僕の詩論の方式と原理について
 僕の詩論は、しばしば人から難解と言はれ、矛盾や二律反則が多いと言つて非難される。例へばaの論文で
香定したものを、bの論文で肯定したり、一方で罵倒したものを、一方で賞讃したりするといふのである。も
ちろん人の思想は時間と共に進歩するから、ずつと以前に書いた論文が、最近の思想と部分的に矛盾するやう
ア∫ 純正詩論

な場合は、僕としても免れないことである。だが多くの非難は、僕の思想に於ける特殊な方式を知らないこと
に原因してゐる。すぺての哲学者や思想家が、彼自身の思考する特殊な方式を持つてるやうに、僕もまた、僕
自身の詩寧する特殊な方式を所有してゐる。僕の詩論への入門として、最初にその哲学方式の鍵を敦へる必要
があるかも知れない。
ア2
 非理性的な頭脳は、物をその一面でしか観察することを知らない。彼等には主観があつて客観がなく、情熱
があつて認識がない。彼等にとつての世界は、畢純な肯定と畢純な香定との二つしかなく、常に判然として直
別されてる0かうした顆の思想家を、僕等は狂信家と呼ぷのである。(マルクスの経済学で宇宙の一切を片付
けょうとする階級文拳論者の如き、その狂信者の好典型である。)理性的な頭脳はこれに反し、種々の多方面
の角度から、夫々の視野を攣へて観察する。一つの提出された命題から、同時にその逆説を磯見して、矛盾の
対立を認識する0理性的な頭脳は、容易にすぺてを肯定せず、また容易にすべてを香定しない。懐疑は理性の
本懐である。
 僕の詩論する方式も、また常に理性的であり、懐疑的である。したがつてまた常に紳澄論的である。l即ち物
をその正反両面から封立させ、祓鮎を常に動かしつつ、最後にこれを上位の原理に統一する。そこで例へば、
下位の相封に於て肯定される一つの詩論が、上位の原理に於て香定されたり、逆にまた上位で香定される反の
矛盾が、下位の認識で肯定されたりする場合もある。かうした方式による僕の詩論は、紳讃論的思考に慣れな
い素朴な讃者にとつて、しばしば難解矛盾のものに思はれるらしく、度々年少の讃者から誤解の攻撃を被つて
ゐる0甚だしきは敵に阿媚して節を要るとか、首鼠両端を持して卑怯であるとか、態度曖昧にして徴底せずと
かいふ舜の、まるで思ひがけない意外の意罵さへ被つてゐる。或る畢純な思想家の如く、僕がもし敵と味方の
謂葵隼恰を埜ノ量二止邪によちず敵を頭ごなしに香定したなら、思ふにこの種の誰者は瞼ぶのである康が
 詩論する棉紳は感情でなく、冷静公明の理性である。僕は基督とはちがつた意味で、すぺての詩論する敵を愛
 してゐる。なぜなら僕の紳讃論的過程に於て、敵もまた下位の矛盾(自我の分身)であるからである。「我れ
 は何物をも香定せず、また一切を香定し蓋せり。」と詩集「水島」で歌つた僕の詩句は、そのまま詩論の方に
  も適用される。
  かうした方式による僕の詩論は、確かに複雑煩墳の一面を有してゐる。しかし結論の方から観察すれば、僕
                               ヽ ヽ ヽ ヽ
 の詩論ぐらゐ一徹無比で、旗職の鮮明にはつきりしたものはない。正反二面を合一し、上位の主観に立つて結
 論する場合の僕は、断乎として自我の眞理を固く主張し、決して如何なる敵をも容赦しない。この鮎からの見
