自序
 この著は二つの意志を持つてゐる。一は文壇に封する挑戦である心一は詩壇に封する啓蒙である。そし
                   テ・1 †
てこの両者を通じ、本書に一貫する主題の精神は、散文主義に対する詩的精神の高調である。
 著者は「純粋に詩的なもの」をイデアしてゐる。
 著者の詩論は、その絶望的な悲調を帯びることで、しばしば若い詩人群に悦ばれない。彼等にとつて、
著者はその希望を奪ひ、勇気を狙喪させ、前途に暗黒の道を見せるところの、意地あしき悪意の教師、詩
の未来に封して呪諷を投げかけ、若い詩人の魂に毒を吹きこむところの、シエストフ的悪真のやうに眺め
られてる。確かに、著者は認識に於て残酷である。私はあへて、故意に人々の嫌がるものを見せつけてや
る。すぺての日本の詩人たちが、昔から既に意識しっつ、しかも自ら恐れて自覚を避けてゐるところの、
一つの宿命的の病気を教へてやる。そしてこれが、私の彼等に嫌厭される理由なのだ。
 しかしながら病気は、自分で自覚しなければ治りはしない。況んや私は、彼等に死の宣告を下すのでも
なく、絶望の匙を投げて見捨てるのでもない。瞥師としての私は、常に確賓の自信をもつて、治療の虞方
を公開してゐる。ただ多くの患者たちは、手術や服薬を忌み嫌つて、容易に自己の病気さへも認めないの
で、止むなく馨を烈しくして、人の嫌がるところを説かねばならない。
∫ 純正詩論

 明治以来、既に詩の歴史は牛世紀を経過してゐる。そして過去に未だ一つの懐尿さへも興らなかつた。
稀れにそれが提出されても、深く徹底しないうちに忘れてしまつた。香、質に忘れたわけではなく、故意
に努めて忘れたのである。なぜならそれは苦痛であり、詩の未来を暗く憂鬱にするからである。だが懐疑
なき創造は根嫁を持たない。自覚と認識を根接にして、システムの上に創立されない文学は、前途に希望
を期待されない。その上にもまた、眞資を避けるのは卑怯である。たとへその眞賓が悪童であり、絶望で
あり、死の宣告を意味するものであらうとも、筒ほ且つそのために躊躇して、眞賓を見ないのは卑怯であ
る0
 カントの哲学の大きな事業は、哲学する人間の頭脳に対して、致命的な懐疑を抱いたことにあつた。日
本の詩壇の問題は、詩作する根接のもの、即ち現代日本の国語や、文明や、杜合環境やが、果して詩の成
育に適するか香かに就いて、カント的懐疑を向けることに出態する。著者はこの出態から出態した。そし
てカントと共に絶望し、また同じくカントと共に勇躍した。おそらく著者の或る思想(純粋詩への指南な
ど)は、この時代の「さまよへる詩人群」にまで、指導のコペルニクス的持回を輿へるだらう。
 この書に収めたもの以外、著者は過去に多くの詩論を態表した。そして私の書くものは、いつも詩壇に
反駁と敵とを持つた。しかも暫らく経つた後には、すべての詩壇が眞理を理解し、昨日の烈しい敵でさへ
が、私の前に容態した詩論の上に、今日の自分の思想を展開させて論じてゐる。(そのくせ彼等は、故意
に私から聴かない振りをしてすましてゐる。)この書の詩壇にあたへる結果も、やはり同様の運命である
か知れない。著者はこの鮎に孤濁を感じ、併せてまた内密の自信を持つてる。
■Z瀾欄瀾絹.

 この事の中には、種々の題目をもつ種々の論文が、前後無秩序に集編してある。しかし讃者にして全巻
を通讃すれば、憶系ある書物と同じく、著者の思舶仰の示すところが、終始二貫してよく鮮るであらう。
著者は詩を愛してゐる。何よりも詩を愛してゐる。そして賓に「純粋に詩的なもの」を愛してゐる。
昭和十年春


ア 純正詩論