夏帽子
青年の時は、だれでもつまらないことに熱情をもつものだ。、
その頃、地方の或る高等革枚に居た私は、毎年初夏の季節になると、きまつて一つの熱情にとりつかれた。
それは何でもないつまらぬことで、或る私の好きな夏帽子を、被つてみたいといふ願ひである¢その好きな帽
子といふのはパナマ帽でもなくタスカンでもなく、あの海老茶色のリボンを巻いた、一高の夏帽子だつたのだ○
 どうしてそんなにまで、あの畢生帽子が好きだつたのか、自分ながらよく解らない○多分私は、その頃愛讃
した森鴎外氏の『青年』や、夏目漱石氏の畢生小説などから一高の畢生たちを聯想し、それが初夏の青葉の中
で、上野の森などを散歩してゐる、彼等の夏帽子を表象させ、聯想心理に結合した為であらう0
 とにかく私は、あの海老茶色のリボンを考へ、その書生帽子を思ふだけでも、ふしぎになつかしい濁逸の戯
曲、アルト・ハイデルベルヒを聯想して、夏の青葉にそよいでくる海の郷愁を感じたりした○
 その頃私の居た地方の高等学校では、眞紅色のリボンに二本の白線を入れた帽子を、一高に準じて制定して
居た。私はそれが厭だつたので、白線の上に赤インキを塗りつけたり、眞紅色の上に紫檜具をこすつたりして、
無理に一高の帽子に紛らして居た。だがたうとう、熱情が押へがたくなつて来たので、或夏の休暇に上京して、
本郷の帽子屋から、一高の制定帽子を買つてしまつた○
しかしそれを男つた後では、つまらない悔恨にくやまされた0そんなものを買つたところで、資際の一高生
徒でもない自分が、まさかに菊恥しく、被つて歩くわけにも行かなかつたから0
私は人の居ないところで、どこか内諾に帽子を被り、鴎外博士の『青年』やハイデルベルヒを聯想しっつ、
自分がその主人公である如く、杢恕裡の挽柴に耽りたいと考へた○その強い欲情は、どうしても押へることが
できなかつた。そこで、或夏、七月の休暇になると同時に、ひそかに帽子を行李に入れて、日光の山奥にある
中繹寺の避暑地へ行つた。もちろん宿屋は、湖畔のレーキホテルを選定した0それは私の杢想裡に住む人物と
しても、官然選定さるべきの放館であつた。
或日私は、附近の小さな瀧を見ようとして、一人で夏の山道を登つて行つた〇七月初旬の日光は、青葉の菓
2イ∫ 随筆

ト ぎ
影で明るくaいaいと輝やいて居た。
私は宿を出る時から、息ひ切つて行李の中の帽子を被つて居た○こんな寂しい山道では、もちろんだれも見
る人がなく、菊恥しい思ひなしに、勝手な杢想に耽れると思つたからだ0夏の山道には、いろいろな白い筏が
吹いて居た0私は書生袴に帽子を被り、汗ばんだ皮膚を感じながら、それでも右の眉を高く怒らし、濁逸畢生
の青春気質を表象する、あの浪漫的の豪壮を感じつつ歩いて居た○懐中には丸善で買つたばかりの、なつかし
いハイネの詩集が這入つて居た0その詩集は索引の鉛筆で汚されて居り、所々に凋れた草衣などが押されて居
た。
 山道の行きつめた崖を曲つた時に、ふと私の前に歩いて行く、二個の明るいパラソルを見た。たしかに姉妹
であるところの、美しく若い娘であつた○私は何の理由もなく、急に足がすくむやうな差しさと、一人で居る
きまりの惑さを感じたので、歩調を早めながら、わざと彼等の方を見ないやうにし、特別にまた眉を怒らして
 ヽ ヽ ヽ
迫ひぬけた0どんな私の様子からも、彼等に封して無関心で居ることを装はうとして、無理な努力から固くな
つて居た0そのくせ内心では、かうした人気のない山道で、美しい娘等と造づれになり、古で皇口葉を交せ
                                      ヽ ヽ ヽ ヽ
られることの悦びを心に感じ、杢想の有り得ぺき幸痛の中でもぢもぢしながら。
                               チヤソス
 私は女等を迫ひ越しながら、こんな絶好の場合に際して横合を捕へなかつたことの愚を心に悔いた。
 だが丁度その時、偶然のうまい横合が来た○私が汗をぬぐはうとして、ハンケチで額の上をふいた時に、帽
子が頭からすぺり落ちた0それは輪のやうに縛がつて待つて、すぐ五六歩後から歩いて来る、女たちの足許に
告つた○若い方の娘が、すぐそれを拾つてくれた0彼女は羞ぢる様子もなく、快活に私の方へ走つて来た。
2イ∂
『どうも…=・どうも、ありがたう。』
ヽ ヽ ヽ ヽ
私はどぎまざしながら、やつとロの中で祀を言つた0そして急いで帽子を被り、逃げ出すやうにすたすたと
      ヽ  ヽ  ヽ  ヽ
Z瀾瀾層ヨ確絹轡
歩き出した。宇宙が眞赤に錮韓して、どうすれば好いか解らなかつた0ただ足だけが磯城的に運動しで、むや
みに速足で前へ進んだ。
だがすぐ後の方から、女の呼びかけてくる饗を聞いた。
『あの、おたづね致しますが…=・』
                                                 め
 それは姉の方の娘であつた。彼女はたしかに、私よりも一つ二つ年上に見え、怜例な美しい睦をした女であ
つた。
『瀧の方へ行くのは、この道で好いのでせうか?』
 さう言つて慣れ慣れしく微笑した。
『はあ!』
私は窮屈に四角ばつて、兵隊のやうな返事をした0女は暫らく、じつと私の顔を眺めてゐたが、やがて世慣
れた調子で話しかけた。
『失穏ですが、あなた一高のお方ですね?』
 私は一寸返事に困つた。
『いいえ』といふ香定の言葉が、直ちに瞬間にロに浮んだ0けれども次の瞬間には、帽子のことが頭に浮んで、
kaいと冷汗を流してしまつた0私は考へる飴裕もなく、混乱して曖昧の返事をした川
『は湧!』
『すると貴方は……』
 女は搭せかけるやうに質問した。
『秋元子昏の御子息ですね。私よく知つて居ますわ○』
朗ア 随筆

