アツシヤー家の末裔を観る
 元来言つて、僕は文奉映董といふものが嫌ひである。その嫌ひの程度は、畢に文肇映董といふ標題を開くだ
けで、始から見る気がしないほど大嫌ひであるが、今度中央映真紅で試馬の案内を受けた「アツシヤー家の汲
落」だけは、珍らしく非常な好奇心と期待によつて、是非見たいといふ気になつた。その理由は、他の文蜃作
品とちがひ、象徴怪奇の詩的情趣に充ちたポオの作品が、映董としてどれだけの成功をするかといふことの好
奇心と、ノにはある人の紹介から、今度の映童が従来の型を破つたところの、}の新しい試みによる創逸であ
り、従来の文蜃映董と全くちがつた表現であることを聞いたからだ。
 第一に解つたのは、ストリーの仕組み方が、従来の文蛮映董とちがつてることであつた。普通の所謂文奉映
董では、原作の筋を忠賓に迫つて行く仕方であるが、この作はそれとちがつて、ポオの主要な作品から、いく
つかの重要な主題を選んで、別に映重としての一貫したストリーを作り出してゐるのである。
 僕の見るところで、この映童には、ポオの三つの短篇小説1「アツシヤー家の温落」「楕固形の肯像」
「早すぎる埋葬」1を取り入れてる。丁寧に説明すると、アツシヤー家の漫落を大膿の外廓上して、′内容に
は楕固形の肯像を入れ、さらに早通ぎる埋葬を構囲として、一の映量的なストリーを構成してゐる。しかも此
等の作品の綜合的統一から、一貫してょくポオの蜃術的精神を映し出して居るところに、この映真の新しい試
みが感じられた。
 かうしたストリーの綜合的構成法は、一般に文奉作品の映董化として、非常に意義のある試みである。なぜ
なら活動馬眞の拳術的創造性は、原作の「筋」を馬眞して見せるのでなく、原作のもつ文肇的の高い香気や、
それの気分、色合、味覚等の、作品の内的生命たる「精神」を表出するところにのみ、映童垂術としての柄辞
意義をもつ筈だから。特にまた就中、ポオの文畢の如く純粋に象徴的で、小説といふぺきよりも、むしろ内容
的に詩といふべき種類の文学では、この仕方が一層に適切である。→曾右打由翻詳の仕方以外に、ボオを映董
化することは絶望だらう。
 そこでこの馬眞を見てから、僕は「詩」を映董化することの可能性を考へた。もしこの仕方で行つたら、僕
の「青猫」や「月に吠える」の叙情詩を、一篇の映董的ストリーに仕組んで製作することも困難ではない。現
に僕自身、今さうした自作のシナリオを考へてゐる。
2∫∫ 随筆

 馬眞の展開は、アツシヰー家の漫落から姶つてゐる。僕が最も心配したのは、原作の主題をしてゐるあの荒
蓼たる河津地方の風物を、ロケーションに於てどれだけ救果的にカ■メラすることかといふ鮎だつた。「雪が押
しかかるやうに茎に低くかかつた、物憂い、暗い、そして静まり返つた秋の日の終日、私は馬に乗つてただ一
人、不思議なほどうら寂しい地方を通つて行つた。そして夕暮の影が迫つて来た頃、到頭、憂鬱なアツシヤー
家の見える所へやつて来た。」といふ原作の書き出しこそ、貴にポオの詩的精紳を一貫する主題であるから、
さうした自然の風物や漂泊した旗人の心持ちが、カメラを通して気分的に充分表現されてゐない限り、始から
ポオの 「詩」は郁辞されてゐないのである。
 それ故に僕は、第一にこの自然描馬を心配したが、この鮎では先づ相常に  僕を失望させないだけの1
成功をしてゐるやうに感じられた。すくなくとも酒澤地方の寂しい気分と、陰鬱な自然の印象だけは、相官忠
賓に馬されてゐた。しかし人物の鮎では、少しく不満足の感がないでもなかつた。原作にある「私は馬に乗つ
てただ一人、不思議なほどうら寂しい地方を通つて行つた。」といふ旗人の漂泊した孤濁の気分が、どこか少
しく食ひ足らず、その鮎で不満だつたが、これは原作の馬を馬車に換へた篤かも知れない。しかしこの種の憂
鬱で斎條とした気分を出すことでは、チヤツプリンの映董がいつも理想的の成功をしてゐるので、チヤツプリ
ンとの比較に於て、僕には多少不満であつた。
(ついでながら言つておくが、映義人としてのチヤツプリンは、本質に於てポオの精神と極めてょく類似した
ものを有してゐる。すくなくとも或る一面で、ポオの詩的情想を共通する映董人は、チヤツプリンの外に居な
いだらう。)
2j古
 訪問者がアツシヤー家に到着し、慶をノックするあたりからして、馬眞は著るしく退屈なものにたづてしま
った。退屈といふわけは、ポオの主題的気分を捕へる上で、不充分のものが著るしく感じられたからだ。あの
際ド、、、ノを放べてる五六人の人物などは、不必要以上に有害であり、何のために出したのか解らない。なぜあ
               ヽ ヽ ヽ
の所で、人気のないがらんとした廃家の気分を映さなかつたのか?
 そこから馬眞のストリーは、すぐ楕固形の肯像に移つて来るが、この遽は少しく平凡なレアリズムで、僕に
はいささか不満足だつ母正直に言ふと、この遽の前年を見てゐる間、僕は「それほどの者でもなかつた」と
いふ失望感を、ギフ針押へることができなかつた0もちろん文蜃映責として、可成高級な部には入るぺきだが、
それにしても「プラーグの大畢生」や「カリガリ博士」に此し、それほど驚異的に優つたものLは思はない0
先づその程度で許償さるぺき作品であり、一般の此準で「高級」と言はれる程度の、有りふれた篤農として印
象された。
                                ヽ ヽ ヽ ヽ
 所が後年に移つてから、急に董面が緊張し、すつかり見ちがへるほどの魅力を持つて迫つて来た。この映董
の後学で、ストリーは「早すぎる埋葬」に移つて来るが、女が死んで墓場に葬られるあたりから、ボオの文寧
                                            きやうかたぴら
に本質してゐる、あの神秘幻怪な情趣が著るしく高調して爽る。墓地に燃える燐光! 白い経推子I・自然に
                                   ヽ ヽ ヽ ヽ             ひひらぎ
動き出す棺桶! 卒塔婆の上の鬼火! 窓に添える死姦の呼饗! べらぺらと燃える地獄の鬼火! 柊の上を
飛ぶ人魂! など、さながらサバトの夜宴を思はすやうで、懐惨怪奇を極めて居る。さすがに僕も慄然として
恐ろしいものを、幾度か感ぜずに居られなかつた。特に最後の場面で、墓凄から復活してくる死塵の女が、次
第にアツシヤー館に近づいて来るところなど、神経質の観客には一寸耐へられないほど気味が惑い。そして墓
場のぺらべらとする鬼火の煩で、家も人も青白く焼かれるあたりは、たしかに従来の映真には無いところの、
2∫ア 随筆

