青猫を書いた頃
青猫の初版が出たのは、今から十三年前、即ち完二三年であるが、中の詩は、その以前から、数年間に書
き貯めたものであるから、つまり垂七年頃から完二三年へかけ毒いたもので、今から約十七年婁の
作になるわけである○十年蚕といふが、十七年も昔のことは、蒼茫として夢の如く、概ね記憶の彼岸に薄ら
いで居る。
しか音響書いた頃は、私の生活のいちばん陰鬱な梅雨時だつた0その頃私は、全く「生きる」といふこ
との欲情を無くしてしまつた0と言つて自殺を決行するほどの、烈しい霊的なパッションもなかつた。つま
り無菅アンミイの生活であり、長椅子の↓に身を投げ出して、梅雨の降り績く外の景色を、窓の撃越し
ソ フ ァ
に眺めながら、どうに是方のない苦悩と倦怠とを、心にひとり忍び泣いてるやうな状態だつた。
その頃私は、高等学校を中途で止め、田舎の父の家にごろごろして居た〇三十五六歳にもなる男が、何もし
ないで父の家に寄食して居るといふことは、考へるだけでも汲ましく憂鬱なことである。食事の度毎に、毎日
暗い警し表現と見合つて居た0折角たのみにして居た一人息子が、学校塞業できずに、廃人同楼の無能
力者となづて、響こともなく家に持つ宗る姿を見るのは、父にとつて耐へられない苦痛であつた。父は私
Z潮周周周姻b副パ耶針耶い針敬なく情ない顛をして居た0私は私で、その父の顔を見るのが苦しく、自費の悲しみに
耐へられなかつた。
かうした生活の中で、私は人生の意義を考へ詰めて居た。人は何のために生きるのか。華南とは何ぞ。眞理
とは何ぞ。道徳とは何ぞ。死上は何ぞ。生とは何ぞや? それから官然の蹄趨として、すべての孤濁者が惑溺
する阿片の瞑想1卜哲挙が私を捉へてしまつた。ニイチェ、カント、ベルグソン、ゼームス、プラトン、ショ
ウペンハウニルと。私は片つぱしから哲学書を乱讃した。或る時はニイチェを讃み、意気軒昂たる跳躍を夢み
たが、すぐ後からショウペンハウエルが来て、一切の意志と希望とを香定してしまつた。私は無限の懐疑の中
を彷捜して居た。どこにも頼るものがなく、目的するものがなく、生きるといふことそれ自身が無意味であつ
た。
すべての生活苦悩の中で、しかし就中、性慾がいちばん私を苦しめた。眈に結婚年齢に達して居た私にとつ
て、それは避けがたい生理的の問題だつた。私は女が欲しかつた。私は羞恥心を忍びながら、時々その謎を母
にかけた。しかし何の学歴もなく、何の職業さへもなく、父の家に無為徒食してゐるやうな牛廃人の男の所へ、
容易に妻に来るやうな女は無かつた。その上私自身がまた、女性に封して多くの夢とイリュージョンを持ちす
ぎて居た。結婚は容易に出来ない事情にあつた。私は東京へ行く毎に、町を行き交ふ美しい女たちを眺めなが
ら、心の中で沌々と悲しみ嘆いた。世にはこれほど無数の美しい女が居るのに、その中の一人nへが、私の自
由にならないとはどういふわけかと。
だがしかし、遽に結婚する時が来た。私の遠縁の伯父が、彼自身の全然知らない未知の女を、私の両親に説
いてすすめた。牛ば自暴自棄になつて居た私は、一切を運に任せて、選定を観たちの意志にまかせた。そして
スペードのりが骨牌に出た。私の結婚は失敗だつた。
22J廊下と室房
陰鬱な天気が日々に績いた0私はいょいょ慧になり、懐疑的になり、虚無的な暗い人間になつて行つた。
そしていょいょ深く、密室の中にかくれて瞑想して居た0私はもはや、どんな哲芸も讃まなくなつた。理智
の考へた抽象物の思想なんか、何の意味もないことを知つたからだ0しかしショウペンハウニルだけが、時々
影のやうに現はれて来て、自分の悲しみを慰めてくれた0概念の思想そのものではなく、彼の詩人的な精神が、
春の夜に聴く横笛の音のやうに、悩ましいりリカ〜の思ひに充ちて、煩悩聖晶の生の解脱と、寂滅彙のニ
ヒルな心境を撫でてくれた0あの孤濁の筆者が、密室の中に濁りで坐つて、人間的な欲情に悩みながらも、
終生女を罵り世を呪ひ、濁身生活に経つたといふことに、何よりも深い眞の葦的意味があるのであつた。
「宇宙は霊の現れであり、霊の毒は悩みである0」とシ言ペンハウエルが書いた後に、私は付け加へて
「詩とは霊の好況であり、その捏柴への思慕を歌ふ郷愁である0」と書いた0なぜならその頃、私は嘉の詩
を書いて居たからである。
222
そこにはなにごとの希望もない
生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ
つ ゆ .
