町の音楽を聴きて
 この頃町を通るぺ蓄音機屋の前に人が一杯群がつて居る。何があるのかと思ふと、レコードの流行唄を聴
いてゐるのである。日本人は音楽嫌ひの国民と言はれるけれども、意外にさうでもないことを知つて驚くので
ぁる。僕には音楽のことはよく解らない。だが大衆の悦んで顆く音楽は、概して皆哀傷を帯び七日本的旋律の
鳩のばかりで、国民性の創作がはつきりしてゐるのが何より面白いことに感じられる。しかも近頃の流行歌曲
は、多分に洋楽の形式が取り入れてあり、伴奏のオーケストラは勿論のこと、旋律や和饗にもすつかり西洋風
が加味されてゐる。つまり形式が西洋風であつて、内容の精神が日本風であり、しかもその封立が不自然でな
く、完全に渾沌とよく調和して居るのである0これが日本人の創造した新時代の蜃術中で、いちばん完成した
傑作にちがひない。
 明治以来の日本の文化は、すべての方面に於て和洋混同の猥雑を績けて来た。西洋の物と日本の物とが、互
に不調和に封立して、どこにも文化の統一が見られなかつた。稀れにその融合を計つたものは、却つて和洋折
衷主義の不自然と階醜とを暴露した。現代日本の若き希望は、徐々に一歩宛でも好小からして、西洋を日本に
同化し、外園を自分に滑化し蓋して行くことにある。その滑化が完全にされた時は、西洋が我々の血液になり、
日本が新しき文化の濁立を宣告し得た時である。ところで大衆と町の音楽師が、或る程度までその濁立を宣言
した。「酒は涙か溜息か」の主旋律は、日本の古い新内節から血統されてゐる。だがそれは昔の鎖国日本でな
〃∫ 廊下と室房

く、多少でも西洋の血を倦質したところの、新日本の濁創を語る音楽である。
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 僕は昔、子供の時に小学校で唱歌を習つた。歌詞は日本語であつたけれども、音楽は西洋の民議やホームソ
ングの顆であつた。僕等はスコットランドの民詰を「螢の光」の歌で唄ひ、歌劇マルタの曲を「庭の千草」の
歌で唄つた。学校ではそれが試験に採鮎された。そこで厭々ながらも覚えさせられ、遠足や集合の時には、皆
で饗高く合唱した○しかし心の中では、眞に面白いと思つたことは一度もなかつた。それょりも町の小唄や流
行唄の方が面白く、時々口ずさんでは先生に叱られた。孝枝を出てしまつてからは、唱歌なんか仝で忘れてし
まつた○たまに思ひ出して唄ふと、子供臭いと言つて皆が笑つた。だが活動馬眞を見ると西洋人の宴合では、
                                     お と な
皆が愉快さうに「螢の光」などを合唱してゐるので、成程西洋では成人の唄ふ歌だといふことを始めて知り、
妙に不思議な菊がするのである。そして又、かうした民衆の唄や社交の唄を、子供の時から教はつてゐる西洋
人を、非常に羨ましくも考へるのである。なぜなら僕等の小学校で敦はるのは、学校以外の杜合では全く唄は
ず、また唄ふ興味さへもないところの、非日本向な外国の俗諮だから。西洋人のやうに、僕等も子供の時に日
本の俗詫を教はつて居たら、後に杜合に出てからも、社交や集合の場合に、どれほど楽しく愉快な生活が出来
たことだらう。
一饅日本の大衆に、純粋の西洋音楽が鰐るだらうか。特に濁逸や英国の音楽が解るだら>γか。音楽はすぺて
の蓼術中で、最も純粋にその園の園民性を現すものである。僕等は西洋の文寧を理解し得ても、音楽は容易に
理辞することが出来ないのだ。その外圃の音楽を、日本の子供に義務教育として敦へるのは、果してどういふ
意味なのだらうれ0子供は仕方なしにそれを覚える。だが眞の心の中では、少しもそれを欒んで居ないのであ
る0すぺての日本の子供たちは、町のレコードが鳴らす日本的旋律の俗詰の方を、ずつと本能的によく理解し

