或る孤独者の手記

 自分は始めから孤濁であつた。しかしこの頃になつてから、それが自覚的に痛感され、殆ど耐へがたく感じ
られる。何よりも僕の悲劇は、性格が周囲から孤立して居て、環境と融和しがたいところにある。それで若い
時には、単に気質上の憂鬱としてのみ、自ら孤濁を寂しんでゐる境地であつたが、この頃は対敵合的の関係か
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ら、自分の立場がはつきりと解つてきた為、昔とはちがつた境地で、名状しがたく鬱屈になり、地鉄のやうに
恐ろしい寂しさを痛感してゐる。
 この頃多くの人に逢ひ、詩壇や文壇の人たちとも、知り合ふ横合が多くなるほど、いかにその人々の牡合に
あつても、自分が本質上の「攣り種」で、気風を別にする異人種であるかが痛感される。だからだれと謡をし
ても、自分の考へてる心の意味が、少しも封手に理解されず、一も言語の埼じない物足りなさと、慰めのない
寂蓼を痛感する。したがつてまた僕の書くものが、人に理解されないのも官然である。僕の詩なんかも、割合
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に多数の人に讃まれてゐるが、賓際にそれらの讃者が、本官に僕を知つてくれるかどうか疑はしい。況やょり
生活感を露骨に書いた、僕のエッセイや思想上のものになると、むしろ讃者のあることが不思議なほどで、箕
に表現者としてすら、僕の立場は天涯孤寂の一人ぼつちだ。
2ヱタ 随筆

 だが奉術上や思想上での孤濁感は、だれも皆同じことで仕方がない。その方での孤濁感は、むしろ自分に勇
気と自尊心をあたへてくれるが、賓にたまらないのは生活上の孤濁感だ。もちろん僕は、始めから社交的の人
間ではないからして、そんな意味の「賑やかな生活」など、夢にも望んでは居ないけれども、他のずつと深い
意味で人間の交情から切り離されてる人生はたまらない。僕がいつも西洋のことで羨ましいのは、彼等の詩人
や天才やが1たとへどんな孤濁の人でも1一二の理解ある友人をもち、手紙などで生活や思想上の告白と
慰撫とをしてゐることだ。(浪漫汲の詩人たちは、特別にまた美しい友誼を持つてゐた。)もし友人のないもの
は、たいてい精神上の聴明な懸人を持つてゐるので、それに彼等の慰められない、孤濁の生活を訴へてる。人
生上の懐疑や煩悶についてすら、手紙で議論し合ふ友人すらないといふことは、異に絶海の孤立であり、たへ
がたい寂蓼である。

           ニ

 僕の如き、昔からの友人である室生犀星君以外に、殆ど全然知人がない。しかも室生君とはあまりよく知り
合つた為、却て他人のやうに話がなく、一も胸襟を開いて談論し合ふといふことがない。室生君と僕との関係
は、丁度兄弟のやうなものであつて、肉親的な立場から、賓際には何の詰もなく、互に頻を見合せてるやうな
退屈さである0(兄弟や親子の交誼が、その親しみの深さに比例して、いかに退屈なものであるかを考へてみ
ょ。)それでも室生君でも無かつたら、貨際は僕は助からないのだ。
 僕は家庭を持つてるけれども、此の家庭生活からも、僕は依然として孤濁である。「妻」とか「子供」とか
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いふ観念が、どうしても僕にははつきりしない。愛がないといふわけではないけれど、何だか家庭生活そのも
のが、僕には少しも意義がなく、単に荷やつかいの重荷として、不快な重歴を感ずるばかりだ。へもつとも僕
22∂
.:申増廿W.ノな人間は、始威から家庭を持つめが誤謬であつた。)僕は家庭の中に居ながら、いづも氷山に居るど同
じく、永遠に洩りついてる孤猫を持つてる。かつて北原白秋氏は、よく僕の家庭生活を観察して、萩原は細君
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ゃ子供の前で、いつもおづおづと恥しがつてると冷かされたが、賓際さういふ所があるかも知れない0あへて
恥しがつてるわけではないが、妻とか子供とかいふ存在が、僕にとつては杢漠とした観念であり、一も家庭的
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なはつきりした意味を感知し得ないからだ。僕が一家の主人であり、家庭人である場合を考へるほど、生活を
無限に寂しく、絶海孤嶋の薄暮を感じさせるものはない○家庭に於てすら、貰に僕は切り離された単位なのだ0
 気質的にも、封人的にも、家庭的にも、あらゆる人生に於て僕の生存は悲劇である0僕はかつて中里介山氏
の「大菩薩峠」といふ小説を讃み、その主人公である机龍之介といふ人物に興味を感じた○机寵之介といふ人
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物は、日本で書かれた小説の中、最も孤濁な人物である0しかし僕自身はそれょりももつと深く、もつと宿命
的である悲劇を持つてる。それはどうにもならないもので、叫んでも訴へても、人為の如何ともできないもの
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だ。僕がもし革命家だつたら、今日の祀合を悼むのでなく、明日にも明後日にも、永遠に生存する人生を恰む
だらう。即ちショーペンハウニルと同じことで、僕は宇宙の生存意志に根を持つてる、天理の永遠の復讐者だ0
(ニイチエの定義によれば、それが即ちアナアキズムの本質感だが○)とにかく僕の生存観は一つしかない○も
し僕が誤謬でなければ、人生そのものが誤謬なのだ0だから僕の生活は、いつも敵を以て充たされてゐる0眼
に見えて数量される、さうした具饅的の敵ではなくして、常にどこに有りとも意識されない不明の気味悪しき
敵である。


