詩の作り方


「詩の作り方」を書いた本があるといふので、早速一部買つて見た。なぜなら私自身、近頃詩が作れなくなつ
て困つて居たからである。世にもし詩の作り方を教へてくれる人があつたら、千金を投じて謝祀しても好いと
思つた。だが私の買つた本は詰らなかつた。それには用もない西洋の詩の話や、日本の和歌俳句の頚律、それ
から自由詩の歴史、部門、系統、現詩壇のイズムと詩論、引例詩の解説などが書いてあつた。そしてどこにも、
肝心の詩の作り方は書いて無かつた。
 どうしたら詩が作れるか? といふ質問は、どうして詩が作れないか? といふ反間の方から辟納的に解答
される。詩を作ることの先行條件は、詩的感動を心に持つことである。詩的感動さへ心に浮べば、言葉は自然
と湧き出して来る。ところがこの詩的感動といふ奴が、中々やつかいな気まぐれ者で、此方の自由意志でどう
にもならない。飲酒、遊行その他の方法によつて、人間は或る程度まで、自分の心を自分で自由に縛換し得る0
だが詩的感動を自由に呼び寄せるといふことは、自分の力でどうにもならない。しかもそれが来ない中は、一
節の詩さへも書けないのだ。不幸なスランプに陥入つた詩人たちは、皐魅にあつた農夫と同じことで、毎日毎
∫β∫ 廊下と室房

日天を見ながら、あてにもならない雨を所つて、ぼんやり暮す外に仕方がないのだ。
 かうした宿命的非力の法則から、詩人を自由に救ひ出す法はないだらうか。科挙が自然を征服して、宇宙の
偶然を必然にし、宿命に封する人間の自由を勝利したやうに、詩人を勝利させる法はないだらうか。今日の科
学は皐魅の杢に大砲を撃つことで、多少の雨を呼ぶことに成功した。同じ仕方でまた我々も、自由に意志して
感興を呼び、随意に詩作し得るやうになれないだらうか? 現に今日、或る詩人たちはそれの可能を主張して
                           メソッド 」ノ ラ ソ
ゐる○彼等の新しい説によれば、人は理智の計量した法則と意匠によつて、科挙的、数学的に詩を構成し得る
といふのである。ブラボオ! これは中々すばらしい説である。だが果して、賓際にそんなことが可能だらう
か○古来如何なる肇術文学と錐も、理智の悟性的法則によつて作られたものは一つもない。なぜならベルグソ
ンが説明してゐるやうに、理智は概念の法則に従つて軌道するものであり、如何にしても常識の範疇以外に飛
躍し得ない○理智は直覚の世界に於て無力であり、如何にしても蓼術し得ない宿命を持つてゐる。理智が蜃術
に関して為し得ることは、実の無意識を意識に照して、美挙の解説的批判をするに止まるのである。ポオはか
つて「大鶴」の詩を自澤自註し、その詩の構成が、すべてみな科挙的用意の方法論によることを説明した。し
かし賓際には、方法論の方が詩作の後にあつたのである。すべて過程し現象してゐることは、その進行の途中
の偶然である。しかもそれが経つた後では、一切がみな因果の法則で連鎖して居り、務め計量されて居たやう
に見えるのであるがそこで毒家が感興にのつて描いた檜を、後に美挙者が批判する時、一つの線も偶然でなく、
美挙の公式的数理に合つてることを知つて驚歎する。ポオはこの理を知つて逆に利用し、讃者を驚かすことの
興味から、彼一流の山師的詐術に用ゐたのである。
 理智で詩を作ることが可能だつたら、詩人はさしづめ不用品で、世界のお沸ひ箱になる外はない。なぜと言
づてこの場合は、機械と教理との高等科挙が、タイプライタアによつ七言葉を打ち出し、微分数学的な立汲な
∫∂古
詩を、h攣らでも製造してしまふからである。生きた人造人間の製造が、今日に於て」つの「ロマンチックな科
挙の夢」である如く、科挙研究所に於ける詩の製造も、今日の所では先づ詩人のロマンチックな夢に過ぎない。
我々はそんな遠い夢の奇蹟を考へるより、さし官つて現賓に必要される「詩の作り方」を考へょう。そもそも
どうしたら我々は、自由に詩的感興を呼ぶことが出来るだらうか。
 此虞に私が詩的感興と呼んでるものは、昔は一般に塞感と呼ばれて居たものである。塞感、即ちインスビレ
ーションの語は、エレキレーションなどと同じく、昔は錬金術的な神秘思想をもつて考へられて居た。それは
電光の如く、紳の啓示の如く、不意に天の一方から現れて来て、詩人の心に秘密を告げるものと考へられて居
た。だが今日の詩人は、宇宙の問に、そんな、、、ステリイな精塞があることを信じない。我々の教育された撃寧
上の常識は、それが主として詩人自身の主観に属する、心理上及び生理上の特殊現象であることをよく知つて
ゐる。塞感は天の一方から来るのでなく、今では詩人その人の日常食物、睡眠時間、性事の関係、酒や煙草の
分量、讃書、交友、それから普通に精神生活と言はれるところの、心理上の生活様式に内因することが辟つて
▲来た。
「余は如何にしてかくも賢きか」といふ、最高級にまで思ひあがつた自尊心の標示の中で、ニイチェは「天才
になる秘訣」を教へて居る。それによると人間は、日に何瓦かの牛肉を食ひ、何リットルかの伽排を飲み、何
米かの幅跳び運動をすることによつて、何人もニイチェとひとしく天才になり得るのである。だがこの秘訣は、
唯物論と生物学によつて頭脳を錯乱させた天才の幻影であり、「余は如何にして狂人となつたか」といふ、.悲
しいニイチェの皮肉な反語にすぎなかつた。もとより詩人と天才は宿命である。いかに牛肉や獅子の肉を食つ
たところでIニイチェは肉食を奨励して居る 天質のない人間が詩人に成り得る筈はない。天性の詩的精
神をもたない人間を、此虞で私が問題にして居るのではない。ただ最も不自由に困ることは、天質的に詩人と、
廊下と室房
.お
「ハ

