烈風の中に立ちて
、ノし
私の情操の中では、二つのちがつたものが衝突してゐる。一つは現貴にぶつかつて行く烈しい気持ちで、一
つは現貴から逃避しょうとする内気な気持ちだ。この前の気質は「叛逆性」で、後の気質は「超俗性」である。
前者は獅子のやうに怒り、後者は猫のやうに夢をみてゐる。
そこで私の思想には、いつもポオとニイチエとが同時に棲んでる。私が季術的感興にのつてくる時、いつも
ポオの大鶴のやうに、神秘な幻想境に入つてしまふ。この嚢術の至境には不平もなく議論もない。その情操の
世界の中で、私自身の欲情が満足してゐる。即ちこの世界は、私にとつてのユートピアでもあり、唯芙であり、
三昧であり、もしくは慰安であり、そして要するに「自我を完全する」所の「奉術」である。
終り、願はくば私はいLづもこの「蜃術」の世界に住んでゐたい。しかるに私の中には、一面非常に非奉術的
な気賀があり、現賓檻執着しながら、現賓に向つて歯をかみならし、あらゆる環境に対して敵保の牙せむく薮
逆性がある。尤も詩人なんていふものは、たいてい周囲と容れない気質をもつた人生の偏貿者で、それ故ペま
た架峯のユートビ一アを拳術に求めるのだらう。奉衝家が、一面に完成の美を創造すればするほど、一面にその
現賓が惨憺たるものであることが想像される。つまり前者は後者の締結で、最も完成された蜃術は、最も不完
全の生活の反感として生産される。丁度カキが病気であるほど、その眞珠が美しくなるやうに、生活の「悪」
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野 手
と蜃術の 「水管」とは、互に反應的の関係をもつてるものだらう。
故に私ばかりでない。すべての詩人や蜃術家は、本質的に人生の叛逆者で、環境や政令に射しで嫌惑と不満
の情をもたないものは一人も居まい。特に所謂「高踏渡」とか「唯美汲」とか呼ばれる人々はさうであつて、
彼等はその象牙の塔にこもつてゐるだけ、それだけ周囲に封する恰意の情に熟してゐる。此等の人々は、いつ
も牡合と民衆を敵祓して孤濁の叛逆をつづけてゐる。その鮎で、私はいつも唯美汲の連中と意気が合つてる。
しかし他の鮎で、私は彼等に満足せず、その人々の取りすました態度に反感する。象牙の塔の理想は、いつも
蜃衝至上主義の概念にこりかたまつてる。彼等の高踏的態度は、民衆や、愚痴や、輿論や、環境や、権威やの
観念から、いつも自分を切り離して高←考へてる。現資に打つかり、現賓に敵悔し、現賓に叛逆しょうとする
のでなく、それらの環境を白眼にみて、知れども知らないやうな顔をしてすましてゐる。
かうした高踏汲の態度に瀕、根本的の偽善があることを考へる。でなければ蛮術と生活とを、あまり二元的
にわけて考へてる。何よりも彼等に不満なのは、垂術至上の境地にのみ居て、人間的情熱の親しさがないこと
である。もちろん私は、高踏汲の態度について議論をしようとするのでない。「奉衝のための肇術」を論ずる
ならば、もちろん彼等は正しいのである。たゼ私自身の気質で言へば、どこかに彼等と肌が合はず、満足ので
きないものが感じられる。何となれば私は、一方で象牙の塔を夢みながらも、一面では現音感の中に生活して
ゐて、轡乙ず周層のことが療に障り、輿論や権威を封手として、悲しい人間的憤怒忙燃えてゐるかち。しかも
私の中の気質が、それを逃避するのでなく、正面から嘗つて行かねば束がすまない。
私の中に棲む奉衝家は、私に「青猫」のユートピアを幻影させた。願はくはいつもあの理想の中に、あの阿
ひ る ま
片の夢の中に眠つてゐたい。しかしながら自室がくる。そして惨ましい現寛があらはれてくる。ああ私は夜に
J7ア 随筆
ひ る ま
魔簗し、朝に痛恨の苦悶になやんでゐる。そして自重に「新しき欲情」の懐悔をかく。私は夢み、また醒めて
現賓の怒にもだえてゐる。「夢」と「現賓」とは、来りまた去り行く二つの車。私は夢の中に詩をかき、現賓
の中に思想をかく。私はいつも飢ゑ、悩みに傷ついてゐる境野の獣。
∫アβ
・夢と現賓! 私の唯美汲と人生汲とは、今や南方から近づいてきた。換言すれば、私は夢だけの生活に満足
せず、また現賓だけの人生に嫌厭を感じてきた。いかにしてこの南方の世界を同時に調和さすぺきか? 二元
的でなく、夜と董との情感性を一元的に統一する表現はないだらうか↑ 今や、私自身が創作的に行き詰つて
ゐる。私はヂレンマに陥入つてゐる。悩み、苦しみ、しかして表現の新しき道を切り開くことができないのだ。
私が「同志」と呼び、親しき友情を感じ得るものは、今の文壇でただ無産階級汲の作家あるのみだ。彼等の
