エッセイのない文壇
日本の文壇には随筆があつてエッセイがない。単にエッセイストが無いといふばかりでなく、一燈にこの種
の文挙が、全く歓迎されないのである。何故であらうか?
エッセイやアホリズムやの償値は、思想が作者の饅験から出優して居り、生活感情それ自身が、文撃として
表現されてるところにある。つまり言へばこの種の文孝は「思想を所有する抒情詩」もしくは略して「思想
詩」と言ふべきもので、外園の文壇では、詩の廣い外延の中に含まれてゐる。それ故に外国では、エッセイス
トと詩人とが、しばしば同一観念で扱はれて居り、すべての詩人と呼はれる人は、必ず皆エッセイやアホリズ
ムを片手で書いてる。その同じ事情の下に、日本ではすぺての秀れた詩人たちが、すぺての秀れた随筆を書き、
しばしばまた詩人と随筆家とが同字義である。東と西と。この一つの相違ほど、根本的に大きな問題をもつも
のはない。
日本の詩人や文筆者は、何故にエッセイを書かないだらうか。その原因は明白である。一般に日本の文畢者
は、生活の中にある思想(賓感としての思想)を所有しないからである。思想といふものは、それが純に頭脳
〃ア 純正詩論
の中で、抽象的、分析的に考へられた場合は「概念」である。そして概念は文畢の領地に入らない。文拳とし
ての表現に入る思想は、生活の現貴から膿感した、切賓な感情や詠嘆を有する思想で、これがエッセイやアホ
リズムの形式を取つて表現される。然るに日本の文寧者は、思想を生活から切り離して、抽象的な理論でのみ
考へてる0でなければ、始めから、全然思想を持たないのである。だから日本の文壇では、マルキシズムの唯物
的紳整調や、詩の美挙的方法論などが、非文畢的抽象の観念で論じられる。そして眞の文学的思想、即ちエッ
セイやアホリズムはどこにもなく、稀れに書く人があつても、全く認められないのである。
コクトオでも、グウルモンでも、ポールモーランでも、すべて皆エッセイやアホリズムを盛んに書いてる。
だが日本現代の若い詩人等が書くやうな、妙に衝撃ぶつた乾焼無味の美挙的抽象詩論などする人は一人もない。
そんな文学者がゐたら、外国では稚態として笑ひ物にされるばかりだ。
外国の文学者が書くものは、評論でも、雑感でも、すべて皆エッセイの一形式になつて現れてゐる。然るに
日本の文学者の書くものは、すべてみな随筆の一形式になつて現れて来る。でなければ全然非奉術的な1即
ち感情要素や生活苦感を所有しない1雑駁無味の抽象論文となつて表現される。即ち日本には、随筆と抽象
論文とがあつて、その中間のエッセイがないのである。
エッセイ(アホリズム等を含めて)を書くためには、思想が全く生活の中に融化し、「考へる」といふこと
が「感情する」といふことと同意義にならねば駄目だ。言ひかへてみれば、すぺての抽象的観念が頭脳でなく、
ハ ート
心臓によつて感覚されることが必要なのだ。即ち「考へられた思想」でなく「感じられた思想」がエッセイな
のだ。
だからエッセイを書くためには、思想を日常生活の中に所有し、膿験印思想といふ境地のインテリを持たね
ば蓼けない0思想を神棚の上に祀りあげ、世界思想全集を本棚の見得に飾り立てておくやうな人間、思想を日
〃β
■▲ そ
衛生活の役樺に▲置いて、飯を食ふことと思想することとを、‥判然付匝別するやうな人たちには、外出行きの州翼々
たる抽象論文は書けたとしても、決して文学としてのエッセイは書けはしない。
すべての日本人は、思想を日常生活の彼岸におき、神棚の上に祀りあげて祀押してゐる。日本の文学者等は、
酒を飲んだり、麻雀をしたり、族行をしたり、それから小説を書いたりしてゐる時は、全然思想と離別して居
上 そ
り、まるきり何も考へてゐない。ただ論文を書く時だけ、急に改まつて態度をかへ、外出行きの頭脳を働かす