                   ヽ ヽ ヽ ヽ
 私は今度こそ大さな饗で、はつきりと返事をした。
『いいえ。ちがひます。』
                                                ヽ ヽ ヽ ヽ
 けれども女は、伺疑ひ深さうに私を見つめた○或る理由の知れないはにかみと、不安な懸念とにせき立てら
れて、私は女づれを後に残し、速足でずんずんと先に行つてしまつた。

私がホテルに辟つた時、偶然にもその娘等が、隣室の客であることを磯見した。彼等はその年老いた母と一
緒に、三人で此所に来て居た○いろいろな反覆する横合からして、避けがたく私はその女づれと懇意になつた。
遽には姉娘と私だけで、森の中を散歩するやうな伸にもなつた。その年上の女は、明らかに私に懸をして居た。
彼女はいつも、私のことを『若様』と呼んだ。
                                  わ ざ
 私は最初、女の無邪気な意地意から、悪戯に言ふのだと思つたので、故意と勿膿ぶつた様子などして、さも
貴族らしく返事をした。だが或る時、彼女は眞面目になつて話をした。ずつと前から、自分は一高の運動合や
その他の横合で、秋元子欝の令息をよく知つてること。そして私こそ、たしかにその常人にちがひなく、どん
なにしらばくれて隈してゐても、自分には鮮つてるといふことを、女の強い確信で主張した。
 ケの強い確信は、私のどんな粁駁でも、撤回させることができなかつた。しまひには仕方がなく、私の方で
も好加減に、華族の息子としてふるまつて居た。
 最後の日が迫つて来た。
 かなかな蝉の鳴.いてる森の小路で、夏の夕景を背に浄びながら、女はそつと私に近づき、胸の秘密を打ち明
  ヽ ヽ ヽ ヽ

けようとする様子が見えた。私はその長い前から、自分を偽つてゐる苦悩に耐へなくなつてた。自分は〓偽の
生徒でもなく、況んや貴族の息子でもない。それに圏々しく制帽を被り、好い気になつて『若枝』と呼ばれて
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居る.とんなに特護して考〜でむ、.私は不良少年の典型であり、彼等と同じ行為をしてゐるのである○
 私は悔恨に耐へなくなつた。そして一夜の中に行李を調へ、出優しょうと考へた○
 翌朝早く、私は裏山へ一人で萱つた。そこには夏草が繁つて居り、油蝉が木立に鳴いて居た0私は包から帽
                   ヽ ヽ ヽ
子を出し、饗手に提つてむしり切つた。
      ヽ ヽ ヽ ヽ
奔藁のべりぺりと裂ける音が、不思議に悲しく胸に迫つた。その海老茶色のリボンでさへも、地面の泥にま
みれ、私の下駄に踏みつけられてゐた。