生れ、恵まれた詩的才能を持つて居る人でさへが、インスピレーションの感興なしには、決して詩が書けない
といふことである○そしてしかもこの感興は、詩人の漁期できない時に於て、稀れに気まぐれにしかやつて来
ない○私はそれを或る仕方で、漁期の出来るやうに攣吏し、人為の手段で自由にすることを考へてゐるのだ。
そしてこの工夫が、即ち私のいふ「詩の作り方」なので卦る。
 原則として、詩は異常精神畢の産物である。−+N=レの常識的法則からは、詩は決して生れて来ない。所が
人間の一生といふものは、だれでも皆例外なく(詩人をも含めて‥ニ+N=いの常識的経過であり、狂気するこ
となしに、何人もその法則を破り得々い。例へば我々は、峯腹になつて食事を考へ.、雨に濡れて傘を聯想し、
病気になつて腎者を思ひ、女房をもらつて世帯のことを考へる。人間の思ふこと、考へること、行為すること
は、一生を通じて、すぺて皆同じ聯想因果の軌道をたどり、1の次に2が現はれ、2の次に3が現れるやうに
出来上つてる○もしさうでなく、杢腹になつて食事のことを考へなかつたら、我々はただ一日にして死んでし
まふ0もし妻をもらつて世帯のことを思はなかつたら、生活そのものが始めから成立できない。人間思惟の法
則は人間行為の法則と同じく、天理の箕利的な自然法則で規定されてくる一日常生活の一切はみな常識の軌道
である。そして常識的である限り、人は詩を作ることが出来ないのである。
 それ故にこそ、詩人は進化論を排斥して、突然欒化の無軌道的偶然を求めるのである。−Nご丁:Nの順
位敷的な生活からは、同じくまた順位敷的な思想しか生れはしない。ただ、稀れに生ずる天災地愛で、突然攣
化的にこの順位数が掻き乱され、生活に異常な動揺が生ずる時、始めて我々は因果の鎖を切断し、常識から自
由の天上に飛躍し得る0そこで例へば、ハイネは失轡をした時に、彼の最も美しい詩を作つた。杜甫は官を失
つて故郷に蹄つた時、最も詩情の高い詩を書いた○室生犀星は愛児を失つた時、彼の最も哀切な抒情詩へ忘春
詩集)を作つた0北原白秋は人妻との橙愛事件で苦しんでゐた時、生涯でも最も美しく調べの高い歌へ桐の
∫ββ
 彗」」′∵川、