のである。西洋の文筆者はさうでなく、さうした普通の日常生活、即ち不断の人生を通じて、絶えず思想と接
濁してゐる。彼等にとつて、思想は本棚の装飾でなく、パンと同様に必要であり、それなしに生活の意義を為
さないところの、日常的賓用品なのである。
日本人にとつて、思想はまだ賓用品の域に達してゐない。それは一つの装飾品であり、インテリを気取ると
ころの見得であり、要するにゼイタク品に過ぎないのである。西洋の文畢者等は思想なしに生きてられない。
だが日本の文学者等は(日本の一般民衆と共に)一向そんなものは必要としない。無くても結構十分であり、
有れば膿裁を飾る見得になると考へてる。ところで日本人といふ人種は、先天的に気取りやで見得坊が強いの
ヽ ヽ ヽ ヽ
だから、思想ぶることに於てだけは、中々外国人以上に熱心である。たしかポロヂノであつたか、或る外国人
が雑誌に書いた記事をよむと、欧洲で僅か三人しか讃み得ないと言はれる難解の書、アインスタインの「相封
性原理」が、日本では一千部も費れたといつて喫驚してゐる。日本人にとつてみれば、思想は本棚の飾物で、
インテリの見得にする装飾品に過ぎないのだから、解つても解らないでも差支へなく、畢に相封佐原理といふ
畢術語を、流行言葉のやうに口にし、本棚に飾つて学者東がしたいのである。こんな御連中方に、もとよりエ
ッセイの書ける道理がない。
御多分にもれないのは、日本の詩人と構する先生方である。例へば詩の原理や本質の問題などでも、すつか
〃タ 純正詩論
り鰐りよく、平易に分明に書いて説明してやつたところで、彼等は少しも悦ばず、思想の深奥な哲学などに少
しも理警持ちはしない0そこで気障なぺダンチックの山師が出て、ポエヂイやジャンルなどいふ外璧岬を盛
んに使用し、或は半可通の智寧術語などで、如何に易誓しく饅裁ぶつて書き立てると、すつかり慧して
滴契喝采といふ次第である0中学生の演説合では、思想の内容に関係なく、身振告ゼスチュアのうまい将
士だけが、いつも慧に喝采される0思想をインテリの装飾とし、見得や気取りと考へてる連中には、かうし
た詩論だけが受けるのである。
すぺてに於て、日本人はまだ思想↓の子供にすぎない○だれが子供だと言ふのではない。文化全饅が、表
的、常識的に子供なのである○すくなくともこのレべ〜を、外国と同じ大人の線上にまで上げない中は、日本
にエッセイ文寧の成育する機縁はない。
日本の文化は、他の多くの鮎で外因にまさる長所を持つてる○だが一て思想といふ方面だけでは、全くゼ
ロ以下の未開耳化に止まつてゐる0そしてこの事情は、歴史的の因縁づくに属するのである。
そもそ卑岩戸神楽の太古からして、日本人の国民性は「言あげせぬ圃」と裏書された。軍部から漢字が入つ
てn迄、日本には一切抽象観念を現はす言葉がなかつたO「忠」とか「孝」とかいふ観念さへも、その漢字
が入つてくる迄、抽象上には全く日本人の頭脳に無かつた0そして抽象観念を持たないといふことは、蒜思
想を所有しないといふことである0後世になつてからは、儒教や彿敦の影響で、言がに日本にも学者が生れ
た0例へば弘法大師とか、新井白石とか、物組疎まいふ人々である0だがこれらの人々は、何れも博覧強記
の物識り惇士で、百科全書的大挙者にしか過ぎず、自己の濁創を有する眞の「思想家」ではなかつた。日本に
は名子もなく、孔子もなく、墨子もなく、プラトンもなく、アリストテレスも生れなかつた。前後二千年の歴
史を通じで、日本に生れた竺人の思想家は、漸く親鸞1人ぐらゐである0明治以後の現代でさへも、日本に
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果・汲「思想家、容れ卦l思想ぬ霊・驚か節廿ハ寧の講堂でÅ−ゲ丼を説いた乳_幾革・r改造」にヰルクスを諭ず
る大挙者の博士はたくさんゐる。だが彼等の思想は、殆んどみな西洋学者の切りぬきであり、最新智識の輸入