梅雨だ
じめじめとした雨の鮎滴のやうなものだ
しかしああ1また雨! 雨! 雨!
ハ憂鬱の川遽)
と歌つた私は、なめくぢの這ひ廻る陰鬱な墓地をさまよひながら、夢の中で死んだ敬人の幽警密合して、
一ヽ ヽ ヽ ヽ
・あ な た
とうして賓女W筈に衆たの↑
やさしい、青ざめた、草のやうにふしぎな影よ。
貴女は貝でもない、雉でもない、猫でもない。
さうしてさびしげなる亡塞よ!
========……・・(中略)
さうしてただ何といふ悲しさだらう。
い の ち
かうして私の生命や肉饅ばくさつてゆき
「虚無」のおぼろげなる景色の中で
艶めかしくも、ねばねばとしなだれて居るのですよ。 (艶めかしい墓場)
と、肉鰹の自然的に鰐滑して行く死の世界と、意志の寂滅する捏柴への郷愁を切なく歌つた。
▲蠣煽のむらがつてゐる野原の中で
わたしはくづれてゆく肉饅の桂をながめた。
それは脊闇にさびしくふるへて
影にそよぐ死びと草のやうになまぐさく
ぞろぞろと粗品の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。
=…==…………=・ハ中略)
それ緑風でもない、雨でもない
\
2ヱ,廊下と室房
そのすぺては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ。
さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に
わたしのくづれて行く影がさびしく泣いた。
(くづれる肉鰹)
ハウエル的捏柴の侍しくやるせない音感を、印度の蛇使ひが吹く笛にたとへて、
の上に寝たままで、肉燈の自然的に鮮滑して物理学↓の原素に慧し、一驚「無」に化してしまふことを願
−ノ 1.ノノ 」「れuド < Z盲、ノ.・7 .1フフ 〈、、1一.
と、ショウペンハム
リッタで低く歌つた。
自殺の決意を持ち得ないほど、霊の滑耗に疲れ切つて居た昔時の私は、物偉く長椅子
■▲・l
郷愁のリ
ソ フ ァ
224
つて居た。
どこに私らの事頑があるのだらう
で い ど
泥土の砂を掘れば掘るほど
悲しみはいょいょ深く湧いてくるのではないか。
::≡:::≡::==(中略)
ああもう希望もない、名著もない、未来福ない。
さうして取りかへしのつかない悔恨ばかりが
野鼠のやうに走つて待つた。
(野鼠)
もなく、受任のデリカシイもなく、畢に肉慾だけで結ばれてる男女が、古い家族制度の家の中で同棲して居
ノJ」 オ lU▼1く∃「 ′し.↑.1■.′■−.、.ノ
それほど私の悔恨は痛ましかつた0そし三切の不幸は、誤つた結婚生活に原因して居た。
理解もなく、愛
ソ フ ァ
儲して増り、ぞの上にも子供が生れた。私は長椅子の上に身牢投げ出して、昔の懸人のことばかり夢に見て
居た。その昔の死んだ女は、いつも紅色の衣装をきて、春夜の墓場をなまぐさく歩いて居た。私の肉膿が辟燈
して無に辟する時、私の意志が彼女に逢つて、燐火の燃える墓場の陰で、悲しく泣きながら抱くのであつた。
ああ浦、さびしい女!
「あなた いつも遅いのねえ。」
ぼくらは過去もない、未来もない
さうして現賓のものから滑えてしまつた===
浦!
