秋日漫談
      私の郷土

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私の郷土上州前橋は、上州の中でも上州気分を最も現はした土地である。田山花袋さんはやつぱり上州から
出てゐるが、田山さんはたしか館林の生れだつたと思ふ0おなじ1州でも館林と前橋とでは気風がすつ一かりち
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がづてゐる0館林といふところはちょつと云へば京都のやうな気分のするところで、自然全饅が非常にやはら
かな感じのする町だが、前稀はそれとはちょうど正反封なのである0全く館林は、上州の中でも例外の土地で、
謂ゆる上州らしい特色の甚だすくないやうな気がするところである。
 世間普通によく云はれるところの、固定忠治の出たところとしての、謂ゆる侠客の本瘍として、人の菊の荒
んだ、そして、始終風がひどく吹き荒れて、どこを見ても荒れて、どこを見ても荒涼としたところ1それが
↓州だい誰れにもさう思はれるであらうところの上州で、殊にもさうした気風、さうした光景を、一ばんょく
見せてゐるのは前橋である。
 上州でそれほど大きくもない町でありながら、比較的人に知られてゐるのは碓氷郡の安中である。安中も前
橋とは可なりちがつた風物の土地で、どつちかと云へば、近くの信濃に似たところがあるやうに思はれる。つ
まり信濃が思想的の人物を多く生んだやうに、安中もまた思想的の人物をたくさん出してゐる。故新島裏はそ
の代表的人物であらう。
 上州の自然は、非常に荒涼とした、・寂しいものだ。そして山なぞは、非常に遠く青い、前橋の公園のあたり
から見ると、速い山がハツキリと感じられる、と初めて見たものは誰れしも云ふ。

  山のあなたに幸ひ住むと人のいふ

 ょく憶えてゐないが斯ういふ詩がある。この詩の気分は、前橋でょく味ははれる。何か斯う、旗愁 旗の
こころ、といふやうな、ローマンティツタな心持は、僕などにも多分にある・・。さういふ心持も、つまり前橋の
自然から養はれたものだと思ふ。
 前橋はまことに殺風景だ。漏りつ気のない、甚だ乾燥した土地だ。だから茶の湯とか音楽とか、凡てさうい
ふ遊蓼といふものが殆どない土地である。つまり概して美的情操の映けた土地なのである。それから俸統とい
ふことの全然ないところだ。その鮎、京都・金澤・名古屋などとは全く反封である。昔から宗教のあまり行き
2βj 随筆

渡らないところで、併敦のいかなる宗汲にも強い信仰をもたない、信仰心の更らにない人たちばかりだ。早く
キリスト教がはいつて、その信者が多くあるのは、さうした昔からの俸統的宗教がなかつたので、自由に新し
いものをうけいれたのではあるまいか。
兎に角、上州人そのものが気質的に俸統を持つてゐない0従つてさういふ意味で上州人は、奥床しいところ、
古雅なところがない○しかしその・かはり、新しいものをうけいれる自由さはある。そんな風だから上州人の気
賀は非常に畢純で、それだけ深酷さに軟けてるわけである。
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 室生(犀星)君には人としてその郷土の金滞らしいものが多分にある。前にも云つたやうに金渾の自然も人
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間も、僕の郷土とはまるで反封で、それは室生君と僕とをくらぺてみてもよくわかる。ところで室生君と僕と
を結び付ける友情は何か、と思ふに、多分二人共通の単純性によるものではないか、と僕は思つてゐる。二義
的方面の気質は非常に正反対なのである。
2β4
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      郷土文蜃

