新時代万歳


 大衆文寧や讃み物文学の流行を見て、文蛮の眞面目な精神が地に落ちた如く嘆いてゐる人たちがある。さう
いふ悲憤家は詩壇にも仲々多いやうに見受けられる。彼等の考へ様によれば、かうした通俗文革の流行から、
詩の高貴性が失はれて行くといふのである。
                               ● ●
 しかしながら自分は反封である。自分は正にさうした俗見の逆を考へてる。(俗見といふ言葉は、必しも常
に庶民に属する言葉でない。多くの場合に於て、眞の俗見の所有者はアカデ、、、ツタな階級に属してゐる。高貴
ぶつた見柴の中に、いつも最も普遍的な俗見がひそんでゐる。)何故に大衆文挙が賎しいのか。何故に通俗文
学が詩の精神と矛盾するか。それが第一の疑問である。
 原則として、第一流の文畢は容易に民衆に理解されない。民衆は常に「口あたりの好いもの」「砂糖のたく
さん入つたもの」を好むからして、辛味の強い本質的な文奉は、容易に民衆から理解されない。之れは一般の
原則である。けれども本質的な文奉にして、尚且つ通俗性の多いものもたくさんある。たとへばユーゴーの小
説や、トルストイの長線小説の如きは事件そのものが波瀾縦横で、畢に興味本位としても充分に面白く、した
がつて一般民衆によつて常に愛讃されてる。故に通俗性の有無は、少しも文学の本質的償値に関係しない。通
伊佐があづてくだらないものもあるし、またそれが無くつて同枝にくだらないものもある。
 世の最も馬鹿げた見解は矛誤つた意味での「蛮術意識」といふ奴である。特に日本人には之れが多い・この
所謂彗術意識は、次のやうな三段論法から成立してゐる。

                                                                                 1.1√ ペル1J、
 すべて高尚なものは季術である
 高尚なものは難解である
 故にすべて難解のものは垂術である
 今日、田舎の所謂「青年」や「智識階級者」が抱いてる蜃術観は皆之れである。だから彼等打とつては、あ
の映董として最も退屈な文肇馬眞の顆が、いつも蛮術として祀拝され、眞に映量的償値のあるロイドやチヤツ
プリンが「馬鹿馬鹿しき低級もの」として軽蔑される。何でも彼等にとつては、歯の浮くやうなキザな文句
 たとへば「私は運命の谷を越えて歩いて来た」といふやうな が、タイトルに出る馬眞ほど喝宋される0
萬事が皆その通りで、へんな新劇まがひの芝居が肇術として悦ばれ、くだらぬ西洋直謬膿の駄文挙が、そのキ
ザとイヤミの故に「高尚な奉術」として稽讃される。
 しかもこの事資は、必しも田舎のニキビ青年ばかりでなく、東京の文聾者もたいていは同様である。孟日柴合
に集まる塘衆は、わけの鮮らない故に喝宋するので、難解のほど高命だと思つてゐる。築地小劇場に行つた女
畢生が、
「何だかわからないけれども本官に垂術的だわ! 率術的だわ!」
 と言つて感激してゐるのを見て、或る人が可笑しがつて書いて居たけれども、だれでもたいがいの青年はこ
んなものだヨ。つまり「蜃術的」といふ言葉が、女畢生の意味に解されて居るのだから、すべての難解のもの、
Jタア 随筆

                                                ● ●
キザのもの、イヤミのものほど、より奉衝的として一般に感心されるといふわけだ。之れを俗見と言ふのは如
何にも至官な許償ぢやないか。
かうした世の俗見が、完に通俗性を軽蔑し、通俗と非拳術とを同字義に考へるのは官然であるが今日、大
衆文孝や探偵小説の流行を見て、拳術的棉紳の低落の如く考へてる連中も、たいていはこの種の俗見者流に属
してゐる0もちろん此等の通俗文挙が、現にどれだけの文学償値を有するかは、伶未だ大に疑問であるけれど
も、すくなくとも詩の高貴なる本然性が、此等の庶民文撃と矛盾するとは考へられない。何となれば詩の眞の
高貴なる精神は、今日の所謂心境小説などの文壇文撃とは、殆んど本質的に温交渉で緑がないのに、却つて新
興の大衆文孝等の方に、より共鳴のある要素を感ずるから。
 自分は断言する0自然汲以来の悪奉術意識に捉はれた現文壇は、我々の詩と殆んど交渉する飴地のないこと
を0我々の詩の眞精神は、かかる心境小説的文撃と関係なく、むしろ新興文壇の先騒たる大衆文撃と共鳴する。
我々は現文壇のオツケ臭いしみつたれな小説など讃むょりも、中里介山や江戸川乳歩の通俗文寧をよむ方がず
                 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
つと愉快で、逢かに本質的な「詩」を多量に感ずる○畢に大衆文孝のみではない。近頃流行する多くの「讃み
物」は、本質的に詩を多分にもつてゐる。
 それ故に自分は思ふ0小説の時代1すくなくとも日本的意味での小説の時代−は、既に過ぎ去りつつあ
るのではないかといふことを0従来の文壇が意味したやうな自然汲的小説は、もはや次第に漫落しっつあるの
ぢやないか0今は正に「文蜃春秋」の時代である○小説が厳つて随筆や、感想やの「讃み物」が起らうとする
時代である0今後にもし小説があるとすれば、それは従来の自然汲的小説でなく、大衆文筆的の小説である。
ハトルストイやドストイエフスキイの小説も、廣義の大衆文学に属するだらう○)それから筒未来はコントの時
代である0散文詩的文学の時代である0この大衆文学と散文詩とが、近く来るべき文頓を支配するに至るだら
∫タβ
潤淵潤周J燕山H∃。…′′
ゝ誉既にその讃操は歴然Lしてゐる.見よ・\最近の多くの新人、たとへば「葡萄囲」や「主潮しや「辻庖事レ
や「文撃戦線」やによつてる新進作家の傾向は、轟く皆散文詩的文学に進みつつあるではないか。いかに此等
の新興文挙が、蕾来の自然汲的小説と異なるかを見よ。
 かくして今や、日本に新しき「詩の時代」は黎明しょうとしつつある。蕾文壇の嚢術はすぺて亡びょ。未来
の精神はこの季術意識の破壊から生ずるだらう。故にこの時代は讃むぺき哉。小説廃れて随筆起り、創作衰へ
て讃み物流行す。我が「文香春秋」の時代は讃むべき哉。そして見よ。新しき世紀は先づ大衆文学から生れて
くる。績いて散文詩的文学を創造する新時代萬歳! 我々の久しく埋れてゐた「詩」のせ紀が、之れからして
春先きの牙を吹き出すだらう。
(老子に就いて)