幸福について


 人間の幸福なんてものは、実に果敢なく詰らないものだと、ニイチェが悲しげな調子で言つてる。なぜとい
つて人生の真の幸福は、宇宙の大真理を発見することでもないし、高遠な大理想を実現することでもない。日
常生活の些々たること、たとへば朝起きて、枕元に暖かい紅茶が入れてあつたり、書斎がきれいた掃除してあ
つたり、机の上に一輪の花が挿してあつたり、昼飯の菜が旨かつたり、妻の御機嫌が好かつたりすることなの
だ。そしてこの実にくだらないことの日課が、幸福そのものの実体なのだと。
 このニイチェの言葉には、彼の「人間的な、あまりに人間的」なものに対する嫌悪と絶望の嗟嘆がこめられ
て居る。だが結局言つて生の意義は、本能獣の感覚を充たすことにしか過ぎないのだらう。大トルストイが生
涯を通して嘆いたことは、美男子に生れなかつたことの悔みであつた。しかも彼のイデアした美男子とは、藝
術的意味の崇高美や深刻美を持つた美男子ではなく、普通の女たちに好かれるやうな、下等な性慾的な顔をし
た色男、即ち世俗の所謂好男子であつたのだ。宿の娘をだました色魔貴族のネフリェードフは、彼が密かに憧
憬したモデルであつた。彼は老年になつてからも、常に鏡を見て自己の容貌を嘆いて居たといふ。トルストイ
ほどの文豪が、何といふ人間的な、詰らない華南を熱情して居たのであらう。そしてしかも、大概の人の求め
てゐる華南とは、実際みなそんなものなのである。
〃J 廊下と室房

 自分の知つてる、或る天分の豊かな小説家が、いつも人々に語つて言つた。自分のこの世に願ふところは、
強健な達ましい肉膿と、三度の食事が旨く食へるところの胃袋である。それさへ紳が輿へるならば、自分の文
畢の才能なんか、豚にやつてしまつてもかまはないと。この小説家は胃が悪く、ふだんに強胃剤ばかりを飲ん
で居た。悲しい辛摘があつたものだ。
∫イ4
 支那の詩人陶淵明は、官を捨てて郷里に辟り、小さな庭に菊を作つたり、妻子を連れて近郊に散歩したり、
子供の勉強を見てやつたり、時に隣人と酒を飲んだりして、平凡な詰らない日課の中に生を経つた。しかもそ
の生活について、陶淵明は最上の幸礪を感じて居た。彿蘭西の詩人ゴルレーヌは、酒代をかせぐために詩を書
いて居た。彼にとつての事摘とは、名饗でもなく奉術でもなく、アルコールに酵つてることの一生だつた。安
直な、意味のない、動物的な麻酔への追求が、悲しい詩人の華南だつた。
 事頑とは何だらう。
エビタロ女によれば、華南とは快楽をほしいままにすることである。だが彼のいふ快楽とは、一片のパンと
少量の水で、心の満足する喜悦を意味した。エビクロスの楽園とは、つまり言つて貧者の天国に過ぎないので
ある。反封にまた支那の楊子は、富者の華南説を教へた。楊子によれば、人間の中の真の人間、即ち所謂聖人
賢者とは、紺王やネロのやうな暴君を言ふのである。なぜなら彼等は、自己の欲情のおもむくままに、道徳や
法律を揉潤して、あらゆる本能の快楽をほしいままにし、しかもその美しい幕の閉ぢない中に、潔よく破滅し
て死んでしまつた。これこそ英雄の生涯だと言ふ。だがこれを実現するには、異常な健康とエネルギイと、そ
れから英大の官と樺カとを持たねばならぬ。楊子の敦へた幸摘説は、富者や帝王のためにしか聴聞されない。
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頭紆〜た0それはバラモン倍の苦行と同じく.「朗計.召.。一一∬一一
虐使による愉悦表象の麻酔であり、心理上の象徽主義に属して居た。中世の基督教徒は、すぺての事頑を来せ
にかけ、現世の快楽を恰慈した。所謂「精神上の幸礪」とは、何かの或る信仰や理念に封する、宗教的なエク
スタシイを意味するのである。さうでもなければ、人は感覚のない精神からのみ、真の満足する華南を感じは
しない。そこでカントは、人生の意義が幸頑になく、義務の遂行にあると敦へた。だが我々は、一濃どんな義