 地で見れは、僕は極めて畢純な詩論家である。以下さらに具燈的に論説しょう。
 奉術、特に詩に就いての考察を進める場合、最初に必ず注意しなければならない事は、それの特殊的現象と
普遍的原理と、即ち特殊観と普遍観とを、同時に両面から思考せねばならないことである。特にこの注意は、
すぺての文化や侍統を西洋と異にしてゐる世界の特殊園日本に於て必要である。従来日本の詩人たちは、この
鮎の認識不足からして、多くの馬鹿馬鹿しい詩論的誤謬を犯した。多くの詩人たちは、欧洲の流行詩況や、俳
蘭西の新しい詩論等を、そのまま無批判に直詳輸入した。甚だしきは西欧の鶴律形態を、日本語で模倣しょう
とした人さへある。新奇を輸入するのは大いに好い。だがそれが特殊園の日本に於て、果して賓に蜃術され得
るかどうかを、深く自覚して考へる必要がある。
 歴史的に、一つの新しい例をあげてみよう。最近詩壇に流行した口語の自由詩は、米国のホイットマンや欧
洲のヱルハーレン等が創始し、一時世界的に流行した風潮に乗じ、日本でもまた新奇を迫つて革んだのである。
フワ 純正詩論

しかし常時の詩壇には、偽ほ定形律への未練をもつ人が多かつたので、自由詩の韻律に関する是非の議論が多
かつた。常時自由詩の側に立つ汲の人々は、自家の議論としてまた外因人の詩論を借り、常時ヱルハーレン等
の主張した意見を述べた。即ち自由詩は、その敵の非難する如き無頚律の散文ではなくつて、その無定形の中
に特殊な報律を内在するもの。即ち所謂「内在律」を有する報文だと主張した。ヱルハーレン等の自由詩には、
確かにその無定形の哉律(形なき音楽)があるかも知れない。だが常時の日本の自由詩に、そんな奉術的な美
や菰律の無かつたことは明白である。今日の理性で批判して、自由詩は明白に散文である。(その行を別けて
書いたのは、韻文らしく見せかけょうとするゴマカシにすぎない。)
 日本に自由詩が輿つたのは、外国の流行とは関係なく、日本の特殊な別の事情に原因してゐる。常時文章語
の古雅な詩は、蒲原有明氏等によつて形態の完備に達し、且つその雅語が時代の好尚と合はなくなつた為、創
造の野心をもつた詩人たちは、必然に口語詩の新しい建設に向つて進んだ。然るに口語、即ち現代日本の日常
語といふものは、明白に「文章以前の言葉」であり、未だ自然優生的の粗野な原質から磨かれてない。したが
つて非常にプロゼツタな言葉で、散文には通しても詩には適さない。況んや頚文には遠い未来の距離を要する。
口語で書いた韻律の詩は、必然に都々逸や流行唄のやうなものになつてしまふ。口語で詩を書く以上には、必
然に散文の形態を選ぶ外にないのである。
 そこで常時の詩人たちも、最初は少し遠慮しながら、後には全く大臆に韻律を捨てて、彼等の所謂自由詩の
形式を選定した。この轄向は自然であり、且つ常時の詩壇に於て必然だつた。ここには決して誤謬がなかつた。
しかし彼等が、その 「詩論」を外国人に借りて来たところに誤謬が生じた。外圃詩壇の自由詩は、日本と全く
別種の事情から優生した。したがつてその詩の作品もちがつてゐるし、その詩論の原則するところもちがつて
ゐるり ヱルハーレンの自由詩は、たしかに一種の寵文であり、無定形の無哉詩である故に、その詩論にもまた

F.