であり、そして要するに百科全書的学者にすぎない。
昔も今も、日本人は俸統的に思想を所有しないのである。昔も今も、日本人は思想を生活と切り離し、畢問
の世界に押しこめてゐる。だから日本には、聾者が生れて思想家が生れず、評論家が生れてエッセイストが生
れない。
こと
おそらくこの問題は、日本人の国民性が素質的に非思想的であり、言あげせぬ園柄であることに関聯してゐ
る。つまり言へば日本人は、素質的に思想と肌が合はず、思想に親しみを感じ得ないのであ頂そしてこの
「思想に親しみを感じ得ない」といふことが、日本の文学にエッセイの杢自してゐる根本の原因である。
西洋の小説は、本質的にすべて皆エッセイの物語化であり、日本の小説は多くみな随筆の延長である。素質
ゃ国柄は如何にもあれ、日本の新しい文畢にして、未来もし世界的に進出しようと思ふならば、我々の小説も
また、エッセイを以て随筆の位置に換へる必要がある。そしてエッセイを興すためには、文学者一般、文壇一
般が、もつと思想に親しみをもち、思想それ自鰹を、日常生活の中に取り入れ、不断にそれを膿感する(思考
するのではなく)やうに努めねば駄目である。そこで正宗白鳥氏は、最近「日常性の哲学」といふ新語を使用
し、それの文学的必要を説いた。「日常性の哲学」は即ちエッセイの謂である。
抒情詩、叙事詩、小説、戯曲、評論等、すべて西洋から来た文蜃種目は、過去に早く日本語に翻謬されて通
用してゐる。しかも濁りエッセイだけは、今日未だ詳語がなく、原名のままで使用されてる。そして評語が無
いといふのは、さうした貨物が日本に無いことを澄左してゐる。白鳥氏の名づける「日常性の哲学」は、エッ
セイの評語としては好評でない。だがエッセイの説明としては明解であり、日本の文壇に指示するところが多
〃∫ 純正詩論
分にある。
日本の詩人たちは、この「日常性の葦」を持たないことで、特にまた著るしく、貰的に特殊の地方に孤
立してゐる0外国で「詩人」といふ譜は、一般に「哲人的傾向を有する人」即ち日常性の葦を有する人を指
すのである0それ故に外国では、詩人が必然にエッセイストと同字義になるのであるが、日本で意味される詩
人といふ語は、鷺風月の自然に封して吟懐の情をもつ人を指すのであつて、今日の所謂新しい詩人と維も、
この鮎では昔の歌人や俳人と同じである0(それ故に日本では、詩人がまた必然に随筆家と同字義になる。)
この種の量的特麓念をもつことでは、慧記者やジャーナリストが最も頑固に甚だしい。月刊雑誌の大
部分が、僕等の詩人に頼んで来る原稿の証文は、きまつてみな芸向の随筆であり、春夏秋冬の四季に應じて、
雪月彗風物に寄せる自然の吟懐を課して来る0かうした証文に接するごとに「小生は俳人に非ず。詩人に御
座候0」と書いて答へたくなるが、禁記者の方では、詩人も俳人も同じに見てゐるのだから仕方がない。か
つて或る構成のある悪に、多少思想のあるエッセイめいた纂を迭つたところ、掛lぷ罫雪見な
んて不似合だと、親切な記者から忠告された。
明治以来、文壇はいろいろな西洋思潮を輸入した○だが浪漫主義も、自然主義も、露西夏季も、トつのま
にか何威かへ鰐滑して、結局是式俸統の心境小説や身遽小説に彗て来る0そしてこの種の文学は、本質的
に見て随筆の延長なのである0日本毒の中心母胎が、随筆でなくてエッセイになる時まで、日本に眞の近代
文学は建設されない0すぺての輸入は附焼刀で、血液の細胞組織にならない前に、不滑化のままで排泄されて
しまふのである。
自然主義の文拳は、十九世紀の質琴王義や、懐疑主義や、厭世王義の哲学から生れた。日本の文学者は、こ
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の自然安泰を輸入するため、勉強してコントを讃み、