この へんてこに見える景色の中へ
泥猫の死骸を埋めておやりよ。
(猫の死骸)
浦は私のリヂアであつた。そして私の家庭生活全饉が、完全に「アッシャア家の洩落」だつた。それは過去
もなく、未来もなく、そして「現賓のもの」から滑えてしまつた所の、不吉な呪はれた虚無の貰在 アッシ
ャァ家的賓在1だつた。その不吉な汚ないものは、泥猫の死骸によつて象徴されてた。浦! お前の手でそ
をのの
れに解るのは止めてくれ。私はいつも本能的に恐ろしく、夢の中に泣きながら戦いて居た。
それはたしかに、非倫理的な、不自然な、暗くアブノーマルな生活だつた。事茸上に於て、私は死産と一緒
に生活して居たやうなものであつた。きうでもなければ、現書から逃避する道がなく、悔恨と悲しみとに耐へ
なかつたからである。私はアブノーマルの仕方で妻を愛した。懸人のことを考へながら、妻の生理的要求に應
22∫ 廊下と室房
トト = 川什什川川什川川u
じたのである0妻は本能的にそれを気付いた○そして次第に私を離れ、
他の若い男の方に近づいて行つた。
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 、 、
すぺては不吉の宿命だつた0私は埠去を回想して、ポオの「大鶴」の歌のやうに、ねえばあ、もうあ!
えばあ、もうあ!と、悪意しく叫び績けるばかりであつた0しかしそんな虚無的の悲哀の中でも、私は伶
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 、
「美」への切ない憧憬を忘れなかつた0意志もなく希慧なく、疲れ切つた寝床の中で、私は枕時計の鳴るオ
ルゴールの歌を聴きながら、心の郷愁する侍しい地方を巡歴した。
馬や賂駐のあちこちする
光線のわびしい沿海地方にまぎれで来た
交易をする市場はないし
け つ と
どこで毛布を費りつけることもできはしない。
店舗もなく
さびしい天幕が砂地の上にならんでゐる。
(沿海地方)
か淵
そんな沿海地方も歩いたし、蛙どもの群つてゐる、さびしい沼浮地方も巡歴したし、散歩者のうろうろと歩
いてる、十八世紀頃の侍しい碁衝の通りも歩いた。
太陽は顆限に遠く
光線のさしてくるところに、ぼうぼうといふほら貝が鳴る。
お嬢.さん!
Z周凋淵」椅毒1.パレ.
かl?して寂しくぺんぎん鳥のやうに並んでゐると
ヽ ヽ ヽ
愛も肝犠も、つららになつてしまふやうだ。
=…==……=・(中略)
どうすれば好いのだらう、お嬢さん!
ぼくらはおそろしい孤濁の海遽で、貝肉のやうにふるへてゐる0
そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし
こんなにも切ない心がわからないの? お嬢さん! (ある風景の内敷から)
水島の上に坐つて、永遠のオーロラを見て居るやうな、こんな北極地方の俺しい景色も、夢の中で幻燈に見
た。私のイメーデに浮ぷすべての世界は、いつでも私の悲しみを表象して居た0そこの杢には、鈍くどんより
とした太陽が照り、沖には沈捜した帆船が、蜃東榎のやうに浮んで居た0そして永劫の宇宙の中で、いつも静
止して居る「時」があつた。それは常に「死」の世界を意味して居たのだ0死の表象としてのヴィジョンの外、
私は浮べることができなかつたのだ。
むかしの人よ、愛する猫よ
私はひとつの歌を知つてる
き す
さうして速い海草の焚けてる杢から、爛れるやうな接吻を投げよう0
ぁぁこのかなしい情熱の外、、どんな言葉も知りはしない。 (怠惰の暦)
フ2ア 廊下と室房
詩集「青猫」のりリシズムほ、要するにただこれだけの歌に革きてる0私は昔の人と愛する猫とに、爛れる
