詩の原理 概説
詩とは何ぞや
時間と客間
時間的に考へるか。笠間的に考へるか。認識に於ける宇宙は、二つの形式の外に出ない。
音楽と美術
 蜃術の表現が、二つの別々の立脚鮎から、夫々の美的宇宙を認識してゐる。音楽とそして美術。音攣は時間
について形式を取り、美術は室間について形式を取る。
音楽にある形式は、流動、攣化、生命、頚律、メロデイ、不断に流れて行く時間の芙い
 美術にある形式は、不動、固定、物質、位置、封此、調和、均再、常に凝固する客間の美。
 音楽はリズムを求め、美術はスぺ−スを要求する。
 音楽は「進行」し、美術は「建築」しょうとする。
 音楽は「心」を訴へ、美術は「物」を観察する。
】晋契はコ士観」 に」属し、美術は 「客観」 に】属してゐる。
浪漫主義と現賓主義
 すぺての文筆の形式は、本質に於て二つの範疇の外に出ない。浪漫主義の文畢と、そして現貴重義の文学と。
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 或る文畢、もしくは文畢するところの精神が、人生を時間的に眺める時、彼等はロマンチシズムの系統に属
するだらう。
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 成る文学、もしくは文寧するところの精神が、世界を宅間的に考へる時、彼等はレアリズムの系統に入るで
あらう。
 浪漫主義は時間に立ち、現貴主義は茎間に立つ。この文学に於ける二つの範疇は、封此的でなくして絶対的
だ。出態鮎の始めからして、彼等は地球の反極に立ち、二つの別々の形式で宇宙を見てゐる。
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 文学に於ける浪漫主義は、表現の絶頂に音楽をもつ。音楽に向つて、創作する最高のイデアが吸ひあげられ
る。
 文筆に於ける現貴主義は、表現の典型に美術をもつ。より美術に近づくほど、レアリズムの文寧は睾術化し
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てくる。文学が、もしそれ自ら美術となつたら、彼等の表現は完成したのだ。
詩と散文
文拳の世界に於て、詩は時間の宇宙を眺め、散文はその昼間を認識してゐる。
__空
イイ
イ∫ 純正詩論

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 詩と散文の直別は紹封的だ。表現の出餞鮎から、彼等は地球の反極に立ち、各ヒの別の祀軸で、別の宇宙を
眺めてゐる。
 詩は時間に立つて歌ひ、散文は茎問にゐて描馬する。
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 それ故にまた、詩の形式は韻律やメロヂイの流動する浪を求める。詩は言語の音楽なしに有り得ない。音律
と調べとは、詩の必然の形式である。
 散文には音楽が要求されない。散文は言語を建築の方に求めて行く。それは流動を排して固定を取り、物質
の凝縮する世界の方へ、言語のポイントやシムメトリ√を摸索して行く。散文の賓術的典型は美術である。
イ∂
詩と散文
 詩と散文の直別は絶封的だ。畢なる形式の上の直別でなく、そもそも文学が出磯する、根本精神からの相違
なのだ。
 」音楽と美術とが、すぺて宰術を両断して示すところの、二つの対極的表現である如く、詩と散文とがまた、
文畢に於ける二大形式の封照である。すべての文学形式は、詩であるか、散文であるか、どつちかでなければ
ならない。文学は昔からして、二つの形式によつて両断されてる。そして伶ほ未来も、この両断は永久に改行
する。
詩的精紳と散文的精神
■ 習叩

 詩的精神の本軍は時間に立つ。故にその文学はロマンチシズムの系統に入る。散文的精神は客間に立つ・故
にその文学はレアリズムに所属する。今日の文学として、小説は散文孝の典型であり、詩に対するレアリズム
を対照してゐる。
 或る小説等は、しかしながら浪漫主義と呼ばれて居り、それ故にまた「詩的な文学」と考へられてる。確か
に、それらは音楽があたへる時間実の魅力を持たねばならない。換言すれば文学は、音楽が典型する表現に近
づくことから、初めて純に「詩」と言ふことができるのである。未だこの至高形式に達しない不純のものは、
畢に「詩的な文学」と言ふに止まる。
 それ故に「詩」は、文学に於ける一つの形式であり、形式に名付けられた名構である。しかもその形式は、・
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初めから詩を表現しょうと情意するところの、必然の内容(棉紳)によつて決定されてる。Il詩人だけが詩
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を作るのである。
      韻文と散文


 プP−ズ        パース
 散文といふ言葉は、元来韻文に封する相封語で、詩に封する封語ではない。詩は文畢の種目に属する名題で
あるから、詩の封語として小説や、随筆や、エッセイやの文学種目をあぐべきである。我々が詩の封語として
散文の語を用ゐるのは、一つの不用意の習慣にすぎないのである。
 報文といふ言語の字解は、一定の詩季的法則をもち、押韻や、平灰や、語数律やの、規則的に定形された文
章を言ふのである。これに対する散文の語は、かかる苛律的法則を持たないところの、自由律で書いた文鰹を
意味してゐる。
イア 純正詩論