珍らしく強調した効果を出してる。
 僕はずつと以前からして、日本の「牡丹燈籠」を一度シナリオに書かうと思つて居たが、この映童を見て一
層創作の意志を強められた。なぜならあの怪談の強い効果部分である駒下駄の音1死壷の女が夜遅く遠い道
   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
を、からりころりと下駄音させつつ、次第に男の家に近づいて来る。 の映董的表現なども、今度の新しい
映真に於て、完成に表出されてることを知つたからだ。すくなくとも僕は、創作「牡丹燈籠」を映董北し得る
可能性を見た。


                                                           ヽ ヽ ヽ ヽ
 カメラの上でのテクニックとしては、僕のやうな門外漢には解らないが、一つだけはつきりと感じたことは、
全篇に亙つて「音」を非常によく措いてることだ。例へば董家の青年がギターを弾くところで、不思議なほど
その音楽がょく聴えてくる。僕の見たのは中央映真紅の試馬窒だから、もとより伴奏の音楽など一切なく、全
然無音の廻樽であつたにかかはらず、どこか映蓋の幕の中で、静かなギターが奏楽してゐるやうにさへ感じら
れた。
 それから物の倒れる音。気味の悪い衣ずれの音。棺桶に釘を打ち込む音など、不思議によく耳に塘>見る。特
に死んだ女が、毎夜毎夜墓場の中から、自分の生きてることを呼びかけてる、それが遠くからアツシヤー家の
窓に準えるあたりや、前に述ぺた幽塞の足音など、音響を映董に表はすテクニザクとして、驚嘆すぺく成功し
た試みだらう。アツシヤー館の杢家の中で、柱時計の振子が動き、それが物悲しく恐ろしげに鳴つてる音など
も、特に効果的のものであつた。(僕は最近「時計」と題する詩を作つたが、それが丁度偶然にも、この映董
にょづて表出されたものであり、同工同趣の精神だつた。)
ヱ,β
 要するにこの悌蘭西映毒は、僕にとつて可成印象の強いものだつた。何よりも自分は、かうした象徴虜の詩
的文挙が、映養として製作されたことに絶大の興味を感ずる。もちろんこの映董は、理想的には多くの妖陥を
有するだらう。しかしすくなくともこの馬眞は、かかる詩的文孝をかかる程度にまで、神官成功して映董化し
得るといふことの、一の新しき可能性をエポックさせた。そしてこの鮎から、僕は特別に大きな希望と興味を
得た。なぜならその示された可能性から、従来全く絶望してゐた「詩の映董化」を、殆んど現賓に為し得ぺき
希望を得たから。
 最後に僕は、この新しき映童の試みをしたところの、この勇気ある映董界の拳術家に、深く讃鮮と感謝とを
俸へたい。そして伺、冒険を賭して之れを日本に輸入したところの、中央映董牡の蜃術的誠意に向つて敬意を
表する。我々の眼は、絶えず「書きもの」「新しきもの」に向つてのみ、饅育を求めねばならないのである。