ショーペンハウニルを讃み、ニイチェを苛み、カント々
研究纂∵ふ曙がそめ勉強は、書賓の中だけの勉強であh乳濁その革んだ思想は、時代の風.潮に於けるインチ甘」を
気取る馬の見得であり、一つの文畢的ダンディズムに過ぎなかつた。常時の文壇に於て、異にツルゲネフや、
チェホフや、ゾラや、ニイチェやの如く、眞にその日常生活の中に懐疑し、質感としての痛切な思想的苦悶を
持つた作家が、果して幾人あつたらうか。彼等の懐疑や苦悶やは、もとより本質のものでなく、文学的気取り
の芝居であり、ダンディズムにしか過ぎなかつた。それ故に流行の熟が醒めた後では、忽ち窮屈な洋服を脱ぎ、
自己の本領である洛衣がけの随筆文寧に着換へてしまふ。かうして日本の文学は、永遠に西洋から何も畢ぶと
ころがないのである。
かつてあれほど日本の文壇を風靡した露西亜文学が、今日既に跡形もなく滑えてしまつた。畢に冷えたばか
りでなく、その通過した影響の足跡すらも残つてゐない。あれは一鰹どうしたのだ! と、最近或る老大家が
びツくりして質問した。この驚き、この懐疑が生じた時に、初めて我々の自覚と反省が目醒めて来る。日本の
文孝は、最初の新しい出聴から、改めて立て直さねば駄目である。砂上の足跡を績ける如き、ジャーナリスチ
ックな西洋模倣を早く止めて、文畢の眞の本質鮎で、西洋のエスプリを掴むのである。
「思想を所有する日常生活」。日本の文化の一般線が、この程度のインテリレベルに到達する迄、文壇にエッ
セイは興り得ない。そしてエッセイが興らないといふことは、日本に眞の近代文挙が興らないといふことにな
るのである。
西洋の小説は、そのエスプリを押し詰めると、結局皆「詩」に還元されてしまふ。これに対して日本の小説
は、概ね皆「俳句」に還元されてしまふ。そして詩の延長はエッセイであり、俳句の延長は随筆である。
最近の若い文壇は、たしかに大いに療化してゐる0すくなくとも、正に欒化レつつある0今の若い作家たち
は、既に俳句や随筆に趣味を失ひ、詩やエッセイを熱心に求めてゐる。かくて日本の文壇も、漸く世界的近代
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文拳の出優艶に、最初の新しい足場を建設しょうと意欲してゐる。おそらくは近い未来に、文学の容貌が一愛
し、言ふところのルネサンスが来るかも知れない、だが:::
あ た ま
僕等の時代の青年は、過去の連中とすつかり頭脳がちがつてゐる。僕等が牡合に立つ日が来たら、露西亜は
初めて新しくなるだらう、とクープリンの小説「ヤーマ」で、若い大挙生たちが議論してゐる。これに封して
鴫明な先輩が反駁し、次のやうなことを言つてる0駄目だ! 僕等も昔、君等と同じ青年の時、君等と同じこ
とを考へてゐた○だがその時の仲間七ちは、杜禽に出て結婚し、子供を生み、官吏になり、そしてすつかり典
型的な露西亜式俗物になつてしまつた○見給へ0君たちだつて同じことさ。年々歳々、青年は同じやうな未来
を夢み、そして蕗西亜は、永遠に同じ東西亜さと。
二十代には詩を作れ、四十を越したら俳句を作れ、と或る先輩が敦へてくれた。今の意気ごんでる若い作家
たちも、四十になつたらまた今の老大家と同じやうに、日本の梅雨つぽい風土に順應して、俳句めいた心境小
説や随筆小説を書き出すだらう0そして年々歳々、青年はルネサンスを杢想し、年々歳々、日本の文学は同じ
所に同蹄して来る01この永世輪廻の夢ほど、虚無の恐ろしさを感じさせるものがどこにあるか!
だがとにかく、時代の新しい傾向を祀摘しょう○エッセイを有する文壇。そして詩を欲情する文壇。それは
必ず、近い未来に創立されねばならないのである。
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