 この頃、郷土文拳の説を立てる人がある0郷土文拳とは何か↑ 郷土の風物や出来事などを封象にしたもの
が郷土文拳と云ふのか0もしさういふ意味に解するものならばそれは、全然意義のないことと僕は思ふ。事賓
もしさうならば、蓼衝は非常に狭い範囲にかぎられることになる。
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 いつか芥川ハ寵之介)君とも話したことであるが、文畢は単に郷土の人、郷土の風物だけに限られるやうな
狭い範囲のものではないのだ0交通の自由に餞達した今日、或る一つの地方だけが、時代をながれる大きな潮
流とノづに流れないことはない箸である。
 では、私の云ふ郷土性とは何か? 私は斯う思ふ0私がここに私の郷土以外恥礪胡桃が威引稲磯が挙措
いて − 例へば、私が東京のことを書いて港、.経とに上州で生れた私の郷土性が現はれる箸だ。もうノづ例へ
れば、日本の養家が西洋へ行つて描いた風景にしても、それには必ず日本人としての郷土性が現はれてゐる。
郷土蜃術といふものは、それでこそ成り立ち、そしてそれ以外にあつては無意味でなければならない。
小説家の想像力
 日本の現代の小説を讃んで何よりもの映鮎は、作家の想像力の貧しさだと思ふ。一般につまらないと云はれ
るのもそこに原因してゐはしなからうか。それは外国の小説と比較してみると賓によくわかる。例へば、トル
ストイの『戦争と平和』にしても『アンナ・カレニナ』にしても、先づ作者トルストイの想像力の豊さにおど
ろく。ああした大作は組も今日の日本の作家には求めても得られない。
 小説家の才能は想像力が第一ではないか、と僕は思ふ。ところで日本の小説家の多くは、自分の生活の日記
とでも云ふやうな、畢なる自己生活の、そのありのまましか書けない。そこには少しの想像も見出されない。
 殉に日本の小説のつまらなさは、作家の想像力の貧しさに原因する、と僕は思ふ。
奉術家の美的陶酔
 僕は以前、音楽が全然わからず、好んで♯いた西洋音楽についても、それはただ西洋音楽がもつエキゾチシ
ズムに憧れたにすぎない。つまりその頃は、音楽に封して主観的な聴き方だつたのだ。音楽を聴くとき、その
2β∫ 随筆

曲についていろいろ毒することにょつてたのしんだのだ0例へば『懸の夢』といふ曲を敢いたときには、
分でラブ・シインを頭に描きながら添いたものである0無理に豊楽に自分の憲をこじつけて、そしてだん
だん誉込まれて陶酔する0するうちに藁そのものがいくらか分つてくると、同時に、自分の警方も攣つ
て来た0即ち讐の仕方が讐識ながら批評的になつて来たのである0そしてそれは次第に強く温くなつて、
どんな音響へ行つて添いても、以前のやうな本官の汲我の陶酔は味はへなくなつてしまつた。さういふ藁
から輿へられる甘い藁が失はれてしまつたといふことを、僕は折々、寂しく考へる。そして、藁の本官の
警方とは、以前の僕のや之なすぺきものか、それともその後の僕のやうに批評的になすぺきものかrとい
ふことを考へる0そして僕は、以前の僕の警方が本官なのではなからうか、と思ふ0無論この僕の責は合
理的ではないかも知れないが。
 これはしかし、ただ藁;に限らない僕の意見で、他の一つの例をあげれば、あの自由劇場の第高の公
演『ボルクマン』を見たときにも、藁を以前に敢いたときと同様の感激をうけた0かうしたことは何故か?
外因の戯曲の攣つた舞董、攣つた内容、その凡ての珍らしさ新しさからうけた感動は、純粋な讐的のもので
なぺ表の美的好奇心を刺誉れたからではあるまいか↑その好奇心がだんだん失はれると共に熱が減じ、
魅惑の程度がさめる0と共に批評的に見ることになつてくる。
 蓼術の目的は、筆的に批評的にみるところにあるか、或は誓観客に美的恍惚、美儲酔を輿へるところ
 にあるか。
 僕は思ふ0蓼術の目的は、その治者革者観客に美的恍惚美的陶酔を輿へ・乏あると。
 蓼術が常に新しさを求めるのは、そこに何か意味があるのではなからうか0拘に新しき畢術は、鑑賞的許償
 以外のものである0そしてその新しさそのものが、人を魅惑するカを持つ。
2βd
凸日
ダンスに就て
 又この頃、ダンスが問題になつてゐる。があれは第一、警察が喧しく云ふことがいけない。一饅、どうして
ダンスを禁止しなければならないのか?
 ダンス禁止の理由は、風紀の素乳にあるとのことである。すると風紀を乱さない程度のダンスなら、許して
も差支へないであらう。大饅風紀を乱すといふ意味の警察の解澤は知らないが、ただ男女相揮して廟をことは
一向風紀を乱すとは思はれない。
 ダンスから互ひにラブの関係にはいるとか、或はもつと一層ふかい関係を生じたとしても、それが単にその
個人問の将来の事不幸を持ち来すものであり、又、それが政令的に薯轟を及ぼさないことであるならば、ダン
スは少しも有著なことではないと思ふ。ただ僕の恐れるのは、さういふ享楽機関を利用して紳士風を装つた不
良の徒が出漁することである。かういふ不良の徒が、無責任に他人の妻と肉慣上の関係をつけたり、虞女の童
貞を破つたりすることがあれば、それは警察の権限で取締るのが官然であらう。
 さうした不良の徒は別として、政令的に章任を持つところの男女ガさうした出来事には、彼等自身がその出
来事に封する責任を持たなければならない。だからたとへ風紀上の問題が煮起したにしても、その一切の虞決
はその男女相互によつて行はれるわけだから、結局、牡合的に音毒を流すことはないのである。
2βア 随筆

