自分の映像を見て


人はしばしば、自分の姿をイメーヂの鏡に映して、自ら不思議に幻想することがあるものである。僕も時々
自分の姿を、夢幻の杢中に幻覚して見ることがある0さうしたイメーヂの僕の姿は、時としては鳥のやうに見
え、時としては爬患顆のやうに見える0鳥のやうに見える時は、自分の気持ちが高翔して、心の巽がひろがつ
てゐる時であり、爬患頬のやうに見える時は、心が憂鬱に重く沈んで、地面を這ひ廻つてる時である。プラト
ンは詩人の前世を鳥だと言つてるが、爬義は何の前世だかわからない0もつとも進化論によれば、鳥類は爬
慮顆の分化した子孫だから、両者の問に相似の関係がないこともない。
かうした僕の倍像董は、やはり他人の眼にも同様に映るらしく、人からよくカリカチュアにスケッチされる。
中学校に居た時、僕は仲間の生徒から「雀」といふ仇名をもらつた0或る詩人の友人は、僕の姿を鶴にたとへ
た0そして他の男は、僕のことを「闘鶏」と呼び、他の或る人は「肉食烏」にたとへた。先年第毒房から出
した僕の或る本の廣告文には、鶴のやうに孤高で、鴬のやうに勃捷で、鵠のやうに沈痛でといふ工合に、すつ
かり僕を「鳥重し」にして書いてあつた0だが僕の肯像には、妄たしかに爬晶顆のやうな所もあるらしく、
時としては蛇、晰埠なめくぢ、山椒魚の撃たとへられる0先日恩地孝四郎君の紹介で、野村といふ嚢簡馬
眞師が爽て僕の横蓼を映して行つたが、出卒↓つた馬眞を見ると、すつかり爬義の菰であり、蛇、晰暢、ゐ
もり、山椒魚の質感がぬらついてるので、自分ながら気味が悪く欒な気がした。

 、憶人間の肉憶といふものは、精神をすつかり反射的に表象するものらしく、僕の外貌に現れてる形象は、
たいてい僕の精神生活と一致して居る。僕は文学上に於て、多く抒情詩とエッセイとを書いて居るが、詩の方
では生理生活を主として歌ひ、エッセイの方では心理生活を書いて来た。エッセイや論文を書く時、僕の心は
高く高翔して飛んで居るし、「青猫」や「月に吠える」などの詩を書く時は、肉膿的に憂鬱を感じて沈潜して
居る。そこでつまり、僕の心理生活が鳥に現はれ、僕の生理生活が爬虚頬に現はれるといふわけなの灯らう。
 鹿島顆が鳥に化したといふ進化論は、僕にいつも不思議な夢のやうな感じをあたへる。あの重たい腹を引き
ずりながら、地面をぬるぬると這ひ廻つてる宿命的な爬島顆が、地球の引力に反対して、杢中へ高く飛びあが
つたといふことは、生物歴史の夢が語る、最もロマンチックな哲学である。つまりこの事賓は、原始からあつ
た生物の「意志」が、如何にしてそのイデアを現貫に可能にしたかといふこと、即ち低人が如何にして超人に
なり得たかといふことの、ニイチェ及びショウペンハウエル的世界観を示すのである。僕一個人の場合で言へ
ば、僕の生理的憂鬱性である爬晶顆が、心理的に高く飛翔することによつて、元気の好い論文などを書かせる
のである。鳥であるところの僕の姿は、賓在の僕にとつて意志の映像かもわからないのだ。
 トルストイは鏡を見て、此虞に世界の最も醜い人間が居ると言つて嘆いたさうだが、僕もまた時に鏡を見て、
自分の醜い姿をつくづくと嘆息する。自分がもし女のやうに美しくなれるのだつたら、僕は自分の全才能と全
所有とをはふり出し、悪魔に魂を安費りするのだ。世にはハイネのやうに美少年の詩人も居るのだ。老いて醜
貌を天下に曝し、巷のやうに這ひ廻つてる自分を思ふと、暗澹として生活の意味が虚妄になる。人生また何ぞ
再び詩を書かんや。
jO夕 廊下と室房

∫∫α