           lニ

 孤濁といふことは、しかしすべての天才者に、殆ど例外なしに決定されてる、古来の必然律の如く思はれる0
フ2ア 随筆

天才者の俸記にして、孤濁の傷ましい痛苦を記録してゐないものを、かつて僕は讃んだことはない。東西古今、
すぺての天才は孤濁であり、悲痛の傷ましい俸記を持つてる。(天才の俸記といふものは、すべて英雄詩の最
高表現で、悲壮感の最も高いものである。どんな他の叙情詩も、それほどに我々の心を動かさない。)
 しかし同じ孤濁であつても、西洋人の感ずるそれと、東洋人の感ずるそれとは、どこか或る心境の本質感で、
現はれ方のちがひがある如く思はれる。例へば日本でも、芭蕉や西行のやうな大詩人は、性格的に人生の孤濁
者であり、突きつめた寂しさの中に生活してゐた。たしかに彼等は、世とも人とも容れないところの、孤濁の
慰めなさを痛感してゐた。しかし芭蕉や西行やは、その孤濁感を自然の吟行に託してゐた。むしろ彼等にあつ
ては、孤濁そのものが詩情であり、それの隠遁的風雅にょつて、趣味の生活を楽しんでゐた。そしてそれ故に、
彼等の「寂しがり」の人生観は、本質上に於て甚だしく楽天的で、風流の別世界に安住する、日本人特有の気
楽さを持つてゐた。彼等は決して、本官の意味の厭世家ぢやない。(一般に言つて、日本人といふ人種は気質
的の楽天家である。)
 之れに反して西洋人の孤濁感は、著しく残酷にまで悲痛である。彼等は汲趣味の人種であつて、風流による
生活の逃避を知らないため、孤濁の悲痛が現賓にまで綴り立てられ、多くの天才の俸記に見る如き、無残の痛
ましい結果になる。ニイチエや、ワイルドや、ボードレエルの生涯から、僕等が常に感ずるものは、「賓に傷
ましい人生」といふ一語に轟きてる。そこには芭蕉のやうな平和さがなく、ただ地獄のやうな憂鬱と無残とが
あり、それが生涯を貰いて居る。あの老哲学者フアウストによつて表象されたるゲーテを考へ、背敦者ヂエリ
アンによつて書かれたメレヂコフスキーを考へる時、西洋の天才者が痛感してゐる孤濁感がいかに残酷にまで
憂鬱であり、絶望的な人間苦に血ぬられたものであるかが解るだらう。
 元来人生といふものは、常に杜曾の大多数者を本位として、大多数者の便利のために作られたものである。
22β
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政令のあむゆる制度組織は、すべてさうした最大公約数で出来上つてゐる・だからこの世の中は、特殊のはづ
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きりした個性を持たないところの、一般向の尋常人ほど住みょいので、少し人と攣つた異常牲椅や、公約数に
はづれた特貌の個性を持つてる人は、それだけで生活が不自由であり、苦痛を忍ばなければならなくなる。早
い話が日常の衣服や調度の顆でさへも、すべて大多数者の一般的な趣味や寸法を標準として、それの最大公約
数で製作されてる。だから少し人と攣つた特貌の趣味や、或は人並はづれた大きな身長を持つてる人は、特に
証文してあつらへる外、買物一つすることもできないといふ不自由がある。之れに反して尋常人は、どこにも
出来合の品物があり、大量生産の物一品で、便利に安く、自由に生活する利得を持つてる。
 そこで牡合に於ける「正義」の此準を、若し大多数者の一般的華南といふ鮎に於て考へれば、かの唯物観の
機械化を唱へる共産主義は、′たしかに事桶の理想境を説くものだらう。だがそんな社合になればなるほど、特
殊な個性を持つてる天才人は、.いょいょ益ヒ苦しくなり、全く生存に耐へなくなる。現に今日の杜合に於ても、
常に事礪の者は尋常人に限られてる」さうした一般向の「出来合人物」にとつてみれば、人生は常に愉快で自
由なものにちがひないが「多少でも強い個性を持つてる者は、人生に於て始めから悲劇の出費鮎を胚子してゐ■
る。彼等はいつも孤濁でありそして永遠に孤濁でなければならないだらう。もちろん僕自身は天才の自誇する
ほどの勇気は持たない。しかし人生の孤濁を味はひ、苦しみを苦しむことでは、ひとしく彼等と運命を共にす
る不幸を負つてる。
 シヤルル・ボードレエルは言つてる。人性に於ける美なるもの、蜃術的なるものは、常に貧民の世界にのみ
ある。金持ちには何の美しいものもなく、魅惑するものもないと∵たしかに、この詩人の観察には眞理がある。
22夕 随筆