F
習登.・…
貸凄謂.ヰ」円・邸の報律梢礎が所」現され山得る苧戊この外」園人の外」園詩地学を、それと全く」軍曹ハのちがつた日本の口語ヰL葺に一遇
  用し、内部にも外部にも、全然韻律のない行わけ散文にコジツケようとしたところに、常時の詩人の笑ふぺき
 誤謬があつた。彼等の自由詩人たちは、この詩寧の誤謬によつて災ひされ、有りもしない調律を有ると考へ、
 韻文でないものを、無理に韻文として観念した。そこで必要もないのに行を別けて書いたりして、本来散文で
 あるべきものを、無理に韻文に見せょうとした。
  日本近代詩の態達が、かうした自由詩人の迷誤によつて、どれだけ多くの阻薯を受けたか解らない。常時彼
 等の詩人にして、早く次の一つの事、即ち日本の自由詩が、西洋の自由詩と全く饅生的にちがつた別種の物に
 属すること、したがつて外国の自由詩論が日本に適用されないこと、及び日本の自由詩と稀するものが、本来
 散文の一種に属してゐること等を、はつきり自覚上に認識してゐたならば、最近詩壇に論ぜられてる「今日の
 問題」は、常時に於て早く解決が出来、且つ作品の上にもずつと進歩を示したにちがひないのだ。過去の自由
 詩壇のあらゆる罪過と誤謬とは、僕の前に掲げた一つの注意、即ち物をその普遍相と特娩相とに於て観察せょ
 といふ注意の、日本に於ける特殊相を見なかつたことに原因してゐる。先づ 「他人を見よ」次に「自己を見
 ょ」最後に「全鰹を見よ」 これが僕の諸君に教へる法則である。
  さてかうした「自由詩の誤謬」は、今日の詩壇に於て漸く校正を完了してゐる。今日の詩人等は、自由詩の
 散文であることを明白に自覚してゐる。昔時の所謂「内部の韻律」などいふものが、日本の自由詩の憑かれた
 幽塵に過ぎないことを、人々は漸く明瞭に理鮮して衆た。日本の詩の進歩のためには、その憑かれた韻文意識
 を捨てることが、第一段の急務であることを自覚して来た。そこで進歩的な人々は、今や既に「詩を散文で書
 け」と唱へてゐる。詩がその曖昧な頚律意識を捨て、散文としての自覚から出番する時、初めて建設の正しい
 足場を持つだらう。「詩を散文で書け」は、早く既に口語詩の出優した最初の日に、官然掲げられねばならな
ア∫ 純正詩論

い命題だつた。
 しかしここでもまた、人々は同じ認識不足を繰返し、日本詩壇の特貌的事情を見ることを忘れてゐる。今日
の詩壇が散文の詩を要求するのは、前言ふ如き特殊的事情があるからである。口語詩の採用以来、日本の詩人
は萌文を無くしてしまつた。香でも應でも、僕等は散文詩を書くより外に道がないのである。つまり日本の特
秩な文化と国語とが、僕等の詩人をその必然の道に迫ひこんだのである。しかしながら僕等は、必ずしもその
特殊な運命に甘んじてゐるものではない。「詩を散文に書け」といふ命令は、その前提に「今日の情態の下に
於ては」、もしくは「他に道がなく止むを得ないから」といふ粁解を必要とする。他に別の行く道があるとす
れば、今日のいかなる詩人も、おそらくその命令に服従しないであらう。なぜなら詩が正しく詩であるために
は、必ず報律を必要とする。ヴァレリイを始めとして、多くの外国の詩人が言つてる通り、詩と他の文学の直
別は、形式上に於て全く韻律の有無にかかつてゐる。正しく詩と言ふぺき文学は、賓に韻文の外に無いのであ
る0
 日本の詩人の不幸は、資にその韻文を所有しないといふこと、電文の室自時代に生活してゐることに存して
ゐる。現在する日本詩人の全熱情は、茸に「散文の創造」といふ一事のみに向けられてゐる。なぜなら龍文の
創造は、それ自ら「詩の創造」であるからだ。その創造のない今の日本で、僕等の現に為すぺき仕事は、未墾
の散文を地ならしつつ、何もない非有の庭から、次第に少しつつ嚢術の形態を造つて行くことの外にない。
「詩を散文で書け」といふ命令は、かうした情態の下に於てのみ服従される。だがそれは「悦ばしき命令」で