やうな接吻をする外、すぺての希望と生活とを無くして居たのだ○さうした虚無の柳の陰で、追懐の女としな
き す
だれ、艶めかしくもねばねばとした邪性の淫に耽つて居た0青猫毒の詩は邪淫詩であり、その生活の全膿は
非倫理的の罪悪史であつた0私がもし紳であつたら、私の過去のライフの中から、この生活の全館を抹殺して
しまひたいのだ○それは不吉な生活であり、陰惨な生活であり、恥づぺき冒漬的な生活だつた。しかしながら
またそれだけ、青猫の詩は私にとつて悲しいのだ0今の私にとつて、青猫の詩は眈に「色の槌せた彗のやう
な思ひがする0しかもその色の槌せた花を見ながら、私はいろいろなことを考へてるのだ。
見よ! 人生は過失なり1と、私は近刊詩集「水島」中の或る詩で歌つた。まことに過去は繰返し、過失
は永遠に回蹄する0ボードレエ〜と同じく、私は悔恨以外のいかなる人生をも承諾しない。それ故にまた私は、
色の礎せた青猫の詩を抱いて、今もまた昔のやうに、人生の久遠の悲しみを考へてるのだ。
22β
復活した耶蘇の話
山から降りて来た時に、耶蘇は全く疲れきつて居た0数時間に亙る必死の析痔も、彼の杢虚の心を充たすこ
とができなかつた0重たい疲れた足を引きずりながら、傷だらけになつた耶蘇の心が、麓の方へ歩いて来た時、
午後の日光は大埠に照りつけ、耕土の↓に輝いて居た0そこには弟子のぺテロが寝て居た。ベテロは師の辟り
を待づてる中に、何時しか療入つてしまつたのである○耶蘇はその姿を悲しく眺めた。生死の頓に立つてる自
分が、最後の新穂をして居る間、呑気にも心地よく眠つてる弟子の蛮が、悲しくもまた羨ましく思はれた0
「その心は願ふなれども、肉饅弱きなり。」
と、耶蘇はベテロに言ふのでもなく、濁り言のやうにつぶやいた0その言葉の深い意味には、彼自身に対す
る憐憫と寂蓼がこめられて居た。
耶蘇はこの頃になつてから、自分の破滅が近づいてることを直覚した0民衆は彼を羅馬人に訴へた0法律に
ょって私刑が禁じられてなかつたら、羅馬の裁判に訴へる前に、寧ろ民衆自身の手で殺したかつたのであらう0
耶蘇はその民衆の怒りをよく知つて居た。なぜなら民衆の求めた紳は、耶蘇の説く紳とはおよそ正反対の紳で
ぁった。民衆は何よりも自由と攣止を欲求して居た。エヂプト人や羅馬人やによつて、その民族の故国を奪は
れ、奴隷として長く逆歴されて居た猶太人等は、彼等に約束されてる新約の紳の姿を、あの怒りと復讐の紳で
ぁる蕾約のエホバに眺めた。エホバの子がもし異にエホバの子であるならば、火と電光によつて彼等の敵(歪
むべき暴虐者共)を撃滅し、地上に於ける猶大人の復讐を完成してくれなければならない筈だ0すべての猶太
人等が、火のやうに渇き求めて居るキリストはそれであつた0所で耶蘇は、彼等に無抵抗主義の愛を敦へた0
「カイゼルの物はカイゼルに返せ。」不幸な隷属者としての猶大人等は、永久に隷属者としての宿命を天に約束
されて居るのである。耶蘇がもし眞に新約のキリストだつたら、猶大人のあらゆる歴史的熱望は水泡である0
耶蘇を殺さなかつたら、猶太人の夢が死んでしまふ。
耶蘇は死を恐れなかつた。だが彼は近頃になつて、肉饅の疲労の加つて来ることを強く感じた0彼の年齢は
まだ若かつた。しかし彼の過去の戦ひは、長くそして苦しかつた0至るところに、彼はその強大な敵を持つて
居た。パリサイの孝者と、璧鼻と、猶太の愛国者と、民族主義者と0そtて箕に猶太人全饅でさへもあつた0
22夕 廊下と室房
後は自身の弟子のことを考へて寂しくなつた0べテロも、ヨ∴ネも、ヤコデも、無知な漁師の素朴性から、単
に彼の奇蹟を信じて居るにすぎないのである0そしてこれだけが彼の全慣の味方なのだ。この頃になつて、耶