貧乏人といふものは、人生のあらゆる困苦と敗惨とを嘗めつくしてゐるものであるから、自然にその性格には
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深酷なものが影づけられてる。彼等の性格は、一面に於て非常にきたならしい、卑屈で恥を知らない膿民根性
であると共に、一面に於てはまた、非常にピユーアで純異な人間性を所有してゐる。だから貧乏人の性格には、
天使と憩魔の混血してゐる、蜃術的の最も魅力深い美があるわけで、ボードレエルのやうな「地獄の唇音」を
歌ふ詩人が彼等に興味を持つたのは官然である。
 そこで僕自身は、近頃流行のマルキストでもなく、クロポトキン流の牡合改造者でもないけれども、僕自身
の肇術的な気質の上から、いつも政令の下層階級者に興味を持つてる。単に容貌の鮎から見ても、我々の政令
で最も拳術的な美を持つてるのは、・農夫や、漁夫や、工夫やの螢掛者で、杜合の下層階級に属する人等だ。箕
際、田舎の年とつた農夫などには、驚くぺく季衝的な美しい容貌をした人が居る。先年鎌倉に住んでる時、僕
はすばらしく季術的な容貌をした、二三の漁夫を見て吃驚した。
 都合の工場労働者や工夫の中にも、それ自饅が名真の題材になるやうな、立汲な蜃術美を持つた青年がたく
さん居る。すくなくとも彼等 農夫や、\漁夫や、労働者や1の容貌には、或る陰影の深い深酷な奉術的の
美しさがある。そしてかういふ拳術実は、我々の日本に於て、決して他の階級者から態見されない。賓に我々
の政令に於て、多少肇術的な芙しい容貌を持つてるものは、かうした下層民の労働者に限られる。(不思議に
また彼等の容貌には、西洋の哲学者や文学者と共通したものさへある。すくなくとも彼等の容貌は大陸的だ。)
他の有産階級ぺ属する日本人は、すぺて浅墓で平凡な顔をして居り、一つも情趣のある拳衝美を持つて居ない。
 かうしたことの一番よく解るのは、汽車などに乗つた時である。日本の汽車で、二等車と三等車の客気ほど、
著しくちがつた鳥のはないだらう0尤も近頃では、たいていの階級者が三等車に乗るやうになつたけれどk
それでも東北線や上毛線の列車では、大概三等車の主なる客は、地方の農民や労働者である。そして彼等の中
2∫0
には、立汲な肇術的の容貌をした人がすくなくない0畢に容貌ばかりでなく彼等によつて息づけられてる、卓
内の茎来そのものに特色があり、何か自分に滴れてくる、人生の本質相を感じさせる0之れに反して不愉快な
のは、貰に二等車の重来である。日本の汽車で二等車に乗つてる奴ぐらゐ、醜悪で不快な容貌をした人物はな
い。悪く黄色い皮膚をしながら、誇慢に威張り返つてる小資本家や、地方の官僚臭い高等官吏や、平凡そのも
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ので固まり切つてる小紳士やが、互に相手をにらみながら、じろりじろりとして納まつてゐる○僕は日本人の
容貌から、黄色人種といふ言語の軽蔑された、特殊な醜い意味を感ずるのは、いつも二等車に乗つた時である0
 しかし一等車になると、感じがまたちがつてくる。二等車に乗つてるのは、たいてい本官の貴族や、本官の
大資本家ばかりである。彼等の上流階級者は、人生の労苦について少しも知るところがないため、その容貌に
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も攣化がなく、のつぺりとして表情のない顔をしてゐる0だからその容貌には、少しも内容上の意味がなく、
人間的な魅力ある美がないけれども、そこには或る特殊な、クラシカルな形容上の純美があるOT度彼等の容
貌は、能楽の面に於ける美であつて、内容↓のものを消してしまつた、純粋に形式上の奉術美である○もちろ
んかうした貴族実は、近代の趣味と遠いものであるだらう○しかしすくなくともそこには、特秩なクラシカル
な季術美がある。
だから一等車の杢菊は、三等車と全くちがつた情趣に於て、僕に好ましい気分をあたへる0畢に容貌ばかり
でなく、乗客の人物そのものが、いかにも貴族的に典雅であつて、↓品な美しい客気に充ちてる○彼等の上流
階級者は、生れつきに特殊の尊大性を持つてるけれども、それがゼントルな気品の中に融化してゐる為、却て
高雅な好い感じを人にあたへる。すくなくとも彼等の客気は、三等車のそれと全く別趣のものである0あの二
2∫∫ 随筆