花・思ひ出)を書いた。心に傷みをあたへるものは、人生に於て皆詩である、と西洋の詩人が歌つて居るが、
原則として言へば、生活に烈しいショックをあたへるものは、すべて皆詩なのである。なぜならそれは、平凡
常識的の生活を掻き乱して、日常の順位数的な思惟に突然攣化をあたへるからである。懸をしたことのあるも
のはそれを知つてる。人生のすべてのことが、まるでちがつた別の様式で考へられ、成られ、思想されてくる
といふことを。普通の常識生活に於て、人は夜の次に燈火を考へ、燈火の次に睡眠を考へる。この聯想の法則
は順位教的に決定されてる。然るに懸をしてゐる人々は、夜の次にバラを考へ、バラの次に音楽を考へる0即
ち彼等の聯想は、非順位敷的、非常識的に飛躍をする。そしてこれが「詩」なのである0
 昔の言葉で言ふインスピレーション、今で言ふ詩的感興とは、つまりかうした心理上の異常状態を言ふので
ぁる。それは生活の順位敷が掻き乱された、突然欒化的の時期にのみやつて来る。故にもし諸君にして、その
詩的盛感を呼び寄せょうと思つたならば、先づ諸君自身の生活に欒化をあたへ、順位敷的無為を破つて、一大
欒化への跳躍をする外はない。昔、日本の或る富豪は、彼の俳句の師匠からして、風流の妙味は清貧にありと
聴かされ、自ら所産を投げ出して貧に虚したといふ講がある0諸君がもし眞に詩に熱心だつたら、順位敷的生
活の安易を捨てて、不幸にすら冒険するがよいであらう。生活の手痛いショツタは、必ず諸君の詩を美しくし、
感興の多い時間をあたへてくれる。だが諸君にその勇気が無いとしたならば、次にもつとやさしい手段で、だ
れでも手軽に出来る「詩の作り方」を敦へてあげよう。
 古来、多くの詩人は阿片を習用した。阿片の主簗はモルヒネであつて、これが大脳の中枢紳経を犯す時に、
平常の健全なる−といふのは、常識的なるといふ意味である 意識状態がすつかり欒調を来してしまふ0
阿片に酔つた人々は、22ガ4の順位敷的世界からして、22がSの超常識的、超現質的な世界に飛翔してし
まふ。阿片に酵つてるところの人は、その心意に於てすべてみな詩人である。
                                                                                         ′
∫β夕 廊下と室房

だが阿片を喫むには道具がいり、且つその入手が困難である0よつてその代用として、私は阿片丁幾の飲用
を諸君にすすめる○これは現に、私自身も試験的に飲用し、多少の築物拳的効果があつた。しかしこれは煙草
と同じく、習慣性とならない前には、却つて不愉快な嘔吐感をあたへるのみで効果がない。しかも習慣性とな
ることは、中毒病者となることであり、恐るぺき結果を漁期せねばならぬ。そこで最後に一つ、安全にして簡
畢な方法を教へてあげよう0昔のアラビア人等は、宗教的エクスタシイに入る目的から、精神錆乱的な音楽の.
調子に合せて、頭を烈しく左右に振り動かしたといふことである。これはたしかに、現代に於ても有数な方法
であり、手軽に或るエクスタシイ(儲的感興)を呼ぶことができると思ふ。次に断食もまた大いに有数である。
多くの僧侶や求道者は、法悦の心理を呼ぶために断食した。
 だがしかし、すべての中で最も確賓に有数なのは、大酒、乱行、不眠、その他の不樺生によつて、身膿を過
度にひどく疲らすことである○健全な身髄に健全な思想が宿り、病的な身饅に病的な思想が宿るといふことは
眞賓である0所で私等の詩人が求めて居るのは、その健康な常識的の思想でなくして、反封に病的の思想であ
る○それ故に身憶がひどく惟悸し、頭脳がぼんやりかすんでゐる時、普通の筋道の立つた問題など、竺つ考
へることも出来ないやうな時には、いつも不思議に詩作のインスピレーションが来るのである。詩を作る場合
には、頭が悪いほど善い智慧が閃めいてくる0あへて膏薬「はれやか」なんか、買つて飲む必要はないのであ
る0

