変物の話
「筏束」の原稿として、賓は何か文香評論のやうなものを書かうと思つてゐたが、あまり固苦しくなつてはど
ゝ}かと思ひ、本誌執筆者の衣巻省三君に尋ねたところ、軽い身連記事のやうなものを、漫談鰹で書かれる方が
面白からうといふことなので、意見にしたがひ次のやうなものを書き出してみた。もとより僕は、かういふ文
膿に慣れてないし、題材が題材であるから、何か本誌の讃者にすまないやうな感じがする。もし迷惑のやうな
ら、次の横合にはもつと内容のある論文でも書き、この章任を埋め合すことにしよう。


 此頃になつてから、僕は自分の攣人であることが、痛切明白に意識され、自分で自分にあきれてしまつた。
もつとも撃術家なんていふものは、天質的に皆欒人である。褒衝家がもし世間改の範疇的な人間だつたら、初
めから詩も小説も書けはしない。(但しこのごろの所謂新進作家は、驚くぺく皆世間的の才子である。その人
たちの「新しい文筆観」に言はせると、僕等のやうな人間は過去の範疇に属するので、文孝者として時代遅れ
の型に属するのださうである。世のヰは襲つて来た。今では漫個性の文学を主張し、天才を排斥するマルキス
トの奉術論や、社交術の上手と如才なさとを以て、文聾者の新しき特色とするほど、唯物的に攣化して来た時
代であるから、奨人を以て季術家の特色とするやうな考は、たしかにもう通用期限を失つてゐるだらう○)
 とにかく、しかし、概して建物の多い文学者の仲間にあつて、僕はまた特別製の人間であるやうだ。友人で
さへも、僕には皆あきれてゐる。佐藤惣之助君の如きも、人の顔さへみれば、萩原は攣人だ愛人だと言つてる
さうだ。よほど驚いてゐるものと見える。室生犀星君に言はせると、僕は典型的の放心者であるさうだ。「萩
原は攣つてゐるから」といふ思想で、僕のたいていの我がままは友人間に許してもらへる。近頃知り合ひにな
った宇野千代さんは、僕のことを攣物である上に仙人だと言つて居られる。(尾崎士郎君の「荏原郡馬込村」
といふ小説では、僕が「仙骨を帯びた詩人」としてモデルにされてる。)
 こんな風で、僕は皆から攣物扱ひにされてゐる。僕は今まで、自分をそんなに攣つた人間だとは思はなかつ
たが、人からさう言はれてみると、どうも矢張偏屈のところがひどいやうで、自分ながら呆れてしまふ0それ
でかういふ性質だから、交際といふものは絶封にできない。大概親しくなりかけても、攣なところで喧嘩をす
るか、でなければ自然に冷淡になつて別れてしまふ。そこで室生君に言はせると、僕は「非人情で冷淡」の男
であるさうだ。僕は決して非人情といふ柄でなく、ずゐぶん友誼などにも熟し易い方であるけれども、そこが
宇野千代さんの所謂「仙人気質」で一階が雲煙茫々とした無関心の男であるため、大概のことには淡々として
関心が無くなつてしまふのである。
2〃 随筆

