チヤツプリンの悲哀
 チヤツプリンは何も知らなかつた。彼は無智の道化役者で、貧しい曲馬圏の天幕に住んでた。あらゆる天質
の間抜けと、でたらめと、蛙歩きと、古い駄洒落と、サーカス風の悪ふざけとで、かうした天幕小屋に集まつ
てくる、場末の野卑な紳士たちを悦ばしてゐた。
 しかしながら或る時、ふと気まぐれの一詩人が、この曲馬囲をのぞきに来た。(詩人なんてものは、別して
この種の見世物が好きなものだ。)そこで詩人は、おそらく彼が百度も見たであらうところの、あの陳腐な曲
馬圃の茶番狂言 ウヰリアム・テルやセビラの理髪師 を見たあとで、不思議な、思ひがけない、心をひ
きつける印象を得た。なぜならそこには、一般普通の道化師とちがふところの、妙な薄暗い影を曳いた、宿命
的の悲しい哲学者がふざけて居たかト0
 詩人は考へた。ここには立汲な拳衝がある。それは我々の知らなかつた不思議なグロテスクの表現で、笑ひ
2∫9 随筆

の下に哲学を隠したところの、奇妙な新しい創作であると。そしてこの餞見から、場末の骨董店に縛つてゐる、
貴重な賓石を見付け出した人の如く、詩人は手柄顔の誇を感じ友人の間にひろめ歩いた。
一方でチヤツプリンは、少しもそのことを知らなかつた。なぜなら彼は、始から無教育の道化役者で、勿慣
らしい蜃術や哲学など、てんで考へたことすら無かつたから。彼はただ飢餓のために、感興もなく、無意味な
強ひられた拳をしてゐた。しかしながら天性が、彼の舞重要を憂鬱にし、どこか漂泊者のやうに物悲しく、哲
人めいた厭世の影をあたへた。言ふ迄もなくこの天性は、彼の職業に似合はしからず、.不向きのものに考へら
れた。座員の道化師は冷笑し、親方は彼を虐過した。そしてこの不幸から、二重に彼は憂鬱になり、自然にニ
ヒリスチックの暗い影が、道化の馬鹿笑ひの所作と混合して、悲しい曲馬圃の洋燈の下で、矛盾のなやましい
像をつくつた。
 しかしながら或る時、詩人がその曲馬圃の天幕に映る矛盾の不可思議な投影をみた。そこには意外な、矛盾
のグロテスクの肇術と、宿命の深い秘密を考へさせる、虚無の哲学とが象徴されてた。それからして後、次第
に多くの季術家等が、チヤツプリンについて見物し、評判が日毎にひろまつて来た。人々は言つた。チヤツプ
リンこそは肇術家だ。彼こそは眞の詩人哲寧者だと。そして遽に、最後にチヤツプリン彼自身が、自分の名饗
を.信じて来た。彼は思つた。(なぜなら彼は、生れつき聴明の人間だから。)自分について、人々は哲寧者だと
                               ヽ ヽ ヽ ヽ
構してゐる。自分のあらゆる馬鹿馬鹿しい、たはけた茶番狂言の中にさへも、人々は深刻の奉衝があり、意味
の深い悲哀があると感じてゐる。好し! 自分は自覚を得た。自分はもはや道化師でない。単なる馬鹿ふざけ
の道化師でない。自分は眞の拳衝家である。哲畢者である。
                         ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 そこでチヤツプリンは、伸一間のつまらない道化師と別れを告げた。  その道化師たちは、チヤツアリンの
蛙歩きを眞似しては、これが「哲学」だと考へてゐた。 − 彼はずつと高級であり、異に撃衛的であるところ
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 dZ周題唱増」リ‥巧。

の、立汲な創作をしようと決心した.彼は活動役者になつても、昔のサーカス時代の作の如く、単なる虜鹿笑
ひにしかすぎないところの、いかなる低劣の活動映童も、もはや再度作るまいと決心した。さうした昔の作品
は、偉大な肇術家としての彼にとつて、あまりに低劣で馬鹿馬鹿しく、恥羞に耐へない記憶であつた。
 今や我がチヤツプリンは、眞の肇術家としての自覚に於て、多くの立汲な作品を書き、且つ自ら熱心に演出
した。一作毎に、彼はその精神を傾注し、努力の全膿をそそぎ蓋した。そしてたしかに、彼の成績は報いられ