                                                アインス ツアイ アイソス
務を他に負つてるのだ。「汝の生活を規範的にし、萬人の公則律となるやうに行為せょ。」始め! ∴ 二。一、
ツアイ
二。そこで華南とは、濁逸的兵式饅操の教官になることである。
                                                                  ヽ ヽ ヽ ヽ
 ショーペンハウエルによれば、快楽とは苦痛の滑滅した状態を言ふのである。この説の前提には、生れざり
 ヽ ヽ
せばといふニヒルの厭世観が命題して居る。そこで彼の結論は、カルモチンをのんで催眠自殺をする人が、世
の中で一番賢いといふことになる。南無阿爾陀俳。南無阿涌陀彿。
 米国の心理学者ゼームスは、辛礪の正鰹を分数の数理で説明してゐる。欲望の量が分母であつて、生活上の
質敷が分子である。そこで分母の欲望が多いほど、分子の償値が小さくなり、生活への不満感が強くなる。反
対に欲望が少ないほど、分数の俺が大きくなつて、人生が辛頑になるのである」徳川幕府の為政家等は、この
心理拳を應用して、政府の安定の為に人民の不平を押へた。即ち厳重な階級制度や、質素倹約主義や、分を知
ることの教育やで、最低限度の欲望しか、人民の意識にあたへないやうに注意した。老年になつてから、概し
て人が事涌になり、平和と安逸を見出すのもこの馬である0老年は欲望を稀薄にする0収穫すeところは少な
いけれども、費滑するところも少なくなり、差引して安楽を鉄剤する。彿教の説く寂滅為楽は、かうした人生
観の究極哲寧である。
〃∫ 廊下と室房

 自分の知つてる、或る天分の豊かな小説家が、いつも人々に語つて言つた。自分のこの世に願ふところは、
強健な違ましい肉饉と、三度の食事が旨く食へるところの胃袋である。それさへ紳が輿へるならば、自分の文
学の才能なんか、豚にやつてしまつてもかまはないと。この小説家は胃が悪く、ふだんに強胃剤ばかりを飲ん
で居た。悲しい華南があつたものだ。
Jイ4
 支那の詩人陶淵明は、官を捨てて郷旦に辟り、小さな庭に菊を作つたり、妻子を連れて近郊に散歩したり、
子供の勉強を見てやつたり、時に隣人と酒を飲んだりして、平凡な詰らない日課の中に生を経つた。しかもそ
の生活について、陶淵明は最上の華南を感じて居た。彿蘭西の詩人ゴルレーヌは、酒代をかせぐために詩を書
いて居た。彼にとつての幸涌とは、各饗でもなく肇術でもなく、アルコールに酵つてるてとの一生だつた。安
直な、意味のない、動物的な肺酔への追求が、悲しい詩人の辛涌だつた。
 幸礪とは何だらう。
エビクロスによれば、幸頑とは快楽をほしいままにすることである。だが彼のいふ快楽とは、一片のパンと
少量の水で、心の満足する喜悦を意味した。エビクロスの楽園とは、つまり言つて貧者の天国に過ぎないので
ある。反封にまた支部の楊子は、富者の辛涌説を敦へた。楊子によれば、人間の中の真の人間、即ち所謂聖人
賢者とは、射王やネロのやうな暴君を言ふのである。なぜなら彼等は、自己の欲情のおもむくままに、道徳や
法律を揉潤して、あらゆる本能の快楽をほしいままにし、しかもその美しい幕の閉ぢない中に、潔よく破滅し
て死んでしまつた。これこそ英雄の生涯だと言ふ。だがこれを資現するには、異常な健康とエネルギイと、そ
れから莫大の富と樺カとを持たねばならぬ。楊子の敦へた幸両論は、富者や帝王のためにしか散開されない。
 犬儒学者のヂオゲネスは、意志の克己による欲望の香定を教へた。それはバラモン偲の苦行と同じく汁自己
虐使による愉悦表象の麻酔であり、心理上の象徴主義に属して居た。中世の基督教徒は、すぺての季頑を来世
にかけ、現世の快楽を恰慈した。所謂「精神上の幸摘」とは、何かの或る信仰や理念に封する、宗教的なエク