 何よりも第一に、僕が自分で困つてゐるのは、病的にまで僕が人間嫌ひであることだ。西洋には「厭人病」
といふ一種の病気があるさうで、例のドストイエフスキイなどはその方での典型患者であつたさうだ。ロング
ロゾオに言はせると、ポオやボードレエルや、その他の孤濁を愛した多くの文学者は、病理畢的に診察して、
皆この方での精神病者に属するさうだが、僕なんかもやはり入院組のお仲間にちがひない。すくなくともこの
病気が1もし病気だとすれば  どんな精神状態のものであり、どんなに苦痛のものかと言ふことだけは、
僕も人後に落ちずょく知つてる。
                                                                             ヽ ヽ
 第一にこの「人嫌ひ」は、一種の・恐怖感からくるもので明白に神経質の系統である。何かそこに、妙なおど
ヽ ヽ ヽ ヽ
おどした意識があ1り、むやみに他人からの歴倒が感じられる。それで無意識的にも、人に逢ふこ上が苦痛にな
り、出来るだけ逃げ廻らうといふ気持ちになる。同時にこの反面では、孤濁を愛する念が俄烈になり、一人で
居ることの自由と気安さとが、習慣性の骨髄にまで浸みてしまふ。僕のやうな男にとつて、孤濁は丁度阿片の
やうなものである。それが自分を怠惰にし、憂鬱にし、音感することを知つてゐながら、どうしてもその逸架
から免れられない。
 だから僕には、友人といふ者が殆んどなく、稀れに逢つても往復することが絶えがちである。そのくせ僕は、
常に心の合つた友だちを求めてゐるので、若しこの世に於て、趣味から、気質から、教養から、思想から、ぴ
つたり合つたやうな人物に出逢つたら、どんなに幸桶になるかと思ひ時々杢想の人物を浮ぺてみる。だがそん
な人物はめつたに無いので1・たいてい多くの人は、外面僕とよく似てゐても、.性格の本質のところで仝つき
りちがつてしまふ。ノ特に僕の詩の愛讃者などに逢つてみると、この感が特別に著るしく、孤濁の寂しさを切に
感ずる。  僕の現に交際する二三の人は、室生君でも佐藤君でも、同類項の鮎で気が合ふのでなく、反つて
その反性椅のところで結ぷのである。特に佐藤惣之助君の如きは、僕にとつては「天外の人」 であり、性格の
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どんな隅々からも、全然全く反対してゐる。彼のあらゆる鮎が、僕にとつては不可思議であり、自分の住んで
ゐる地球の中では、夢にも見ることのできない火星人の幻燈に属してゐる0ハ尤もこの事情は、佐藤君の方か
らみても同じであらう。)
 かうした孤濁好きの性分から、僕はしばしば厭世的なる遁世者のやうに批判される。たしかにもちろん、僕
の思想には厭世的のものが多分にあり、遁世的な性向も非常に多い。しかし同じ厭世者でも、西洋汲の厭世主
義者と東洋流の厭世主義者は、よつぼど肌合がちがつてゐる。日本や支那で昔から民族的に俸統してゐる厭世
主義とは、文明の人間政令を嫌悪して自然を愛し、西行のやうに山の中へ引つ込んでしまはうと言ふのである0
然るd西洋の厭世主義 ボードレエルやショIペンハウニルの顆 は、さう言ふ種類の自然主義とは、む
しろ正反封のものであつて、あくまで人間的の執着に基調してゐる。彼等は「人間嫌ひ」であるが、それは自
分と交渉を有する限りの者であつて、自己と直接交渉のない人間一般 それは大都合の巷路にうじやうじや
してゐる−は、むしろ極めて興味があり、充分に面白い存在なのだ。だから西洋の厭世主義者は、決して山
の中へなど行きはしない。反対に彼等は ボードレエルでもショーペンハウエルでも 好んでいつも賑や
かな大都合を散歩したり、酒場に行つて酔ひ倒れたり、裏街の経費婦を漁つたりして生活してゐる0思ふにか
ぅした厭世主義者は、人間の巣窟たる都合の外に、全く住むぺき天地を持たないだらう。
 ところで僕の「人嫌ひ」が、やはり西洋流の病気であつて、東洋風の厭人観とは、全く本質の性がちがつて
居る。僕はどんなことがあつても、田舎の寂しい山の中などへ行く菊はしない。「自然」といふ観念は、僕に
とつては退屈の醜態で、むしろ嫌厭の封象にしか償しない。僕はボードレエルの仲間であつて、都合の停車場
ゃ港の波止場や、或は群集の難問する市街などを、一人瞑想に耽りながら、無関心に歩いてゐるのが好きであ
る。「人間」といふものは、それが自分と直接の交渉を持たない限り、宇宙に於て眞に最も面白くまた最も愛
2J7 随筆

すぺき存在である。特に群集する人間を見てゐると、幾時間でも全く飽きると言ふことがない。僕は首貸店の
エレべ−ターを往復しながら、いつも長い間人生の秘密を考へてゐる。
2∫β
 以上僕は、長々とつまらないことをしやぺり績けた。僕がこんなことを書いた理由は、一つには僕の生活上
でやつてる自己流の我がままを、知人の人々に寛容してもらひたいためである。前に言ふ通りのわけからして、
僕は全く友人と言ふものを好まない。特に未知の人と初めて逢つたり新しく人と懇意になつたりすることは、
全く以て苦痛であり、生理的に耐へ・ることができないのである。だから僕のところへは、どうか成るぺく訪甲
者がないやうに、特に新しい知人などを紹介してくれることがないやうに、特にこの文を讃んだ人にだけにも、
お願ひしておかねばならぬ。命できるならば、決して手紙など迭られることもないやうに希望する。なぜなら
僕は、決して返事を書くことがないからだ。手紙の返事を書くといふことは、直接に逢つて人と交際するより
も、.伶煩はしく不愉快極まる仕事であるから、苗止むを得ない用事の外に、僕は決して手紙を書かないことに
きめてゐるのだ0もつともそれを承知の上で、返事を要求されない手紙ならば、平常孤濁の僕にとつて、大に
悦ばしい事件であつて、それこそ毎日でも好いから欲しいのだが、あいにくまた世の中には、そんな片務的な
郵便など書いてくれる人がないのだから、もとより注文しても仕方のない要求である。最後に、僕はまた室生
君の所謂「放心者」で、知人の顔など容易におぼえることができないのである。それで前に幾度か逢つて知つ
てる人が、道などで挨拶されても、儀の方では知らないから行き過ぎてしまふ。この鮎の放心ではドストイエ
フスキイは僕よづもつと先輩であり、三年も交際してゐる知人の蘇を、すつかり忘れて居るさうである。僕の
はそれほどでないだらうが、一つには造など歩きながら外のことを瞑想してゐるため、人に逢つて挨拶されて
も多くは菊が付かずに居るのである0かういふ放心の鮎や、嫌人病の気質やからして、僕はしばしば人に誤鉾
され、高慢だとか尊大だとか蔭口されてる話を聞くが、それは皆誤鰐であつて、皆が僕の風攣りな菊質を知ら
ないことから、意外の曲解をされるのである。僕は普通の交傑では、極めて謙遜な心をもつでる人間だから、
意識的にはつまらない尊大感など夢にも持たない。要するに一切は、俺の攣物であるといふことの、宿命的な
原掬に蹄結する。だからこの鮎さへ知つてもらへば、意外にたやすく、僕は何人にも親交することができるの
である。