イデアなき日本の文壇



 外国の文学史や文藝評論では、きまつてその冒頭に詩と詩人が掲げられ、次に小説や戯曲が論じられるといふ順序になつてる。これはもちろん伝統的な習慣によるのであるが、その慣習の精神には、詩を文学の最高のものとして、帝王の座に崇めてる意志が内在してゐる。言ふまでもなく、詩は文学の中に於ける最も純粋なものである。詩の情操は文学の純一に高められた精神の粋であり、詩の形式は、文学の統一に洗練された藝術の粋である。即ち一言で言へば、詩は文学の理想なのである。外国の文壇で、詩を最高の地位において崇めるのは当然である。
 然るに日本の文壇では、不思議にもこれが全く逆になつてる。日本の文学評論や文学史では、いつも冒頭に小説が評論され、次に、戯曲等が掲出され、最後に漸く、雑文一束の附録として詩が出されてる。そしてここに詩といふものは、僕等の作る詩ばかりでなく、和歌俳句等のすぺてを包括した詩なのである。実に詩といふ文学は、日本に於て雑文扱ひにしか見られてない。反対に日本では、文学として遙か卑俗で非藝術的な小説が、却つて詩の上位に権威して威張つてゐる。外国と比較して、これほど特殊国の特殊的現象はない。
 文明でも藝術でも、その精神に高いイデア(理念)を持たないものは、自然に卑俗の中に埋没して亡びてしまふ。文学がもし、文学の最も純一な高貴的精神をイデアしないで、その反対の卑俗的デモクラットのものをイデアしたとしたら、その結果が如何に導くかは明らかである。試みに想像せよ。今日の文壇に於てさへも、もし大衆小説や通俗小説やが、文壇的藝術小説の上に権威したとしたら、文学の未来はどこに落ちるか
社会組織の巧みな法則は、原則として名誉と実利を逆転させておく。金の取れる商売ほど名誉が低く、金にならない職業はど、社会の高い尊敬と権威とをあたへて置く。「公卿の位倒れ」といふことは、徳川氏ばかりの政策ではなく、何時の何処の社会に於ても、必ず政策されてることである。何故といつて、それが無ければ、社会の良心と道義観念が亡びてしまふ。貧苦に甘んじて真理の研究に勉めてる学者が、社会的地位と名誉に於て、もし成金富豪の下位にあつたとすれば、文化の発達はどうなるのか。そもそもまた純文学の藝術家等が、金儲け商売の大衆作家よりも地位が低く、文壇的に軽蔑されたとしたらどうなるのだ。
 卑俗なものには金をあたへよ。高貴なものには権威をあたへよ。もしこの法則が逆になつたら、社会の秩序は破壊され、文化の良心は亡びてしまふ。それ故に外国では、詩人に物質をあたへないで名著をあたへ、小説家に金をあたへて名誉を低くしてゐるのである。詩人に物質をあたへないことだけは、日本は西洋と同じであるが、その代償である名誉さへも、日本では与へてくれないのである。詩人が気の毒であるといふよりも、さうした文学良心を持たない日本文壇の、根本的に救ひがたい俗物根性を悲しむのである。再度言ふ。高貴性のものに対してイデアを持たない文学は、必然に卑俗の沼に低落して亡びてしまふ。詩と詩人を尊敬しないやうな文壇から、真の藝術的文学の興り得る筈は決してない。
 真情の人室生犀星君は、小説家としての自分を、米塩のための仕事と卑下して悲しんでゐる。その心意は、文学する純粋の精神が、詩や俳句の創作 ― それは米塩の資にならない ― にだけあることを知つてるからである。室生君のやうな小説家は、日本に於て珍らしく稀れである。だが西洋では普通であり、すべての文学者がみな同じく、室生君の心意するものを心意してゐる。例へばアンドレ・ジイドの如きも、自ら小説家でありながら、小説の如きは卑俗の文学に過ぎないと言ひ、詩人こそ羨しけれと嘆いてゐる。チェホフ、ツルゲネフ、アルチバセフ等の作家もまた、その随筆や小説中で、心から詩人をイデアして羨望してゐる。ユーゴーは小説家兼詩人であつたが、自分では詩人を以て任じ、小説家の名で呼ばれることをひどく嫌つた。モーパッサンの如き典型的小説家でさへが、最初は詩人を志して文学に出発し、最後まで尚ほその高貴なイデアを夢想し続けた。
 詩と小説とは、もとより文学の特質がちがつてゐる。詩人たり得る才能と、小説家たり得る才能とは別種である。モーパッサンは小説家として天才だつたが、詩人としては無能であり、若い時に下手な詩を書いて世に笑はれた。しかも彼等西洋の文学者等が、概ねみな詩を志して文壇に出発し、後にその無能を自覚して小説に移つてからも、生涯その最初の志願したイデアを捨てず、詩と詩人を憧憬の対象に置いてるところに、彼等の文学の高貴な精神が厳存してゐる。人は、彼自身がたとへ俗物であつたとしても、その理念に高貴と純潔を思慕する限り、決して霊魂を失つた人間ではない。ドストイェフスキイの小説には、あらゆる醜劣な悪事をしながら、尚ほその心に神を求めてる人間性を描写してゐる。思ふにかうした人間性こそ、小説家の善き範疇を示すのだらう。彼等は決して、詩人のやうに超世間的の人物ではない。(それだつたら小説は書けない。)だがその良心の求めるものは、常に小説でなくて詩なのである。
 詩は文学の良心であり、高貴と純潔をエスプリしてゐる。文学にしてもしその理念を持たないなら、文学の良心は廃滅する。それは真の霊魂をもつ文学ではなく、単なるジャーナリズムの売文家業にすぎないだらう。彼等は「文士」であつて「文学者」でない。文学者とは、真の詩人的精神を持つ作家についてのみ言はれるのだから。しかも日本の文壇には、文士のみ多くして文学者が極めてすくない。日本で文学者といふ敬称に値し得る作家は、島崎藤村、佐藤春夫、谷崎潤一郎、宇野浩二、室生犀星、幸田露伴、武者小路実篤、及び故芥川龍之介等、僅かに十指を屈し得る位の人々しかない。そしてこれらの人々だけが、詩の純潔なイデアを所有し、真の詩人的精神を素質してゐる。したがつてまた彼等だけが、日本の良心なき俗文壇を、辛うじて没落から支持してゐるのだ。
 詩を軽侮する文壇。イデアなき文壇に呪ひあれ!