 昔にあつては、哉文と詩とが同字義に考へられ、韻文であることの形式が、それ自ら詩であることの形式と
考へられた。けれども今日の詩壇人は、かかる観念を偏屈として排斥する。なぜなら所謂散文(頚律を踏まな
い文章)の中にさへ、往々却つて領文にまさるところの、特殊な美しい音楽があるからである。
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 詩は音楽を必要とする。しかしながら必ずしも哉律や法則を必要としないのである。
イ∂
散文詩と報文詩
 音楽は散文の中にも有る。散文によつても、僕等はよく詩を作ることが出来るのである。
 かく散文の形式から音楽を取り、散文によつて書かれた詩を、僕等は普通に「自由詩」と言ひ、或は時に
「散文詩」と呼ぶ。この形式に於ける自覚の創造者は、大陸に於てはボードレエルがあげられてゐる。ボード
レエルはこれによつて、有名な散文詩集(巴里の憂鬱)を著はしてゐる。彼の友人にあたへた書簡によれば、
彼はこの新しき詩の形式を、ベルトランの散文から暗示されたのである。彼は言つてる。「リズムもなく押韻
もなく、しかも音楽的であつて、魂に抒情的な波動をあたへるやうな、十分に柔軟で緊張した不思議な言語。」
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を、自分はベルトランの散文から饅見した。それによつて自分は、散文で詩を書くことの可能性を蜃見したと。
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 散文詩の概念はこれに轟きる。散文詩といふ言語の正しい意味は、散文の音柴によつて書いた詩といふ意味
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である。そしてこの言語は、韻文の音楽によつて書かれる詩、即ち韻文詩と相対される。
「韻文詩」と「散文詩」と。二つの詩形は封構される。しかしながら共に、救果の音楽を求めるのは一である0
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音楽へのあこがれなしに、如何なる散文詩もなく韻文詩もない。香、詩それ自慣の形式がないのである。
印象的散文は詩に非ず
 文学は一つの線で両断される。時間的視野に立つ表現と、巷間的視野に立つ表現と。前の者は音楽にあこが
れて行き、後の者は美術の表現に追従して行く。前の者は詩であり、後の者は小説である。前の者は「情象」
し、.後の者は「描馬」する。なぜなら情象は時間上の主観に存し、描馬は杢間上の客観に存するから。
 それ故に詩が、時間を離れて客間の立場に移り、音楽を忘れて美術に行く時、そもそも根本に於て文孝を失
脚してゐる。或はもし、一つの新しき文学であるか知れない。しかしながら断じて、正統の 「詩」といふべき
ものではないのである。正しくそれは、小説や描馬文畢の中に段落した、一個の邪道文嚢にすぎないのである。
 今日の詩壇に於て、僕等はこの種の攣態文学を見せつけられてる。彼等の或る者は、自らそれを「散文詩」
と呼び、或は「散文で書いた詩」だと言つてる。だが散文詩の定義は前に適ぺた。音楽なき散文詩は考へられ
ない。そして散文で書いた詩とは? 散文が小説等の散文であり、描馬を意味する散文ならば、だれが散文に
ょつて詩を書き得るか。それでもし詩が書けるなら、詩は初めから小説等の一種属である。即ち「詩」といふ
文学はどこにもないのだ。若し別にあるとすれば、それは小説等と封立する詩でなくして、ひとしく描馬文学
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の一種顆に属するものにすぎないだらう。そもそもこの場合に於ては、散文で詩を書くといふ言語自身が、奇
怪極まるノンセンスである。
 今日の詩壇に於ける、この種の襲態文学を絶構して、自分は「印象的散文」といふ名をあたへてる。なぜな
らそれは「散文詩」でなく、また況んや「散文で書いた詩」 でもないからだ。言語の正しい意味に於て、それ
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は「詩」と呼ばるべき文畢でない。むしろ却つて、それは小説等の尖端を行つてる文孝である。すべての日本
イ9 純正詩論