蘇は戦ふことに疲れて来た0或る夜の夢では、猶太人の氏神であるエホバが、民衆と共に彼を怒つてる幻さへ
見た。そのエホバは戦車に乗り、萬軍をひきゐて羅馬人等と戦つて居た。
耶蘇はマリアのことを考へて居た。星のやうな明瞭と、胡腕色の髪毛とを持つた若い娘は、耶蘇の魂にとつ
ての音柴だつた。心のひどく疲れた時、絶望的な懐疑に悩んだ時、耶蘇はいつもマリアの所へ蹄つて衆た。マ
リアは彼の心の「休息」だつた。その外のどんな世界も、耶蘇に休息をあたへなかつた。美しいマリアは、疲
れ傷ついてる耶蘇の額に、いつも優しい接吻をした。
耶蘇はまたマリアの家で、近頃した婁合のことを思ひ出した。十二人の弟子の外に、美しいマリアが列つて
居た0もう一人の女、マリアの姉は憂所で働いて居た。耶蘇は絶えず酒盃を乾し、元気に愉快らしく話をして
居た0その間中、マリアは耶蘇の側に寄りそひ、さも楽しげに男の顔を眺めて居た。耶蘇の高い秀麗な鼻、貴
族的な廣い額、縮れた金色の髪毛。すぺて皆マリアにとつての夢想的な歎美であつた。耶蘇の語るすべての言
葉は、詩か音楽か何かのやうに、彼女の耳に恍惚として準えるのだつた。
「お前つたら0何だね0側にばかり食つ付いて居て、少しはお料理の方も手樽つてくれないの。私一人で働い
てるのに。」
と、その時蔓所から出て来た姉娘が、少しは嫉妬も混つてマリアに言つた。
「はふつておけ0・俺は自分の為に料理をこしらへてくれる親切より、俺の話を故きたがる女の方が嬉しいの
だ。」
2∫0
と耶蘇が言つた。うら若いマリアにとつて、耶蘇の言葉は愛の表現のやうに感じられた0彼女は興奮し三止
ち上り、卓上の美しい花瓶を両手に抱いた。その花瓶の中には、アラビアの高貴な香油が充たしてあつた0
リアはそれを耶蘇の身鰹にふりかけた。
マ
目ざめるやうな百合の匂ひが、部屋中いつぱいにむせ返つて、異常な昂奮が人々の心を捉へた0
「馬鹿な眞似をするなツ。」
と、隅の椅子の上からユダが叫んだ。
「世には貧乏人が澤山居るのだ。そんな贅澤な眞似をするなら、何故その金で飢ゑてる者を救はないのだ0」
ュダの言葉の深い意味は、耶蘇によく解つて居た0民衆の求めてるものは愛でなくて復讐なの.だ0その上に
彼等は峯腹で飢ゑて居るのだ。「先づパンをあたへょ○次に自由と平等の権利をあたへょ0然る後に汝の勝手
な璧日を説け」と彼等は叫ぶ。眞に民衆を救ふものは、塞の永生を説く宗教でなくして、物質の平等と革命を
約束する、経済上の法則であるかも知れない。ユダは耶蘇一行の財政を虞理してゐたところの、唯二の弟子中
での経済挙者であつた。
ュダの思想は、いつも耶蘇の心を暗く寂しくした。彼は自分の璧日を本質的に懐疑して居る0いつか自分の
死後に於て、ユダは第二のキリストとなるだらう0自分の基督教は早く亡びる0だがユダの基督敦は長く残る0
ユダは自分の琴音を敵に要り、地下にも長く耶蘇敦の敵となるであらう0
耶蘇は悲しくなつて目を伏せた。そして過失を犯した罪人のやうに、小さくおどおどして居るマリアの方へ、
催しく力のない硯線をやりながら。
「許してやれ。こんな純情な若い娘を、皆であまり苛めるな0」
フォーク
と彼自身を憫むやうにつぶやいた。それから肉叉に肉を刺して、ユダの口へ入れながら、そつと耳元で囁い
2∫∫ 廊下と室房
臣トぎ
た。
「行け。敵に俺を辛つて来い。」
ゴルゴタの砂丘の上に、三つの十字架が立てられて居た0その眞中の一つに耶蘇が架けられて居た。太陽は
室に輝き、砂丘には白い陽炎が燃えて居た○耶蘇は肋骨から血を流して居た0兵卒は槍の先に海誓つけ、酢
を含ませて耶蘇のロにあてがつた0それでもしかし、彼の烈しい渇きと苦痛は止まなかつた。