 て唄ふのである。昔、日滑戦争が起つたとき、文部省は多くの軍歌を作つて生徒に敦へ、且つ兵隊にもそれを
教へた。だが兵陵も子供たちも、;もそんな軍歌を唱はなかつた0彼等が悦んで唱つたのは「雪の進軍」と
いふ軍歌であつた。それは馬鹿磯子の旋律を主調に取つて、洋楽風のシンコぺ−ションに作曲したものであり、
歌詞、曲調、共に哀切悲調を帯びた音楽だつた。孝校はそれを厳禁した0だが子供たちは兵隊と共に撃烏くそ
れを唱つた。日露戦争の時も同じであつた。出征の兵隊が唱つた軍歌は、音楽学校の偉い教師たちが、文部省
の依託で作つた軍歌でなく、市井の無名詩人と無名音楽家とが作つたところの、例の「此虞は御圃を何百里」
の軍歌であつた0ケしてこの歌の旋律は、維新戦争に官軍が太鼓と笛で鳴らしたところの、日本人の哀傷を長
                                              ペーソス

く飴博するところの曲に類同して居た。
、大衆は常に批判家であり、しかも民族的良心をもつた批判家である0彼等は決して、自己の民族的血液にな
らない外国文化を受け入れない。文学にまれ、音楽にまれ、彼等の批判は常に現賓に根ざして居る○現資に根
凍を持たず、貴社合から遊離してゐるやうな、畢なるインテリの観念蛮術は、常に大衆によつてはねつけられ
る。外園の輸入文化は、それが民俗的に同化融合された場合に・だけ、大衆によつて肯定される0

 上野音楽畢枚の教室では、十鍵二日の如くワグネルを練習し、バッハ、ヘンデルを演奏し、チゴイネル・レ
ーペンを合唱して居る。その卒業生の大部分は、地方へ行つて畢生に唱歌を敦へ、他の少数の一部分は、都合
の舞蔓に立つて所謂「神聖なる蜃術」を演奏して居る0
これは結構なことかも知れない。だがむしろ馬鹿らしいことでもある〇一望日紫畢枚の設立によつて、日本
の民衆がどれだけ音楽的に教養された心。そもそも日本人の瀬覚を、どれだけワグネルへの理解に近く導いた
か。演奏合に集る群集は、べエーペンのソナタを鵜いて感激し、タキシードを着たピアニストを、幾度も幾
〃′ 廊下と室房

           お じぎ
度も舞憂に呼び出して叩頭させる○だが彼等の群集が、本官にそれを「感激」したのか? 賓際のことを言へ
ば、鍵盤を走る指のスピードに感心したのだ0それから猛のやうな形の男が、名立たを世界的の大家であつた
り、それがまた舞蔓に出て爽て、幾度も叩頭したりするのが面白いのだ。
 日本の新しい音楽文化は、政府の音楽学校から指導されず、貰に衝の艶歌師や小唄作家によつて指導されて
衆た0そして彼等の作る拳術は、音楽学校の先生たちから、まるで非音楽として嘲笑され、拳術といふ名将に
さへも償しないところの、卑俗極まるものとして扱はれて来た0丁度あたかも、日本の昔の漢詩人たちが、和
歌や和文を軽蔑し、女子供の弄ぶ卑俗文学と見て居たやうに0しかも今日の常識は、漢詩人の愚を逆に笑つて
居るのである0僕等の文拳史に残つたものは、むかし卑俗成された和歌国文の顆であつた。濁逸の音楽を紳と
崇め、ワグネルやべ−Tペンの楽譜を、如何に由みに奏すぺきかといふことにのみ、生涯の努力を捧げて居
る音楽家と、貧弱ながらも民衆の心を捉へ、新日本の精神を表象してゐる音楽を、自己の濁創によつて作曲す
る音楽家と、果してどつちが眞の奉術家であるかは明らかである。
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