はない。それは囚人に課された看守の命令である。我々の意志するところは、早くその命令から逃げたいので
ある。
 現詩壇の敢文主義者と著者ハ萩原朔太郎)の議論の別れるところが、賓にこの一鮎に関してゐる。春山君や
ア古
宮田君等の散文主義者は、今の日本に於ける特祝事情を、直ちに諸の普一週的な本質論と考へ、特・殊と普遍を照
美別に混同してゐる。即ちそれらの人々は、散文で書いた詩が眞の本質的の詩であつて、新しい詩は必ず散文
で書くべきものと考へてる。そこで「詩を散文に書け」は、彼等にとつてア・プリオリの命題になる。もし必
要があれば、彼等はそれを外国の詩人に封しても説くであらう。なぜなら彼等にとつて、それは新しい詩のゾ
ルレンすべき普遍的絶対的の眞理であるから。
 かうした散文主義者と僕とは、詩の啓蒙運動の同志として、自由詩の清算事業まで同行して来た。そしてこ
の最後の分岐鮎で、きつぱり右左に別れてしまつた。散文形態の詩は、僕にとつて単にザインしてゐるものに
過ぎない。僕のゾルレンする正しい詩は、賓に竜文の詩より外にないのである。僕がかつて北川冬彦君等の新
しい詩を、理念の詩に非ずとして香定したのも、それが僕のゾルレンに合格しない故であつた。しかし僕は、
同時にまたそれを現詩壇の最も進歩的な試作品だと言つて肯定した。肯定したのはザインからの祓鮎であり、
香定したのはゾルレンからの硯鮎であつた。この二律反則は、僕の詩論に於て少しも矛盾を犯してゐない。
 かうした僕の詩論的立脚地は、ザインとしての詩を批判する限りに於て、外見上散文主義者と類似してゐる。
彼等の肯定する者は僕も認め、彼等の香定する詩は僕もやはり香定する。だがその本質の精神には、一つの判
然とした劃線がある。散文主義者の詩論は、要するに「自由詩の清算」といふ啓蒙運動にだけ止つてゐる。彼
等は詩を散文に解饅させた。そして詩が廃滅してしまつた時に、彼等の運動も経つてしまつた。彼等の詩論に
は創造がなく、畢に破壊のための破壊にすぎない。僕の場合はこれに反して、創造のための破壊を説き、ゾル
レンのためのザインを厳しく吟味するのだ。前者の啓蒙連動は経つてしまつた。だが僕の指導する運動はこれ
からであり、現に三好達治、丸山薫、竹中郁、萩原恭次郎、草野心中、佐藤一英、大木惇夫等の若い詩人が、
茎無の散文を開拓して、次第に少しつつ額文のフォルムを構成すべく熱心に努めてゐる。未来は必ずしも絶望
アア 純正詩論
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ではない。
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 詩は朗讃サべきものでなくして、印刷上の視覚によつてのみ見るぺきものだ、といふやうな詩論が、現詩壇
の一部によく稗へられてる。これもまた前と同じく、日本の現状に於ける特殊事情を、そのまま詩の普遍的本
                        r
質と考へ、特殊と普遍の差別相を、早計に混錯したことの誤謬である。今日現状の日本は、賓に文明の過渡期
的猥雑を極めて居り、特に言語に於てその猥雑混乱が甚だしい。今日の日本語の如く、種々なる外国語が洩整
理に氾濫して居り、特に明治以来の濫造した郡詳漢語−−それは耳で聴くだけでは意味が解らぬ。.文字に書い
て初めて解る。1が充満してゐる国語によつて、西洋流の純聴覚主義の詩を書くことは困難である。例へば
「しやうぴのしょくわう」といふ朗讃を聴いて、それが「薔薇の曙光」だと解る人がゐるだらうか。少しく漢
字や郡詳漢語の多い日本語の詩は、到底朗讃には不向きであり、印刷の字面によつて硯覚的に讃む外はない。
 かうした日本の現状に於て、上述のやうな詩論が生れることは嘗然である。ヘーゲルの言ふ如く、すぺての
現害するものは必然の理由を有してゐる。日本に印刷美術的の詩が流行ることも必然だし、上述の詩論が生れ・