「これで俺は死ぬのか0だが死ぬといふ筈は絶封にない0俺は紳から永遠の生命を約束されてる。俺が死ぬと
いふ筈は決してないのだ0いや、俺は死なない○俺は死といふ事賓を承諾しないのだ。」
耶蘇は恐ろしい意志の力を集中して、最後まで死と戦はうとして抗争した。なぜならその死の軍在する彼岸
には、何もない虚無の暗黒が見えて来たから0彼は歯を喰ひしばつて苦痛に耐へ、意識を把持しょうとして焦
晩した0だが夜の闇が近づく頃に、彼の意識もまた次第に暗くかげつて行つた。
「えり。えり。らまさばペたに!」
と、最後・の残された意志を集中して、引き裂くやうに烈しく絶叫した0その言葉の意味は「紳よ。何ぞ我れ
を経て給ふや0」といふのであつた0奇蹟は遽に起らなかつた○夜が静かに更けて、星が峯に輝やいて居た。
広かな薄暮のやうな意識が、長く墓石の↑で持績して居た0耶蘇の呼吸は止つたけれども、彼の張りつめた
意識だけが、地下に眠る冬眠の蛇のやうに、微かな明暗の境を彷捜して居た。耶蘇は墓場の下で生きて居たの
であつた。
初めはただ暗黒だづた0それから薄明のやうな日影が漂つて居た。
「何故だ? 何故俺は舵のやうに、こんな暗い地下に寝て居るのだらう。」
2∫2
..。H→、Nト⊥Y.、、
と、その薄明の意識の中で、耶蘇は撮ら博しく考へて居た袖何といふ理由もなしに、存在することそれ自身
が悲しかつた。彼は聾をあげて泣きたかつた。或る形而上学的な、それで居て本能的な強い悲しみが、胸をえ
ぐるやうにせきこんで来た。「何がこんなに悲しいんだ?」と、彼は自身に反問した。そしてこの反問自身が
また悲しかつた。欽軟の情が喉の下までこみあげて来て、押へることが出来なかつた。夢の中の泣饗みたいに、
馨は音響に現れなかつた。そしてただ涙だけが、顔中いちめんを濡らして流れ出し、止めやうもなく後から後
からと湧くのであつた。
「此虚は何虞だ? 俺は一饉どうして居るのだ。何がこんなにも悲しいのだ?」
と、再度また繰返して考へてみた。
「過去の地上に居た時の生活だらうか? あの民衆に封する敗れた戦ひの記憶だらうか? それとも信仰に封
する自分の傷ついた懐疑だらうか? 香。ちがふ。ちがふ。もつと外の別の物だ。何か、もつと深く、曖昧で、
俺の感情に食ひ込んでる別の物だ。」
けれども認識を捕へることが出来なかつた。耶蘇の知つてるすべての事は、すべての現象する宇宙の中で、
悲哀だけが賓在するといふことだつた。そしてこれだけが、賓にまざまざとはつきりした事貰であつた。
薄暮の灰明るい光の中で、何虞か遠く逢かな方から、女のすすり泣くやうな饗が聴えた。その悲しげな女の
挙が、宇宙に賓在する本質の物、即ち彼の悲哀の神秘を解きあかしてくれるやうに思はれた。耶蘇は墓の下で
耳を澄まして居た。
一筋の微かな光が、糸のやうにさまよつて居た。長い長い時間が過ぎた。それから次第に明るくなり、地下
の暗闘の中の穴にも、幽かな黎明の気合ひがした。 ・
「死んではいや。死んではいや。」
2∫∫ 廊下と室房
耶蘇が墓慧ら生き返つた時、一人の女が彼の側で泣き崩れて居た0それはマグダラのマリアであつた。彼
女は涙に警濡らしながら、流血にまみれた耶蘇の警雪に抱き、烈しい接吻の雨をあびせて泣き悶えて居
るのであつた。
「マリアょ○泣くな。俺は生きてる。生きてるのだ。」
耶蘇の饗は、しかし女の耳に通じなかつた○なぜなら彼の饗は囁からでなく、肉鰹以外の別な壷的意識から
出たのであるから0死して三日目に蘇生つた耶蘇キリス左、その血まみれな死骸のままで、かうして永遠に
よみがへ
女の手に抱かれて居たのであつた。
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