周作人氏の詩話
支那の文士周作人が来朝して、讃膏新開に支那の文壇現状を紹介してゐる。それによると支那の文壇も日本
と同じく、小説ばかりが繁盛してゐる小説猫占の文壇で、詩や戯曲は一隅に小さくいぢけて、全然磯育しない
さうである0周作人氏はこの原因を説明して、支那現代語の特殊事情によると言つてゐる。即ち支部の現代語
は、過渡期の混乱と猥雑を極めて居り、特に日常の合重岬(口語)に至つては、あまりに粗雑で非蜃術的であ
りすぎるため、封諺を圭とする戯脚が一向に柴えないのだと言つてる0詩の方も同じことで、かうした粗野の
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非彗術的な言葉のために、詩人が、表現の道を塞がれてゐるのだと言ふ溜パ郎】言つて・古語の漢文を使用した誇は、
既に杜甫や李白で完成の極致に達してゐるため、新しい饅展の鰊地がなく、今日の詩人が出るとすれば、やは
り今の支那語である時文の現代語を用ゐる外はないのである。しかもその現代語が、かうした非蓼衝的猥雑の
状態にあるとすれば、そもそも詩人の行く道はどこにあるのか。それでも大勝の青年たちは、さうした現代語
や口語饅で、勇敢に新しい詩を書いてゐるのだが、それらの詩には報律もなく音楽もなく、且つ言語的にひど
く粗雑で、詩としての美しい奉術形態をなしてゐない。即ち言へば、普通の散文を行わけにして書いたやうな
ものであるため、文壇からは非拳術品として軽蔑され、殆んど問題にされないのだと言ふ。周作人民は、伶ほ
徹底的に観察して、支那では官分、小説以外の文筆は柴えまいと言つてゐる。言語が今少し統一されて、今少
し奉術的洗煉を経る時代までは、どんな詩人が出ても駄目であり、天才の伸びる横線が無いと言つてゐる。
                                                     し


 この支那の現状こそ、正しく日本の現状と同じである。僕がかつて朝日新聞に書いた如く、詩人が言語を生
むのでなく、言語が詩人を生むのである。今日の日本の如く、言語が不統一で猥雑粗野を極めてる杜合からは、
決して眞の拳術的な詩や詩人は生れはしない。たとへ詩人的な善い素質を持つた人が生れたところが、肝腎の
言葉がガラクタで、表現の道具が無いのだから仕方がない。想像して見給へ。かりに今の日本に、グェルレー
ヌやボードレエルのやうな素質をもつた人が出たところで、その書くところの詩は、所詮やはり散文的な行わ
け文畢にしかすぎないだらう。厳重な意味で「詩」と呼ぶためには、言語に美しい節奏があり、一語一語が呼
吸を有し、すぺてに於て散文と全く差別し得るところの、純粋なる蜃術的至実の形態が無ければならぬ。(そ
れ故にこそ、詩は文学の王なるものである。)
 今の日本の詩と呼ぶものは、どうヒイキ目に観察しても、拳術的純粋の形態美をもつものではなく、まして
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∫の 純正詩論

やこれを「文学の王」などとは義理にも言へない。明白に言つて、小説の方がずつと逢かに秀れて居り、内容
上にも形式上にも、詩より却つて上位に居る文学である。支那と同じく、日本でも詩が文壇的に軽蔑され、非
奉術的な雑文扱ひにされるのは富然である。そしてしかもこの罪は詩人になく、我々の時代の日本の政令、文
化の現状そのものにあることを考へる時、暗然として心悲しく、この生存する時代と環境のすべてに封し、我
が憤ろしき「虚妄の正義」のニヒリスチックな哲孝を考へざるを得なくなるのだ。
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 周作人民はまた支那語の頚律に就いて言つてる。支那の古い文章語、即ち漢文には立汲な韻律が存してゐる
が、現代の支那語には韻律がなく、その為に詩人が困つてゐるさうである。この鮎もまた日本の現状と同じこ
とで興味が深い。日本語も昔の文章語には韻律があるが、今の現代語には全く無い。現代語で七五調等の眞似
をすると、都々逸や俗謡小唄のやうなものになり、調子が軽く下卑て来て仕方がない。支那語もやはりその通
りで、現代語で報を踏むと支那の都々逸になるさうである。そこで支那の詩人たちは、韻律を捨てて散文の桟
式で書いてゐるのだが、これが前言ふ通りの非奉術品で、賓際には詩と認められない文学なのだから、そこに
彼嘗の悩みがあるわけである。支那と日本と。この「欧化しっつある東洋諸邦」が、今日文明藤生の過渡期に
於て、詩人の悲しみを共にしてゐる。