「ははあ! これがラヂオだな。」
と私は直感的に感じた。しかし暫らくきいてゐると、どうしても蓄音域のやうである。しかもこはれた機械で
キズだらけのレコードをかけてる時にそつくりで、絶えずガリガリといふ針音、ザラザラといふ雑音が響いて
くる。何か琵琶歌のやうなものをやつてるらしいが、唱に雑音がまじつて添えるといふょりはむしろ雑音の中
から歌が添えるといふ感じである。
 ラヂオといふものを、大挙ふしぎなもの、肉筆がそのまま倦つてくるものと思つてゐた私は、この不自然な
器械的の音饗を、どうしてもラヂオとは思へなかつた。それにへんな形をしたラッパといふのも、琴音域の電
気撲饗器として、以前から使はれてゐたものである。
「蓄音機だな↑」
さう言つて私が連れの方を顧みた時、側にゐた四五人の男女が、いつせいに私を見つめた。その混線に■は、明
らかに「田舎者め!」といふ皮肉な冷笑が浮んでゐた。じつさい田舎者であり東京に出たばかりの私は、ヘツ
としで急にそこを立去つた。
dd彗d、J∃
 これが私の始めてラヂオを聞いた時の印象である。尤もその前から、非常な好奇心をもつて「まだ知らぬヲ
                                カ フ ェ
ヂオ」にあこがれてゐた。一度などは、洩草の何とかいふ劫排店にラヂオがあるといふので、わざわざ詩人の
多田不二君と鵜きに行つた。前の南天堂の二階へも、ラヂオをきく目的で紅茶をのみに行つた。しかし運悪く
どこでも機械が壊れてゐたり、時間がはづれたりして、いつも姦しく辟つてきた。
 いつたい僕は、好奇心の非常に強い男である。何でも新しいもの、珍しいものが餞明されたときくと、どう
しても見開せずには居られない性分だ。だから磯饗活動馬眞とか、立饅活動馬眞などといふものがやつてくる
と、いちばん先に見物に行く。ジャヅバンドの楽隊なども、文壇でいちばん先にかつぎ出したのは僕だらう。
今の詩壇でも、たいていの新しい様式を暗示する先駆者は僕であり、それが新人の間で色々に磯展して行く。
 話が飴事に亙つたが、この新奇好き、態明好きの性分は、室生犀星君などと反対である。だから僕が、まだ
発かぬラヂオに夢中になつて駄いでる時、室生君がやつて来ては、よく頭ごなしに嘲笑した。室生君の説によ
ると、ラヂオなんか俗物の塘くものださうである。さうした彼のラヂオ嫌ひも、一には彼の新奇嫌ひ − その
性分は、支那古陶器などに対する彼の骨董癖と封照される。 によるのであらう。その後ラヂオの放迭で、
久米正雄氏等の文蛮講座を拝鵜したが、久米氏もやはり、かうした文明的新事物は厭ひなさうである。して見
ると小説家といふものは、どつか皆共通の趣味をもつてるやうに思はれる。1、どいふやうなことが、いつか頭の
隅で漠然と感じられた。つまり新奇なものは、美として不完全であるからだ。
さて箕際にラヂオを聴いてから、僕は大に幻滅を感じてしまつた。「こはれた琴音域!」これがラヂオの第
一印象であつた。しかるにその後、親戚の義兄に首る人が来て、僕の家庭のために手製のラヂオを造つてくれ
2β夕 随筆

た0これはラッパで塘くのでなく、受講機を耳に嘗てて蒋くのである。見た所では、板ぺつこに木片をくつつ
けたやうなものであるがこれで塘くと貨によくきこえる0不愉快な彗日も殆んどなく、まづ賓の肉馨に近い感
じをあたへる0これならばラヂオも仲々善いものだ0前に惑い印象を受けたのは、境饗磯のラッパで添いた為
であることが、ここに於て始めてわかつた0それ以来、往来に立つて弾いてゐる人を見ると、何だか憐れに思
へてならない。ラヂオは受講撥で聴くに限るやづだ。