ることも官然である。そして僕もまたその嘗然のザインを肯定する。しかし僕の疑問は、それが果して詩の理
念すべき普遍絶対のもの、即ちゾルレンの命題であるか香かに関してゐる。西洋の詩はもちろん、支那の漢詩
でも、日本の古来からの和歌俳句でも、単に文字の視覚だけで讃むなんて詩は一つもない。漢字の象形美感を
重税する支那の詩でさへも、やはり詩の重心は韻律の敢覚実の方に存してゐる。ただ一時西洋で、未来汲や立
饅汲の詩人が檜量的の形象詩を試作したが、もとより一時の新奇をねらつた遊戯であるから、直ちに廃つてし
まつて痕跡もない。新しい時代の詩は、必ずしも朗吟調の美を必要としない。しかしすくなくとも朗讃に耐へ
ないやうな詩は、鶴又としての本質的要素を持たないのである。即ち有れは眞のゾルレンすべきポエムではな
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 しかし今日の日本の現状として、止むを得ない特殊事情として認める限り、僕もまたこの種の詩(?)の存
在償値を肯定する。僕はむしろ彼等に封して、多くの同情さへも有してゐる。だが理念のゾルレンを掲げる場
合は、断乎として香定せねばならないのである。もちろん僕の理念するやうな眞正の蜃衝詩は、言語的猥雑を
極めてゐる現代の日本に於て、到底現に有る筈がなく、それを求めることさへも紹彗的に不可能である。慈し
き時代に於ては慈しきを忍び、飢ゑたる者は土や泥さへも食はねばならない。僕が一方に於て、現にあるすべ
ての散文詩を肯定するのはその為である。しかしながら泥は眞賓の柴養ではない。たとへ現賓にそれが無くと
も、ゾルレンとしての眞正の詩は、常に必ずイデアされねばならないのである。
 * 自由詩の曖昧な韻文意識を廃棄して、正しき散文意識から出饅せょといふ主張は、日本の詩壇では僕がいちばん最
初に早く稀へた。しかしこれを賓際連動に興して、詩壇にエポックメータをしたのは、春山行夫君や北川冬彦君等の功績
である。そして最後に百田宗治君が、これに「詩を散文に書け」の標語をあたへた。


 * 最近の北川冬彦君は、韻律詩畢の創造に向つて努力してゐるから、もはや僕の論敵ではなくつて同志である。つい
でに護符しておくが、僕の詩論の対象は、作品としての話そのものに有るのでなく、それの背後に意志してゐる作者の蛮
術観念(詩畢)に向ふのである。故に例へば北川君が、今日伺ほ印象散文の詩を書いてゐたところで、北川君のイデアが
そこになく、もつと高い別の韻文詩の方にあるとすれば、僕として議論する餞地は少しもないのだ。原則として、拳術そ
のものは議論を持たない。議論は常に作品の背後(作者の主張する智寧)に属してゐる。
ア9 組正詩論

 外国、特に俳蘭西などの文壇では、詩人が文筆者の王座にゐて、常に文壇を指導し、ジャーナリストの地位
に立つてゐる。日本でも昔、明治時代にはさうであつた。即ち昔時の文壇は、輿謝野銭幹や正岡子規等の詩人
によつて指導され、その機関誌「明星」や「ホトトギス」が、詩に、散文に、評論に、すべての文壇的新思潮
を指導してゐた。その後自然主義の文壇となり、詩が文壇から抹殺されてしまつた時代でさへも、伶ほ且つ青
草男、木下杢太郎d北原白秋等の詩人による難詰「スバル」が厳存して、常時の文壇的新思潮たる藁主義や
耽美主義を強調し、谷崎潤一郎等の新しい作家を世に迭つた。
 然るにその後は、文壇の指導原理が経済によつて支配されるやうになつた為に、詩人がジャーナリス寸の位
地から挽落して、代りに営利雑誌の経営者が、商業の算盤を弾きながら文壇を指導するやうになつて来た。か
くて日本の文畢は、商人とその番頭の記者によつて、今日まで指導され、ジャーサリチハイされて爽たのであ
る0もとよりそこに、眞の文筆の興り得る道理がなく、眞の文壇の成立し得る筈針ない0故芥川寵之介の言つ
