悲しき決闘
雑誌「文撃に儀表した僕の評論(詩に告別した室生犀星君へ)は、意外にも文壇の人々に反響した。正宗
白鳥氏と、川端康成氏と、それから他の二三氏とが、新聞紙↓にこれを論じ、そろつてみな僕の主旨に同感を
表してくれた○畢に同感したばかりではない0非常な熱情を以て書いてるのである。いつも文壇から白眼硯さ
れてる、僕等の長い「詩人の嘆き」が、今日昭和の文壇で、かうした反響を見ることは意外であつた。同時に
またそれによつて、僕等の孤濁な詩人の嘆きが、文壇の一部にも共通する嘆きであり、日本現代文化の矛盾と
悲劇を内容するところの、痛ましい賓相であることを知つて悲しくなつた。「我等何虞へ行くぺきか」といふ
標題は、.必ずしも詩人ばかりの標題ではない0小説誉評論家も、日本のすぺての智識人種は漂泊者である。

 日本語はレアリスチックな文学表現に適さないといふことが、最近小説家の間に論じられ悲観されてる。だ
が彼等の場合は、それが必ずしも致命的の絶望を意味してゐない0僕等の詩人の場合にあつては、璧仰の問題
が全部なのだ0日本語は、西洋風の近代小説に適さないと同じく、西洋風の近代詩には伶はもつと根本的に適
しないのだ0その適さない造兵を以て出優した僕等の歴史は、新膿詩の出饅以来あらゆる敗北のしつづけだつ
た0僕等は卵を重ねて家を建てょうとし、虚無よりの創造にあがきながら、絶望の戦ひを戦つて来た。しかも
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努力は報いられず、外からは嘲笑と冷淡とを以て過されて衆た。詩人の運命について考へれば、昔も今も1
おそらくはまた未来も1ただ暗爾たるのみである。
 詩人になることの運命は、ニヒリストになることの運命だと誰れかが言つた。さうかも知れない。あの女性
的で、感傷的で、本来優美な性情をもつた殉情詩人の生田春月が、晩年に於ける烈しい思想への椿向は何を語
るか。あの牝牛のやうに健康で、ゲーテのやうに萬有を包合する人類愛の詩人高村光太郎が、最近に於けるニ
ヒリスチックの詩は何を語るか。彼等がもし外国に生れたら、生涯その天質の美を守つて、朗らかな詩を書い
た筈だ。彼等は好んで行つたのではない。無理にその道へ迫ひ込まれたのだ。何が彼等を迫ひ込んだか。国語
の問題ばかりではない。日本の文化と政令に淵源してゐる、過渡期の恐ろしい罪悪がそこにあるのだ。1詩
人はすべての犠牲者である。
 僕の一文から演繹された、川端康成氏の室生犀星論(朝日新開)は適評だつた。室生君は詩に告別しても、
決して文学に告別できない作家である。なぜなら彼は、眞の天質的な文学者であるからだ。川端氏は僕と同じ
く、日本文頓に於ける俸統的東洋趣味の横行(それが西洋的近代文学の蜃育を妨げてる)を悲しんでゐる。こ
の鮎に関して言へば、おそらく僕と同じ抗議を室生君に持つのであらう。しかも室生君の季術そのものに封し
ては、一も二もなく敬服すると言つて嘆賞してゐる。何故に敬服するのだらうか? 室生君の小説には、眞の
文学する深い精神があるからである。
 西洋と東洋との対立はある。だが対立を越えた上位の杢では、すべての文学する精神が一に蹄する。芭蕉と
ボードレエルとが、もし同じ園に生れて友人だつたら何うだらうか。おそらく二人は反目し、議論し、轡乙ず
∫0∫ 純正詩論

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争つてゐたかも知れぬ・しかも棉紳の本質鮎では、互に最も敬服してゐる親友であつたか知れぬ。なぜなら文
学する棉紳の第表で、二人のボエヂイに共通するものが有るからである0そして互に、これを駄々の中に感
じてゐるからである。
川端氏の室生君に封する言葉が、おそらくかうした複雑な感情を内包してゐる。その東洋趣味も文畢意識も、
室生君の場合には絶封である0そして絶対のものには批判がない0僕の室生君に封する抗議も、単にその「紹
封の下位」でのみ言つてるのである0僕の論文に於ける室生君は、いつも抽象観念として借用される、仮想上
のモデルみたいなものである0モデルそのものには罪がなく、甚だ気の毒な次第であるが、射撃の目標のため
には仕方がない。