た。即ち丁度、彼自身が漁期した如くに、世間はその新しき救果について、「涙の喜劇」と言ふ名をあたへた。
人々はもはや、畢に道化役者の馬鹿笑ひとして、チヤツアリンの蛮を見なくなつた。席の前列に址んだ子供
 それは昔、彼の唯一の愛顧者だつた。1でさへ、今日ではつつましやかに、季術に封する遠慮の如く、
気取つた上品の笑ひをして、彼等の先生を眺めて居る。チヤツプリンー・彼はたしかに成功した。
 しかしながら薄暮に、成功の一切が幻滅した、寂しい口惜しい憂鬱が迫つて来た。チヤツプリンはそれを感
じ、彼の巨富の富の中で、情ない痛恨を噛みしめた! なぜならその大官りの劇場でさへ、彼の昔の態見者で
あるあのなつかしい詩人の姿は見えないから。詩人はどうしたのだらう? 彼は最初に見物に来た。けれども
腹立たしさと失望から、帽子をつかんで辟つてしまつた。詩人は見た。そして昔のチヤツプリンには似もやら
ぬ、気障な、思ひあがつた、蜃術家気取りの大先生と、その鼻持ちのならない哲学意識を直感した。そこには
もはや、昔のどんな懐かしいチヤアレーの姿も無かつた。その昔のチヤアレ.−は、田舎の薄暗い曲馬囲で、馬
糞にまみれながら踊つて居た。彼自身が、茸際にどんな蜃術と哲学を持ち、どんな大きな感動を人々に輿へて
居るかも知らないで。憐れな、物悲しい、昔の純粋のチヤアレーよ!
 詩人は彼の書斎の中で、昔のチヤツプリンを考へて居た。とりわけ裏街の寂しい通りで、飢ゑた瘡犬と一所
に生活してゐる、あの秋の落葉のやうに悲しい漂泊映童、「犬の生活」の頃を考へて居た。いかにその頃のチ
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ヤアレーが、純粋の叙情詩人であつたらうか。彼は何の肇術も意識せず、何の哲学も考へなかつた。憐れな道
化役者が願つたことは、ただひと向きに客を笑はせ、動作の崎形と、馬鹿馬鹿しさと、間抜けさとから、靴の
やうに底をぬかして、人々を笑倒させることだけだつた。しかもチヤアレーが馬鹿ふざけをし、間抜けさの限
りをすればするほど、不思議に眼に見えない映真の影から、漂泊者の寂しい音楽が顆えて来た。彼が何気なく
            づぽ ん
歩いてくる、あの蛙歩きの洋袴からも、宿命の暗い憂鬱が漂つてきて、落日の道路に影を投じた。そしてあら
ゆる終幕が、笑と漠の交錯してゐる、ふしぎな矛盾の拳術であり、象徴の飴憩をひく哲学だつた。
 詩人はそれを追懐した時、今の得意でゐるチヤアレーを見た。何といふ幻滅だらう。そこにはもはや、昔の
    ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
やうないぢらしい哀傷もなく、何の自然的なチヤアレーもない。そして代りに、別の奉術意識を持つたところ
の、響筆者らしき風貌を持つたところの、尊大に気取り込んだ先生がゐる。然り! チヤアレーはその「無意
識の奉術」を自覚して、今や「意識上の拳術」にしようとしてゐる。それによつて彼は、もはやその純粋と自
然性を失つちやつた。昔のチヤアレーの肇術には、その天質や境遇から湊み出した、眞のたくまざる哀傷があ
  ハ ート
り、心情の感じてゐる思想があつた。然るに今のチヤアレーは、不幸にも蜃衝家としての自覚に立つてる。そ
                                        ヘ ッド
こではすぺてが、意識上の構想によつて工夫され、奉術数果のために誇張され、頭脳の観念によつて造られて
ゐ′る。彼の昔に見た「涙の笑ひ」は、幾石高の観客の中、ただ僅かに少数の詩人だけが、鋭敏の神経をもつ蜃
術家だけが、彼等の心の隅に於て、微かに淡く感じ得るものであつた。大多数の見物もそれを知らず、知つて
も理解できないほど、眞の意味深い蜃術だつた。然るに今のチヤツプリンは、かくも神秘的なる「涙の笑ひ」
を、今や庚台の看板.にして、俗衆の理鰐に訴へるぺく、惜しげもなく意識化してゐる。
 詩人は彼の書斎の中で、昔のチヤアレーを考へ絹ほど、今のチヤツプリンに腹を立てた。彼は裏衛に漂泊し
