人を待つとならねど

 待つてる人が来ないために、桐の落葉で庭が一L杯に埋つてしまつた。それほど待ち焦れて居ながら、故意に
j2∫ 廊下と室房
叫■

「必ず人を待つとならねど」と、負け惜しみのやうに反語で行つてる所に、如何にも女のスネた気持がょく現
はれ、味の深い住い歌である0竺の歌は、主観の寂しい心緒が、秋風落実たる景象とよく合つて、扁に情
趣深く感じられる。
 逢ふことを今日松が枝の手向革幾夜しほるる袖とかは知る
今日の嬉しい逢瀬を待つために、慧漠に袖を滞らしたらうといふのである0「松が枝」は「待つ」に掛け
てる0如何にも娘気のしをらしく、いそいそと、嬉しさうである0「袖とかは知る」は、讐に問ひかけた怨
言0「知る」の次に、?を附けて讃むとよく鰐る。
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はかなくて過ぎにし方を敷ふれば筏に物思ふ春ぞ経にける
                                        いくはく
来る呑も来る呑も、杢しい澄思ひをかけ、悲しい悩みの中に過ぎ去つて行つた。青春幾何ぞ!
自分の人生も暮れょうとする0思へば果敢なく寂しい左であつた、との詠嘆0晩年に近い時の作であらう。
                         ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
この作者の境遇を思ひ、まことに憐れ潔くやるせない思ひがする。
 はかなくぞ知らぬ命を嘆き来し我がかね言のかかりける世に
「かね言」は願ひごと、勿姦の願ひごとである0その;のかね言ばかりで、今日まで夢を抱いて生きて来
たのに、今はもうその望みさへもなく、空しい残骸になつてしまつたの意○それほど内親王が、心に深く思ひ
詰められ芸た礎人が、果してだれであつたか鮮らないが、とにかく身分境遇の相違からして、到底結婚する
こともできないし、礎を打ちあけることもできない関係にあつたらしい0常時藤原売家は、内親王家の卑犠な
そして今、
家僕をして居たので、或は謡曲作家の臆測が、官つて居たかも知れないのである。とにかく哀傷切々として、
人の心を刺す歌である。勿論晩年の作であらう。

  静かなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞかなしき

 式子内親王の一生は、賓に薄命と孤濁の一生だつた。常時皇室は既に衰微し、源氏北條の幕府が武断の専横
を極めて居た。後鳥羽上皇これを嘆き、密かに事をあげて鼠らず、遠島に遷され給うた。式子内親王もまた、
時流の暗黒思潮に捲き込まれて、橘乗仲等の乱に組し、罪を得て危ふく罰せられるところであつたが、彿門に
入つて尼となり、漸くに累を脱れ給うた。女性の身とは言ひながら、心中甚だ鬱積たを針のがあつたらう。況
んやしかもその牛世の粛院生活(粛院の寝室には、蛇が入り込むといふ口碑さへある。孤濁察すべしである。)
を願れば、終始一貫する運命の苛虐に封して、いかんぞ怨爾として浜なきを得なかつたらう。この一首は、彿
門に入られてからの御歌であり、非常に象徴的で幽玄の情趣が深い。思想としては、彿敦の「無明長夜の夢」
を含蓄したものであらうが、畢なる観念上の作ではなくして、あきらめ切れない人生無上の寂しさが、歌の心
の影に沌々と現はれて居る。

 暁のゆふつげ鳥ぞあはれなる長き眠りを思ふ枕に

 同じく悌門に入られてからの作。果敢ない人生を観念し、何もかもあきらめてしまつた不運な佳人は、此虞
でただ長き夜の醒めない眠りを願つて居る。その暁の枕元に、遠く俺しいゆふつげ鳥(鶏)が鳴いてるのであ
る。全膿に侍しく灰白い感じがして、人生の寂しさが、尾を曳いて長く欽欲してゐるやうな歌である。象徴歌
人としての式子内親王は、この歌で最高の妙域に達してゐる。同時にまた、悲劇人としてのその一生も、この
∫ヱヲ 廊下と室房
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歌で完尾されたやうなものである。

享内翌咤侍後白河院の第三女として生れ、劫にして賓院に入らせられ、青春時代を白衣の紳女として暮らされた。
その後も濁身生活を績け、左不犯の空虚女として生活された0後年橘粂仲の陰謀事件に連坐し、罪を免れて尼僧になら
れ給うたが、常に病慧ちで悲しい左を終られた0摘発伸の乳といふのは、詰らぬ迷信的な事であつたらしいが、その
深苧るところの原買武家の董に封する霊と、白河警後鳥翌皇やの、これに封する根強い憤怒との、複雑に
交錯した事情にあつたらしい0伶「草枕そのかみ山の族にして」の歌は、原作では「そのかみ山の族枕」となつてる。こ
 れを改作したのは、自信があつてしたのである。
∫2古
瓜軒.