仲間だけが、よく私の気質を知り、私の思想を了解してゐる。何となれば彼等の情操の本質には、いつもポオ
とニイチエの混血児が棲んでゐるから。尤もプロレタリヤ作家といふ中には、政令主義者の一汲も居るが、彼
等は私に上って例外である。杜合主義そのものは、精神的に私と菊が合はない。彼等は私の敢であつて仲間で
ないJ私の言ふのはブナアキストの一汲であり、或はニヒリストであり、或はダダイストのことである・。思ふ
にすぺて此等の思想は、私の第一詩集「月に吠える」の中にその「情操の起原」を有してゐる。時代はその時
示されたるものを具憶的に展開してきた。未だ名目をもたなかつた「或る漁感されたもの」を、一のイズムと
して概念してきた。私の中にあるものはすぺて彼等の中にもある。彼等の悩んでゐる世界の中に、私も現に悩
みつつある。
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萩原恭次郎君の詩集「死刑宣告」は、現在の私にまで一の新しき悦びをあたへてくれた。何となればあの詩
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膠町.11.!ぎ
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集には、革術的なものと現葺的なものと、夢幻的なものと生活的なものとが、よく一元的に綜合されてゐるか
ら。かつて「新しき欲情」の著書で思惟したもの − その計量は大矢厳に経つてしまつたけれど は、別の
ニヒリッタ施主観に於て、恭次郎君の詩境によく生かされてゐる。何よりもこの詩集は「来るぺき時代」を暗
示してゐる。そして同時に「現在する悩み」を表現してゐる。我々の思惟し、意識し、そして訴へょうとして
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ゐる生活の現賓感が、集中の文字に塗りつけられてる。
しかし此等の言葉によつて、私が恭次郎の償値を買ひあげた如く、あまり早合鮎してはいけない。明白に言
へば恭次郎は望成品である。彼の「死刑書」は、表現として望だ不完成のものにすぎな寸。彼はむやみ
に言語を放散す椅のみで一つこれを中心に引きつめる力をもたない0故にその詩は、多く讃者を驚かし、い
たづらに硯鮎をきよろつかせるのみであつて、或る焦鮎にまで心をひきよせる魅力がない〇一言にしていへば
彼の詩は「つづれの錦」である。これを断片的に切断すれば、すぺての光輝ある詩語に充たされながら、全鰹
として何等カある意匠がない。その●●●や大小の活字を用ゐるものも、むしろヂレツタンチズムに顆してゐ
て、殆んど特挽の救果を見ない。
かくの如き多くの映鮎、無類の未完成にもかかはらず、とにかくにもあの詩集には、一の不可思議な暗示が
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ぁる。もし率術晶に於て、その表現に示されたる内容以外に、或る眼に見えざる「形而上の内容」といふ如き
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ものがあるとすれば、それが恭次郎の詩の重要な哲学である。即ち彼の詩境には、現にある一切の文明を破教
して、来るぺき次の文明に向はうとする、今世紀の最も深痛な情感性1今や世界のあらゆる人々がそれを感
じてゐる − を盛り出してゐる。正に恭次郎は、今世紀末におけるブルジョア文明の下積者であり、すぺでの
疲労した、退屈した、自暴自棄した、我々の時代の「ブルジョア未汲」が有する一切の情感性を痛感してゐる
一人である。
Jア9 随筆
ここで註解しておくが、恭次郎のみならず、すぺてのダダイストやニヒリストがもつてる情操性は、今世紀
におけるブルジョア文明の下積みであり、あらゆる頑廃した、疲労した、都合的資本主義の情感性を、病的に
まで心身に食ひ込んだものであつて、つまり彼等の情操はブルジョア文明の末路を代表的に象徴するものであ
る。故に彼等の文壇的名将は、正常には「ブルジョア未汲」と呼ぶぺきであつて、これを「プロレタリヤ汲」
と言ふのは言語上の錯誤である。プロレタリヤ文明などといふものは、未だ現賓する世界には無く、したがつ
てそんな種族の奉術も無いのである。
恭次郎の詩については、しかしながら別の横合に之れを述ぺょう勺 この現に悩んでゐるものは、私といふ個
人でなく、或は「時代そのもの」でないかといふことを、さらに廣い目で考へてることもあるのである。
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