てゐた、昔の質しいチヤツプリンを限りなくなつかしく考へるほど、今の百千苗弗の金貨にうもつた大資本家
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のチヤツアリンを寂しく思つた。そして彼が金持ちになればなるほど、昔の天質から滑え去つてくる漂泊者の
暗い影や、そこに表象される奉術の魅惑を惜んだ。畢に観念からではなく、境遇からも、彼は失費して行くチ
ヤアレーの姿を感じた。
 けれども聴明なチヤツプリンが、どうしてまた詩人の意味を、心に感ぜずに居なかつたらう。彼は薄暮の幻
滅した部屋の中で、詩人よりももつと寂しく、口惜しく断絶した恨みを感じた。彼はよく知つてゐた。あらゆ
る俗衆の喝宋が、いつもジャーナリストの宣俸であり、単に廣告費のB額から、比例される結果にすぎないこ
とを。いつでも彼は、見物中のただ一人を、蜃術家だけを目あてにしてゐた。そして今、彼の濁らゆる漁期に
反して、詩人は自分を見捨ててしまつた。王宮の富! それが彼の何にならう。彼は眼を閉ぢ、最近の映董敷
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果を考へてみた。そこにはもはや、昔の粗野な、自然的な、げらげらと笑ふ見物は一人も無かつた。俗衆は彼
を尊敬してゐる。だが何といふ物足りない、陰気な不自然の杢菊だらう。子供でさへも、今はもはや昔のやう
に、眞の友愛を感じてゐない。そしてその子供等こそ、昔は自分を理解してゐた、眞のなつかしい友人だつた。
 チヤツプリンは飢渇を感じた0彼は卓上の楷を取つて、一息に水を飲み下した0「不幸か鵠よ! 汝は自覚
しない方が好かつたのだ。」彼は一つの眞理を知り、自分の心につぶやいてみた。その時彼の凝の上に、涙が
潜然とながれて爽た。「ああ華南とは何ぞや?」永い過去の努力から、漸く嵐ち得た富と名著を考へた時、彼
は恐しい杢虚を感じ、一切の人生に懐尿を向けた。何物も、何物も、かつて彼が昔あつたほど、それほど満足
した華南の世界はなかつた。彼は記憶の凋れた花束から、昔の失懸した女を思つた。そして情緒のセンチメン
タルに流れる部屋で暗い憂鬱の電気をつけた。彼は新しい映董を考へ、一つの追懐の夢の中に、彼のさびしい
哲学を織り込ました、叙情詩を作らうと決心した。
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  後 記
 自分はチヤツプリンの「サーカス」を見て、不思議なロマンチックの叙情詩を心に感じた。その映董では、
チヤツプリンが昔の通りの様子をして、昔の通りの道化をしてゐる。そこには古い追懐があり、昔の失懸した
漠がある。丁度チヤアレーはそれによつて、彼の遠い記憶を語り、悲しい叙情詩を歌はうとした。彼は飢餓に
迫はれて曲馬圃の天幕に逃れ、無用の道具方として働いてゐる。そしてあらゆる間抜けさと粗忽のために、貰
の造化役者として見物に誤認され、いつのまにか一座の人気役者になつてしまふ。しかもチヤツプリンはそれ
を知らず、薄給の道具方として支給されてる。けれども遂に、彼はそれを自覚してくる。そしてこの自覚から、
柄にもない生命がけの綱渡りをやらされたりして不幸な散々な目に逢つてしまふ。「自覚しなければ好かつ
た!」彼の哲学が、嘆息しながらそれを言ふ。
 それからチヤツプリンは、曲馬園の娘に失懸して、一人天幕を去り、再度また漂泊の生活に辟つてしまふ。
「我れ何所に行かん!」これがサーカス全篇の最後の言葉で、映真の幕には彼の影が、落日の平野にさまよつ
て行く、この馬眞を見て、そのいかなる不満や映鮎にかかはらず、自分はチヤツプリンの詩的天分に敬服した。
すくなくとも彼の如く、純情の詩的精神をもつてる者は、他の映毒界には居ないであらう。たしかにサーカス
にば、彼の持つ叙情詩の最も純粋のものがあつた。そこでこの散文詩(?)は、言はば解説のやうなものにす
ぎないのである。
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ーL巨.F、.F