作品と人物


 作品を通して想像する藝術家と、現実に交際して知る人物とは、多少の相違のあるのが普通である。元来、人間の性格といふものは、非常に複雑なものであつて、もし一の人格を分析すれば、無数の雑多な性格要素に区分される。一の渾沌たる人格は、百の性格の綜合であり、さまざまなる要素の色彩複合体に外ならない。然るに藝術の作品は、その個人の自己統一であつて、或る一の色彩のみを主調とするもの、即ち人格上におけるイデヤ(理想)の表現である故に、それ自ら抽象的なものたるを免かれない。
 之れに反して実際の人物は、何等の統一なき散漫な事物にすぎず、したがつて具体的のものである。そこには完全の綜合がなくイデヤがなく、ただ種々雑多なる性格要素が、無秩序に雑然とちらばつてゐる。言はば現実の人物は、分析されたままのスベクトラムである。赤・青・黄等の様々なる性格要素が、その一々の色分けで観察される。これが藝術の作品では主観の統一によつて綜合され、一の強き主調色にまで融合される。
 それ故に実際物人物は、言はば作品の分析であり、作品の中に融合してゐて、個々には観察のできない所の、性格要素の複雑なる部分を切り離し、一々のスぺクトラムを見せてくれる。それで交際すればするほど、その人の藝術の深い意味が理解され、正邪共に、批判が肯綮に当つてくるのである。
 私はこれまで長く田舎に居た為、詩壇の人々とは全く知り合ふ機会がなかつた。人物として交際したのは、僅かに室生犀星君一人であつた。その他の人々は、作品のみを知つて人間を知らずに居た。(尤も顔だけは互に合せてゐた。)それで今度の旅行は、私にたいへん珍らしく興味が深かつた。何よりも、私は大きな学問をした。即ち実際の人物を知り、それから彼等の藝術にまで、より深い理解をすすめることができた。すくなくとも過去に抱いてゐた私の観念が、或る点で誤謬であり、浅薄にすぎてゐたことなどが発見された。そして全体に、詩人と言はれてゐる人々が、気質的に親しみ易く、やつぱり人間として「吾々の善き仲間」であり、その外に自分の仲間の居ないことなどが、はつきりと意識にのぼつてきた。
 「人はその仲間の中でのみ自由を感じ得る。」といふことが、旅行の全体の時間を通じて感じられてゐた。私はたいへん愉快であつた。なぜといつて私の過去の生活では、自ら自由を感じたことが、かつて殆んど絶無であつたから。