僕がラヂオを歓迎するのは、しかレ単なる好奇心ばかりでなく、他に重大な理由があるからだ。元来僕は、
美的教養のない人間であるために、趣味といふものを殆んど持たない0美術は全く鰐らず、芝居も厭ひだし、
寄席は命イヤだし、活動馬眞といふものも、本官には面白いと思つてゐない。ただ僕の好きなものは、竺の
音楽あるばかりだ0それも義太夫や端歌の如き、日本音楽はさらに解らず、ただ西洋音楽が好きなだけだ。こ
れも「解る」といふ方でなく、気質的に「好き」といふだけである○それで僕の生活的慰楽は、時々諸方の音
楽合に出かける行事であるが、この音楽の演奏合といふ奴が、賓にまた不愉快な気分のものである。演奏合に
於ける、あの表特別の客気、妙に厳粛になつて、悪がたく神経質になつてる蒋衆。へんに尊大ぶり、季術家
ぶつた演奏者○開演中の息づまるやうな客気! とても不愉快だ0そして静りもしないくせに1香鮮らない
故に−やたらむやみに喝宋する0いつたい此等の聴衆共は、音楽を味ひにやつてくるのか、音楽禽の気分を
味ひにくるのか0思ふに大部分は後者だらう0彼等にとつては、あの嚢術的厳粛味の気分1今や我等は、世
界的名手にょつて奏されるべトーペンの偉大なる奉術に接しっつあるといふ顆の気分。1が、この上もなく
襲高で好いのであらうが、僕にはそれが厭やでたまらぬ。
 音楽の蓼術的意義は何であらうか○僕にはむつかしいことはわからないが、とにかく、僕等が音架をきく目
2ク0
的は、美しい旋律や和聾からして、快よい陶酔と胱惚とを求めるのだ。決して「蓼衝的威樺の菊分」を味ふた
めではない。然るに書架合情調といふ奴は、貰に拳術の虚空局的厳粛性を漂はしで、菊分的に強制してくるのだ0
その為に僕等は悪くかたくなり、へんに重苦しい気分となつてしまつて、少し皇日欒的陶酔の快よい境地に浸
れない。これは日本の鵜衆が、異に「好き」から音楽合に行くのでなく、一種の妙な肇術的意識で、或は文化
的虚柴心で、七むづかしい気分を持つて行くからだ。そしてこの悪風潮は、上野音楽学校などの官僚趣味が、
∵方で少なからず養成したものだ。
 人々は音楽に封して、もつと発なフリーの見鮮をもつて好いのだ。日本で眞に音楽の解つてゐる人々は、あ
の演奏合に集まるハイカラの青年や淑女でなく、賓は市井でハーモニカを吹いてる商店の小借たちである0日
本における西洋音楽の健全な将来は、あの小偲たちの成長した未来にある。もしくは浅草のオペラにあつまる
民衆の中にある。彼等だけが、本官に音楽をエンジョイし、音楽の本質を完全に知つてゐるのだ。文化主義的
音楽愛好家などは、時代のキザな流行熱で鹿鳴館時代のハイカラの如く、何の根砥もありはしない○
 話が理窟つぽくなつてきたが、とにかくさういふわけで、私は音楽曾の気分が厭ひなため、性来音楽好きで
ぁりながら、演奏合に行くことは稀れにしかない。音楽がもつと欒に、フリーなゆつたりとした気持ちで海け
たら、どんなに好いだらうと思ふ。だから私打大好きなのは、日比谷公園における公衆音楽合である0あれだ
けは窮屈な杢菊がなく、資に民衆的で気持ちがょくきける。そこでラヂオの土とを考へたとき、こいつは好い
なと思つた。ラヂオの放琴音楽なら、イヤな演奏合に行く要もなく、家にゐて寝ころび乍ら海いてられる0演
奏中に酒を飲まうと煙草を吸はうと随意である。もし事情が許されるならば、女を抱き乍らショパンのアンプ
ロンプチユを聴くご丁とも自由である。さすがにこれでこそ、ラヂオは文明の利器である0この鮎だけでも、ラ
ヂオがどれほど民衆に悦ばれてゐるか知れない。
2タノ 随筆

受講機を用ゐるラヂオの不便は、放迭の始まる時刻が、外部からわからないことである。もちろん新開で時
間は漁合されてゐるが、轡昔時計に気をつけてゐるわけに行かないから、一寸油断してゐるまに時間がすぎ
て、聞かうと思ふ講演が経つて居たり、音楽が曲の中途から琴乙たりする。これはどうも不都合である。何力
旨い仕かけで、放迭開始と共に合圏のべ〜でも鳴るやうに出来ないだらうか↑電波の振動を利用して、ベル
を自動的に鳴らすといふ工夫は、素人考へでは何だか容易に思はれるが、未だ簡明されない所を見るとむづか
しい困難な事情があるのだらう。

 放迭曲目についても所感があるが、紙数がないから止めにする。
2夕2