等車の威張り返つた小紳士や官僚臭い高等官更の慧さは、決して毒草の中に饅見見ない。.毒草の乗客
は、二等車とひとしく歎り返つてゐるけれども、しかもそれは特殊の柔かい気分をもつた情趣の美しい沈歎で
ある。
そこで革へてみると、垂するに僕の嫌ひな人間は、杜合の↓屠者でもなく↑屠者でもなく1彼等は南方共
に好きである〜その中間に位置するところの、祀合の大多数の中流階級者だと言ふことになる。汽車の二等
車に来る程度のこの階級の人間ほど、蜃術的に見て俗悪であり、人生的に見て退屈の存在はない。けだし彼等
は、囲家のょつて繁盛する基本のもので、政治家の所謂「杜曾の中堅階級」であり、その性格の隅々までも、
囲利民両の常識観で固まつて居り、教育者の所謂「健全なる精神」を典型してゐるところの、代表的な常識人
であるからである0そして常識人ほど、拳術的見地に於て俗惑のものはない○そこには個性もなく情熱もなく、
単に牡曾の制度が教養してゐる「健全なる精神」や「健全なる人格」の、表的範疇があるにすぎないのだ。
 それ故にボードレエルも、決して貴族に封しての反感を持たなかつた、むしろ彼は貴族に封して、貧民と同
じ程度の興味を持つてた○ただ彼が嫌つたのは、小紳士や小資本家によつて典型されてる、すぺての「折衷的
なもの」「常識的なもの」「健全なる精神的のもの」であつた0かくの如き中産階級者にょつて支配され、充満
されてるところの人生から、彼は呪ふぺき無限の退屈を痛感してゐた0そして今日、僕等もまた賓にその通り
である0丁度僕等は、あの汽車の二等車の中で感ずる不愉快な退屈を、賓杜曾の至るところに忍ばなければな
らないのである。
 賓に僕は、かうしたあらゆる退屈さを、・日本の苦情する杜曾に感じてゐる0例へば日本現在の文化と時代思
潮を代表してゐる、あの銀座通り部排店を見給へ0あのライオンとかタイガーといふ代表伽排店が、どん告
耐へがたく退屈なる、小資本家的の常識的客気に充されてるか0尤もああした伽排店に集まる者等は、月収官
2∫2
l
一l
陶程度の薄給な合社員や、その種の所謂モダンボーイが−番多いといふことである0質収入の#からみれば、
彼等はたしかに貧乏人で、汽車の三等車の乗客である0しかし僕の言ふ意味の言語に於て、彼等は下屠民に廃
してゐない。なぜならさうしたモダンボーイや合社員の連中は、始めから資本家の手代であつて、牡合の所謂
「健全なる常識人」となり、小倉牡の重役や支配人となることを、生涯の理想としてゐる連中だから0即ちか
ぅした連中こそ その賓収入の多少にかかはらず 精神↓に於ての典型的な常識人で、ボードレエルの偲