                                 ∴
 以上、私は「詩の作り方」を説明した0研究心の強い讃者諸君は、試みに茸験して見るも好いであらう。だ
が最後に言つておくが、私自身はこんな仕方で、かつて一度も詩を作つたことは無かつた。そしてまた未来に
も、決してやつて見たいと思つてない0なぜなら詩を作るといふことは、私にとつて魂の嘆きであり、訴へで
J夕0
あり、生理的な機能による.排泄でもある涌欄私の中に悲嘆がなく、悩みがなく、排泄すぺきものがなかつたら、
もとより詩なんか作りはしない。詩は悦ばしいものであるけれども、詩を求める人生は事頑ではない。私の知
つてる或る女の人が、娘の時に大攣善い詩を作つて居た。家庭が複雑して面白くなく、その上に愛人との結婚
が出来なかつた。それが後に結婚し、満足な生活に入つてからは、すつかり詩が腑ぬけになつて拙くなつた。
その女の人から手紙をもらつて、どうしたら好いでせうといふ相談を受けた時、私は答へることが出来なかつ
た。原因は解つてゐるけれども、それを言ふ必要はないのである。詩が拙くなるにしたがつて、人生の悩苦は
鰐滑して変る。平和な家庭を授乳し、自ら辛礪を犠牲にしてまで、無理に詩を書く必要がどこほあるか。人生
のいちばんの事頑は、順位教的な政令と調和し、平和で常識的な日々の生活をすることである。方才になるこ
との野心の為に、自己の生活を犠牲にし、華南を賭けることなんか眞ツ平である。況んや阿片などの毒物を飲
み、無理に健康を害してまでも、人馬的に詩興を呼んで蜃術するなんてことは馬鹿気切つてゐる。
 詩は魂の底の中から、自然に湧き出して生るべきものである。詩は理智によつて構成さるぺきものでもなく、
阿片によつて呼び起さるべきものでもなく、その他の如何なる手段によつても、決して人馬的に作らるべきも
のではない。古来、多くの詩人等が、好んで阿片や酒の麻酔境に惑溺するのは、詩興を呼ぶための手段でなく
つて、現質世界の耐へがたい苦悩からして、逃避するための目的だつた。それ故にボードレエル ー 阿片惑溺
者としてのボードレエル  でさへが、詩作のためにする毒薬使用を戒めて居る。彼は断乎たる調子で言つて
る。眞の詩人は、意識の統一によつてのみ、詩的エクスタシイに入るべきである。その他の不自然なる方法を
用ゐてはならないと。(人工楽園)
 要するに結論は、この世に「詩の作a方」などといふ書物が、決して有り得ないといふことに辟着する。天
質の詩情と詩才を持たない人に、韻律やレトリックの講義をして、百萬遍詩の作り方を敦へた所で無益である。
∫タ∫ 廊下と室房

Z頂
だが阿片を喫むには造兵がいり、且つその入手が困難である0よつてその代用として、私は阿片丁幾の飲用
を諸君にすすめる○これは現に、私自身も試験的に飲用し、多少の薬物畢的効果があつた。しかしこれは煙草
と同じく、習慣性とならない前には、却つて不愉快な嘔吐感をあたへるのみで救果がない。しかも習慣性とな
ることは、中毒病者となることであり、恐るべき結果を漁期せねばならぬ。そこで最後に一つ、安全にして簡
畢な方法を敦へてあげよう0昔のアラビア人等は、宗教的エクスタシイに入る目的から、精神錯乱的な音楽の、
調子に合せて、頭を烈しく左右に振り動かしたといふことである。これはたしかに、現代に於ても有効な方法
であり、手軽に或るエクスタシイ(詩的感興)を呼ぶことができると思ふ。次に断食もまた大いに有数である。
多くの偲侶や求道者は、法悦の心理を呼ぶために断食した。
 だがしかし、すべての中で最も確賓に有効なのは、大酒、乱行、不眠、その他の不頼生によつて、身膿を過
度にひどく疲らすことである0健全な身膿に健全な思想が宿り、病的な身膿に病的な思想が宿るといふことは
眞賓である0所で私等の詩人が求めて居るのは、その健康な常識的の思想でなくして、反封に病的の思想であ
る0それ故に身鰹がひどく惟悸し、頭脳がぼんやりかすんでゐる時、普通の筋道の立つた問題など、何三考
へ淫と晶爽ないやうな時には、いつ某思議に詩作のインスピレーションが来るのである。詩を作る場合
には、頭が悪いほど善い智慧が閃めいてくる○あへて章薬「はれやか」なんか、買つて飲む必要はないのであ
る0