た如く、詩人をジャーナリストと呼ぶ時にのみ、文化の正しい意義に於けるジャーナリ′ズムが存するので、商
業ジャーナリズムこそは正に文化の害悪である。日本の文壇と文学とは、ここに断然商人の手を離れて、再度
また詩人の指導下に辟らねばならぬ。
一喝『
人の指導下咤あるとキろの文壇は憫が」れ白みよた詩を中心とする文壇である0
        渦潮[淵淵    欄潤瀾憎湖椚             圏東ホ欄朋欄
即ちそれは川俳蘭西や欧/.洲ノ
般の文項であり、かくして初めて我が特殊園日本の欒態文壇が、世界的普通の常態に進出する。
 最近、春山行えや古田宗治等の詩人諸君が、盛んに刊行物を饅行して、一面に出版業を兼ねつつ文壇の新し
い潮流を支配してゐるのは、詩人ジャーナリズムの新機運を暗示するものであつて、日本文撃の前途に若い希
望を感じさせる。一方でまた「不安の文寧」 の時代相が、漸く詩をジャーナリズムの表面に呼ばうとしてゐる。
昔の輝かしい新詩社時代、輿謝野銭幹氏等の詩人が、ジャーナリストとして全文壇に競令した「我等の時代」
が、或はまた近い未来に同辟して来るかも知れない。
 最近また若い詩人の一群が、績々として文壇に進出し、小説や評論に筆を取つて、るのも、やがて来るぺき時
代の黎明を暗示してゐる。由来、日本の文壇で詩が冷遇硯されてるのは、日本の文学者一般が詩を理併せず、
且つ詩に無関心でゐるためである。西洋はこれに反し、およそ文畢者たるほどの人は、だれもみな詩に深い関
心を有してゐる。外国の文拳者で、初期の出餞時代に詩を作らなかつた人は殆んどゐない。ゾラ、モーパッサ
ン、パルザツタのやうな典型的な小説家でも、初期には詩人を志して文壇に出費し、後に散文に移つたのであ
り、おょそ外因の文学者で、過去に詩集の一筋ぐらゐ出してゐないものは一人もゐない。したがつて彼等が散
文に移つた後でも、偽は生涯を通じて詩に対する理解と愛着が残つてゐるので、これが外図の文壇で詩の争費
される所以である。
 過去の日本の文壇と文学者は、この鮎で全く外国と異つてゐた。西洋の文学者は(小説家でも評論家でも)
過去には皆かつて一度だけ詩人であつた。そして後に、青春と共に詩を告別して散文の方に移つて行つた。然
るに日本の文士や小説家等は、そもそも出饅の始めから散文家で、最も純潔な理念を持つぺき青春時代に於て、
文筆の最も卑俗な内容である小説を書いてゐた。彼等に文学の高貴な貴族的エスプリ(詩)が映乏してゐるの
∂∫ 純正詩論

は官然である。
今や漸く、日本に於ても詩人が文壇に進出し、西洋と同じく、昨日の詩人が今日の小説家に攣貌しっつある。
彼等にしてもし、文壇の大部分を占有する時代が来れば、その時初めて、我々の詩と詩人の地位が、外国と同
じ璧見な構成に登るのであらう0この悦ばしき現状の事資に対して、不思議にも詩壇内部から反感の饗を開く
のは、自分の深く怪しんで意外とするところである0昨日の詩人が今日の小説家に攣更するのは、何等詩壇に
封する裏切りでもなく縛向でもないb外国では皆それが官り前の事茸であつて、小畢校から大草校に進む文学
の一般過程にすぎない0青年時代はだれもみな椿をする如く、だれもみな一度はかつて詩人である。ただ眞の
天質的な詩人1老いて伶ほ青年の夢を持ち越す人1だけが、永久に後に残つて詩を書き績けてゐる。それ
故にまた世間は、それら少数の人々だけを「詩人」と呼ぷ○文畢過程のプロセスとして、青年時代にだけ詩を
作り、扁の詩集を残して小説等の散文に移つた人は、外国では決して詩人と呼ばない。もしそれをしも詩人
と呼ばば、すぺての文聾者が殆んどみな過去に詩人であつたからだ0今や日本の文壇が、かくて漸く世界故に
水準し、且つ「詩人」の名前が濫用でなく、眞の正しい意味で認められて来つつある。
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