今度と同じ題目で、昔も壷、室生君と烈しく喧嘩をしたことがある0その時は僕もまだ年が若く、客観の
認識カがなかつたので、室生君の「東洋趣味への傾向」を、詩の同志を裏切る者として腹を立てた。それは僕
が準合鮎で、昔から室生君を自分と同じ気質の詩人であり、それ故にまた日本の文壇や文化に封して、戦ひを
持完同の戦士であると思惟してゐた為であつた0だが裏日本の金澤に生れ、暗い過去の俸統の中に育つた室
生君が、長じて日本趣味に轄向するのは自然であつて、むしろそれが本来の同辟であつた。常時僕が怒つたの
は、家鴨の卵から鶏が生れたと言つて腹を立てたやうなもので、今思へば我ながら認識不足の滑稽である。
 僕も今では、だんだん日本の好い趣味が鮮つて来た0昔は敢くも耳の破れと思つてゐた三味線が、今ではオ
ーケストラよりも好きになつて衆た0昔は人間堕落の骨頂と思つて情意し切つてゐた江戸文化が、今ではそれ
ほどに意くない0俳句や茶道の幽玄な妙趣なども、だんだん少し宛鰐つて来た0昔、芥川君によく連れられて
行づた田端の自笑軒の風流料理が、今では時々食ひたくなる0それを昔は「非螢養料理」と罵つて、芥川君に
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てゐたら、どんな生えぬきの外園人でも、少しは皮膚の色が攣つて来る。ただ攣らないのは、人種の邁俸され
た骨格だけだ。
 僕が室生君と喧嘩したのは、自笑軒の料理を「非常養料理」と罵つて芥川君を呆れさせた頃の事だ。今だつ
たら、僕は室生君の趣味も心境も理解してゐる。いつも室生君の家へ呼ばれて自慢の庭や茶席を拝見すると、
僕もいつそ東洋主義に縛向してしまひたくなる。だが今のところでは、まだ僕にあへてそれが出来ないので、
濁り計本の風土気候と調和しない自分の孤濁を、しみじみ寂しく思ふのである・
 かうした室生君と僕との喧嘩を、人々は八百長だと言つて笑つてゐる。だが僕等にとつてみれば、決して笑
ひ事や八百長ではない。すくなくとも僕にとつでは、日本に生れた自分のライフを決定すべき、必死の宿命的
                                                                 州y 川y ツ ク
の争闘である。室生君勝てば僕が亡びる。僕が勝てば室生が亡びる。東洋精神か西洋精神か。俳句か抒情詩か。
                                                                    ヽ ヽ ヽ
僕と室生の対立したこの世界は、互に両立できない世界であり、地球の南極と北極である。しかももつと悲し
いことは、二人が互に親友であり、その上にも文孝する精神の第一義感を、ぴつたり一致してゐることである。
僕は室生君の文畢は(詩も小説も含めて)日本で一流の者だと思つてゐる。東洋精神のすぐれた善さが、室生
の文畢について一番よく解るのである。そしてしかもその東洋精神は、僕が射撃する標的なのだ。こんな矛盾
したことはない。こんな悲しいことはない。
 僕と室生犀星とは、いつも必死の捨身になつて、刀のツバをせり合はせてゐる。どつちか引けば、引いた方
が切られるのである。僕は自分が切られたくない。室生も自分が切られたくない。だから二人はにらみ合つて
る。しかもその必死の場合に、刀の合せたツバの下から、二人は顔を見合せて笑つてゐるのだ。その笑ひの意
∫0ア 純正詩論

味することは、お互に何もかも解りきつでる0君を斬る必要もなく、僕が斬られる必要もない、といふのであ
る。こんな悲しい決闘が何虞にあるか。

芥川君の自殺した常時、室生君はひそかに僕の身↓のことを憂へたらしく、出入の青年にかう語つたといふ。
「今度萩原が死んだら承知しないぞ0靴で蹴つて撲り殺してやる。」この話を聞いた時、僕も腹を立てて「ヒド
イことを吐かしやがる○鎗計な世話だ0」と吸鳴り返してやつたが、後で考へてみれば、死んだ以上はいくら
撲られても無感覚だし、殺されたつても同じことだ○何も腹を立てて怒る必要はなかつたわけだ。室生君には
友人が極めてすくなく、親友といへば僕と故芥川君ぐらゐのものである。僕等はツバぜり合ひの刀の下で、永
久に獣笑し合つてる仇敵である。
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