 以上、私は「革の作り方」を説明した0研究心の強い讃者諸君は、試みに茸験して見るも好いであらう。だ
が最後に言つておくが、私自身はこんな仕方で、かつて一度も詩を作つたことは無かつた。そしてまた未来に
も、決してやつて見たいと思つてない○なぜなら詩を作るといふことは、私にとつて魂の嘆きであり、訴へで
∫夕0
萱ノ斬り丸パ生理的な機能による排泄でもある。私の中に悲嘆がなく、悩みがなく、排泄すぺきものがなかつたら、
 もとより詩なんか作りはしない。詩は悦ばしいものであるけれども、詩を求める人生は幸頑ではない。私の知
 つてる或る女の人が、娘の時に大攣善い詩を作つて居た。家庭が複雑して面白くなく、その上に愛人との結婚
 が出来なかつた。それが後に結婚し、満足な生活に入つてからは、すつかり詩が腑ぬけになつて拙くなつた。
 その女の人から手紙をもらつて、どうしたら好いでせうといふ相談を受けた時、私は答へることが出来なかつ
 た。原因は解つてゐるけれども、それを言ふ必要はないのである。詩が拙くなるにしたがつて、人生の悩苦は
 解滑して来る。平和な家庭を撹乱し、自ら幸涌を犠牲にしてまで、無理に詩を書く必要がどこノにあるか。人生
 のいちばんの幸頑は、順位敷的な祀合と調和し、平和で常識的な日々の生活をすることである。天才になるこ
 との野心の為に、自己の生活を犠牲にし、華南を賭けることなんか眞ツ平である。況んや阿片などの毒物を飲
 み、無理に健康を害してまでも、人為的に詩興を呼んで季術するなんてことは馬鹿気切つてゐる。
 詩は魂の底の中から、自然に湧き出して生るべきものである。詩は理智によつて構成さるべきものでもなく、
 阿片によつて呼び起さるべきものでもなく、その他の如何なる手段によつても、決して人為的に作らるぺきも
 のではない。古来、多くの詩人等が、好んで阿片や酒の麻酔境に惑溺するのは、詩興を呼ぶための手段でなく
 つて、現賓世界の耐へがたい苦悩からして、逃避するための目的だつた。それ故にボードレエル  阿片惑溺
 者としてのボードレエル1でさへが、詩作のためにする毒薬使用を戒めて居る。彼は断乎たる調子で言つて
 る。眞の詩人は、意識の統一によつてのみ、詩的エクスタシイに入るべきである。その他の不自然なる方法を
 用ゐてはならないと。(人工楽園)
 要するに結論は、この世に「詩の作卜方」などといふ書物が、決して有り得ないといふことに辟着する0天
 質の詩情と詩才を持たない人に、韻律やレトリックの講義をして、百高遠詩の作り方を敦へた所で無益である。
∫夕∫ 廊下と室房

反封に天質の詩人等は、何も学ばないで自ら秘密を知つてしまふ○詩人はすぺて宿命である。詩の作れなくな
つた時期の人は、やがてまたその「運」が廻つてくるまで、虚心に落着いて待つ外はない。「運」といふもの
は、それを熱心に待つてゐる人には、必ずいつかやつて来る0ポオル・グァレリイは、二十年もの長い間、一
筋の詩も作らずに居て、しかも詩のことばかり考へて居た。彼の成功はすばらしかつた。
∫ク2