スタシイを意味するのである。さうでもなければ、人は感覚のない精神からのみ、真の満足する幸頑を感じは
しない。そこでカントは、人生の意義が幸礪になく、義務の遂行にあると敦へた。だが我々は、一膿どんな義
                                                  アイソス ツアイ アイソス
務を他に負つてるのだ。「汝の生活を規範的にし、萬人の公則律となるやうに行為せよ。」始め!一、二。一、
ツアイ
二。そこで幸涌とは、濁逸的兵式鰹操の教官になることである。
                                                                  ヽ ヽ ヽ ヽ
 ショーペンハウニルによれば、快楽とは苦痛の滑滅した状態を言ふのである。この説の前提には、生れざり
ヽ ヽ
せばといふニヒルの厭世観が命題して居る。そこで彼の結論は、カルモチンをのんで催眠自殺せする人が、世
の中で一番賢いといふことになる。南無阿涌陀彿。南無阿涌陀彿。
 米国の心理学者ゼームスは、幸涌の正慣を分数の数理で説明してゐる。欲望の量が分母であつて、生活上の
実敷が分子である。そこで分母の欲望が多いほど、分子の償値が小さくなり、生活への不満感が強くなる。反
封に欲望が少ないほど、分数の値が大きくなつて、人生が幸涌になるのである」徳川幕府の為政家等は、この
心理学を應用して、政府の安定の為に人民の不平を押へた。即ち厳重な階級制度や、質素倹約主義や、分を知
ることの教育やで、最低限度の欲望しか、人民の意識にあたへないやうに注意した。老年になつてから、概し
て人が事頑になり、平和と安逸を見出すのもこの馬である。老年は欲望を稀薄にする。収穫すeところは少な
いけれども、費滑するところも少なくなり、差引して安楽を鉄剤する。・俳敦の説く寂滅為楽は、かうした人生
観の究極哲学である。
∫4∫ 廊下と室房

 メエアルリンクは、幸礪を「青い鳥」にたとへた。青い鳥の姿は、月光の森に見る幻影である。一度実鰹を
捕へてみれば、普通のつまらない鳥でしかない。所詮人間の一生は、幻影の烏を探す旗行に過ぎないと、あの
宿命論者の詩人は教へる。だがしかし、ああ幸頑とは何だらう? 人が一生の旗行を終り、ライフの決算をし
ようとして、静かに過去を考へる時、所詮は記憶の追懐しかない。人生の最後の償俺は、その記憶の量の貧富
によつて計算される。過去に於て、一も欲情の充たされなかつた人生。一の衣々しい思ひ出もなく、冒険もな
く、懸愛もなく、ロマンスもなく、骨の白々とした椅子のやうな人生。ただそれだけが老年の追憶に残るとす
れば、ああ人生の総決算は、寂しい悔恨の外の何物でもない。然らば再度、幸涌とは何だらうか? 汝の生き
てる間に、とりわけその青春時代に、すべての衣やかな記憶を作れ。そして善くも慈しくも、人が生きてる問
に経験し得る、一切の人生を経験せょ。度々不幸な結婚や失懸をして、孤猫に取り残された女の悲哀は、一度
の結婚も懸もしないで、無為に過ぎてしまつた老嬢の悔恨にまさつて居る。善くも恋しくも、多くの人生を経
験して、金を費ひ果してしまつた人の零落は、それを所有したままの財布を抱へて、姦しく病死する人にまさ
つて居るゃすぺての快楽は瞬間である。だがその記憶は長く残り、心の陰影に繹聯して、後日の楽しい追憶に
なる。不幸な苦痛の経験でさへも、人生を知つたことの償値に入れられ、生涯の総決算を豊富にする。善くも
慈しくも、自分は人生を経験し、ライフの何物たるかを味ひ知つた。と老年になつて自覚する時、人は死に封
して未練が無くなる。いちばん悪く不幸なことは、過去に何事の追憶もなく、人生を白紙のままで、無為に浪
費してしまつたといふことの悔恨である。この悔恨は死に切れない。しかしながらまた幸頑とは? ああその
恐ろしい虚妄の幻影。悔恨する意識自鰹を、早く糞失してしまふことにあるのかも知れない。
〃β