孤独の旅人


 苦悩時代について書けといふことだが、私の生涯は永遠の苦悩時代だ。しかも永遠に、だらだらと績いてゐ
る苦悩時代であるから、山頂もなく峠もなく、無限につづく恐ろしい境野のやうなものである。私は時々、こ
の境野の中に立つて考へる。見渡す限り、渡しもない地平の向うを眺める時、言ひやうもない恐怖に慄然とし
てしまふ。
 私の生涯の運命は、友もなく仲間もなく、ただ一人で荒野をさまよふ孤濁の旗人のやうなものである。いつ
も人生は、私にとつて荒蓼としたものに感じられる。どうして、何故に、私はこんな悲観的な景色ばかりを見
るのだらう。種々な複雑な事情が、それの原因として考へられる。だが私の場合についてみれば、あらゆる運
命悲劇の第一基因は人の生れついた気質性格に属して居り、環境の攣化にかかはらず、宿命的に一貫してゐる
如く思はれる。換言すれば、私のやうな性格気質に生れついた人生は、どんな恵まれた境遇の下にあつても、
常に二貫して苦悩時代のみを績けるだらう。
 私の歩合についで見れば、悲劇的性格の主なる特色は、人と欒つてゐるといふことにあるらしい。融合は多
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敷の人の共同組合であるから、萬事の組織が多数決によつて出来あがつてゐる0たとへば衣服の風俗、家具の
形状等のやうな些々たる日常品ですらが、大多数の人々の利便に適するやうに、即ち一般の利便『一般の趣
味』を標準として作られてゐる。だから人と欒つた特殊の人間、たとへば身長のズバぬけた巨人にとつては、
普通の衣服や家具は使用に通せず、汽車に乗つても頭がつかへ、戸口をくぐるにも窮屈であり、萬事不愉快な
生活をせねばならぬ。
 ただ身長が高いといふこと、肉憶の大きさが少しばかり一般人(大多数者)と撃つてゐるといふだけで、こ
れだけにも不快不便の生活をせねばならぬ。況んや気質や性格の本質で多少一般人と撃つた人は、生活のあら
ゅる鮎で根本から不幸であり、準えず杜合と衝突し、大多数者と反目し合はねばならなくなる0何となれば今
日の祀合は、組織のあらゆる隅々まで、常に『公衆』と構する大多数者の共有利便を主としてゐるからである0
之れが.『個人主義の社合』と言はれる、今日の資本主義的社合に於てさへさうである0況んや大多数者の平等
利便を説く共産主義や杜合主義の世になつたら、私のやうな人間は自殺するより他に道がなからう0
 それはとにかくとして、所詮私の生涯は苦悩時代の連績である0それは無限に連績した境野の道で、どこが
終りといふこともなく、どこが始めといふこともないけれども、時に或は多少の高低や凹凸がある0しかもそ
の高低凹凸は、時々の事情によつて内容の種類を異にしてゐる○即ち或る時は家庭上の問題で、或る時は結婚
ゃ異性との問題で、或る時はまた奉術上や思想上やの問題で、夫々苦悩の内容を別にしてゐるが、畢尭ずるに
どの場合も、根本におけるものは同じ私の性格であヶ、同じ一貫した運命主題のバリエーションに外ならない0
ただ時々の環境と事情によつて、直接ぷつかつて来る題目の形がちがふばかりである0
最近二三年間の私は、種々な意味で生活上の重大な過渡期に立つてる0東京に移つて来てから、故郷の田舎
に居た時のやうな安静と平和とが、物質的にも精神的にも、生活のあらゆる様式から滑えてしまつた0(した
2〃 随筆

がつて私には、もはや昔の『青猫』のやうな詩を書くことはできないだらう。)私の内的心境は、今や何かの
新しき縛磯に向はうとして、混乱動描の極に達してゐる。今の私の生活は、美や蜃術を生むぺくあまりに雑音
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的のものである0私は嵐の中にゐる。何物も創造されない所の、肇術前汲の動揺期にゐる。茸に最近二三年間、
私は殆んど全く詩を作らず、何等の蜃術品らしきものを書いて居ない。今後と錐も、私の中の嵐がしづま打、
生活が創造的に完成するまで、決して私は奉術を生まないだらう。
 苦悩時代。もしその言葉が邁應であるならば、或る意味で最近の私は、正に最も強いアクセントをそこにつ
ける。
2∫イ