んだ「折衷家」の標本である。
世界の資情は、・、もちろん至るところに同じであらう0だが今日の日本ほど、かうした俗悪な常識人等が、首
都の銀座街頭を横行して、薄つぺらな時代思潮をふり姻してゐる時代はない0だから彼等によつて営業してゐ
る、銀座の一流の大功排店が、どんなに俗臭芽々たる不愉快なものであるかは想像以上に音感される0僕は劫
排店で酒を飲むことは好きであるが、どうしてもあの俗臭芽々たる、銀座通の大部排店にだけは入る気がしな
い。僕にもし金があつたら、ずつと貴族的な帝国ホテルの食堂にでも行くであらう0だが賓際の場合に於ては、
町の裏通りなどに障れてゐる、小さな汚い料理屋を探して歩く0
平凡と、常識と、俗悪との外の何でもない銀座の小紳士的伽排店よりは、まだしも東京の郊外にある、場末
の貧しい小伽排店や小料理屋が、どれだけ僕にとつて宰術的で、特殊の情趣を感じさせるか解らない0特に就
中気持ちの好いのは、労働者や下層民の多く集まつてくる、きたないペンキ塗りの安劫排店である0田端に一
年ほど居た時も、僕はさういふ下等料理店ばかりを歩いて居たが、もつと「盾垂術的で、特殊の深い情趣があ
るのは、場末の焼費臭い支那蕎奔屋である。僕は明白に断言するが、現在の東京で多少肇術的の情趣があるの
は、場末の裏街などにある、一品料理の支那蕎変屋の外にない0さうした家には赤や青のドス黒い安檜具で、
支那料理と書いた椅子戸があり、中では支那人のコックたちが、野攣な言語で大馨にしやべつてゐる0
2j∫ 随筆

 さうした下層民の料理店は、不思議に気分が奉術的で、女給たちの顔や態度まで美しい。もつとも此所に
「美し七といふのは、拳術的の意味で言ふのであるから、一般人の常識には通用しないことかも知れない。
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だが僕にとつてみれば銀座のタイガーとかバツカスとかいふ家にうようよしてゐる、あの小紳士的に菊取り込
んだ退屈な女たち1箕にあの女たちは退屈だ  に此して、場末の一品洋食星の女の方が、どれだけ人間と
しても情趣があり、容貌としても深酷な魅力を持つてるか解らない。僕はああいふ所の貧しく憐れな女たちに、
時に最も高潔な心を感じ一種のプラトニック・ヲグに似たものをさへ感ずるのである。
 要するに僕は、現在日本の俗悪な時代思潮を、銀座の劫排店に見ることにさへ、耐へがたき退屈を感ずるの
だ。我々をして願はくばいつも「折衷人」や「常識人」やの、中流階級的杜合相から、速く孤濁の地位に立た
2∫イ
しめょ。僕はボードレエルと共にこの人生の退屈を抹殺する。