の小説家等は、表現が規範とする最後のものを、彼等の印象的散文に学ばなければならないだらう0なぜなら
彼等の印象的散文は、レアリズムの文畢表現が求めてゐる、実の最高の垂術化を敦へてゐるから0それは文学
を客間の建築に地位させようと意志してゐる。描馬の最も強いタッチが、おそらくは彼等の印象短文から、小
説に向つて指示するだらう。
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 彼等は小説家の先生である。しかしながら断じて詩人の一族でなく、詩人に属すべき人々ではない0詩と印
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象的散文と、詩人と小説家とは別々である。詩人は情象し、小説家は描馬する0そして彼等の印象短文家は、
常に小説家と共に描為してゐる。彼等は情象する世界を持たない。故にまた音楽を欲求しない0彼等の生れた
る気質や性格やが、初めから詩人に属してないからである。彼等は「詩」を持たない世界に住み、そこで詩と
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はちがつた文畢を創造してゐる。彼等は一つの英雄である。けれども詩人と天質がちがふところの、別のせ界
の英雄である。
∫0
詩に於ける反動思想
 詩を音楽の流動から引き離して、美術の方に固形させようとする思想は、速く十九世紀の高給汲詩人に始ま
ってゐる。高踏汲の詩人等は、多くみな学究的の詩学者だつた。(学者といふ人間は、概念を取り扱ふことに
慣習してゐる。すべての畢究的な趣味性は、美を概念の室問に配列し、流動を固形化しなければ承知しない0)
その上にも彼等は、前代の浪漫汲詩人に反動して、散文壇の自然主義と提携しっつ、すべてのロマンチシズム
を排撃すぺく身構へてゐた。丁度レアリズムの洋々たる時流の中で、彼等の高踏汲が生れたのである0
 それ故に高踏渡は、始めから浪漫主義の時間的宇宙現に反封して、自然主義と共にレアリズムの墨問的宇宙
を眺めた.即ち彼等の高楷渡は、始めから「詩的精神の反動」に立脚し、詩の立つぺき文学の本道に叛いてゐ
たのだ。それは彼等自身の肇術をして、自然主義の小説に屈従させ、自然主義の卑屈な奴隷に身要りさせた。
 かくの如き高給汲が、詩畢の原則に求めたものは明らかである。彼等は音楽を排斥し、美術の杢間性を詩に
求めた。即ち高描汲が説いたものは、位置と、関係と、封此と、バランスと、シムメトリイと、その他のあら
ゆる巷間的要鮎であり、これが頚健を機械化して、敷革的に組み上げてくるゴシック建築の詩美であつた。高
踏汰は詩を機械と数学で造らうとした。(前代の浪漫汲は、純に情熱でのみ詩を書かうとした。高踏汲は故意
にそれに反動したのだ。)
 かうした高踏汲の詩畢思潮は、後に近代の立慣汲によつて准承された。立饅汲はもと美術の方の運動だつた
が、後には詩の方にも波及して行き、象徴汲に対する挑戦として現はれた。彼等は象徴汲の音楽主義に反封し
て、詩をコムパスと定規の中から、美術の物理的機械観で造らうとした。今日我が詩壇に紹介されてる超現賓
主義と構するものも、立鰹汲と同じくもと芙術の方の運動であり、したがつて詩を建築的杢間に建てようとす
るところの、一つの芙術的意志をもつた邪道詩汲の分汲である。
 すべてかうした顆の詩寧思想は、美術を以て書架に換へ、詩の精神する文学の立脚地を、小説等の精神する
散文の立脚地に移さうとする上ころに、根本の救ひがたい矛盾をもつてゐる。それ故に見よ! 高踏汲も、立
慣汲も、超現資汲も、すべて彼等の運命は段落であり、痛ましい自己破滅に経つてゐる。高臍汲の詩人として、
僕等は僅かにその二三の名を記憶するにすぎない。他は皆今日の許償に於て、歴史に名を残し得ない末流の似
而非詩人にすぎなかつた。立饉汲はどうであるか。美術としての立渡波は、多くの天分ある董家を残した○し
かもそれは立慣汲の美術家である。立饅汲の詩人として、ピカソ等に比眉する大作家がどこにゐたか。詩を美
術の主義で書かうとするとき、始めから矛盾の失脚は解りきつてる。
∫∫ 純正詩論

 古来の歴史的天才として、今日僕等の記憶に存する詩人は、殆んどみな浪漫況や象徴汲の詩人である。ハイ
ネも、ゲーテも、シェレーも、キーツも、エルレーヌも、ラムボオも、レニュも、イエーツも、絶てみな浪漫
汲でなければ象徴汲の詩人である。何故だらうか? 浪漫汲や象徴汲は、始めから詩の文学が本質してゐる、
正統の誤りなき道を進んだからだ。彼等の道は本道である。
∫2
 詩に於ける反動思想は、詩の正統の道に叛かうとする、すぺての詭粁的な邪説を意味する。詩壇よ!
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新しき眼を「未来」に向けて、すべての反動思想を一蹴せょ。この流行の浪間にうじやうじやしてゐる、
晶の如き時流的詭拷家を一蹴せよ。眞理は流行と共になく、常に光と共にあり、光と共に輝いてゐる。
汝の

クソ