象徴の本質
前項で象徴のことを述べたから、序でに象徴の本質を一言しょう0けだし日本の詩壇では、早くから象徴詩
2J詩論と感想

の語が輸入されたにかかはらず音それに関する眞の慧がなく、皮相な↓すぺりの鰐説のみが行はれた為、
ひいてこの語の本質を全く誤り、遂には表麓鰹なる特挽の詩などを、詩壇的に象徴詩などと呼ぶやうにな
つてしまつた0最量だしき謬見に至つては、高踏汲などのクラシックの詩風さへも、議に象徴汲と呼ぶ人
がある○何たる馬鹿麓しい謬見だらう○我が詩壇に於て「象徴」の語が誤られて居ること、茸に久しいと言
ふぺきである。
思ふに我が詩壇に於て、かく象徴の語が備見されてゐるのは、最初にそれを輸入した詩慧、百日的西洋崇
拝の詩壇であつて、かの囲におけるマラ〜メやイエーツの象徴詩論を、そのまま直詳的に誓あげた結果であ
る0成程象徴(シムボル)といふ言葉は、昔の日本には無かつたからして、それが西洋人の敏明であることも、
したがつてその直詳が合理的であるぺきことも考へられる0しかしながら反省せょ0元来欧洲における近代の
象徴主義は、東洋完の間接な影響から、新しく刺激された彼等の新観念に廃することを。
そもそも象徴といふ語の廣い観念は、説明と封照される嘉である0十字架がキリス左の象徴であるとい
ふわけは、それが説明にょらずして表象に訴へるからである○自分は前の項に於て、比喩と象徴とを直別して
説いたけれn、象徴といふ語のずつと表的な意味に於ては、もちろん比喩も慧も廣義の象徴に属してゐ
る0ただその中に、純と不純との程度があるから、純粋象徴に苧るものを特に言ふ署に、之れを比喩羞
意と直別して考へるのである。
所で西洋のあらゆる文筆蓼術は、本質的に説明主義のものであつて、純の象徴に属するものは殆んどすく
ない0説明とは、事物や観念を部分に分析して之れを概念上に配別する方法である0即ち科挙はそれの代表的
なものであつて、之れが賓に西洋文明の本質を象徴してゐる0智寧と稗するものが、また同様にさうであつて、
失張科挙と同じく概念を抽象上に分列系統する。
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   「
 ここで所謂哲学のことを妄口しておかう。けだし彼等は自ら構してそれを形而上撃と稀してゐるから0然る
に眞の形而上学といふべきものが、果して西洋にあるだらうか。西洋のあらゆる思想は始めから相対主義の立
場に立つてゐる。もし絶対主義の見地に立てば、一切概念を超越した色即是杢の思想に達し、或は不立文字の
滞畢的直観主義になつてくるから、始めから科挙も哲学も生じな・い0或は印度における如く一種の曹畢はある
にしても、その哲畢は直感による冥想で、西洋の如く専ら概念の抽象的分析を試みる所謂哲学とは別物である0
 かくして西洋の所謂哲拳は、最初から相封主義の見地に立つて概念のみを取り扱つてゐる0然るに概念的で
ぁる限りには、物それ自身の本有する形而上的精神に俄れないのは官然である0何となれば資有は如封の概念
でなく、概念を超越した紹封のせ界に属するから。故に眞の意味でのメタフイヂツタ(形而上阜)と言ふぺき
ものは、ただ東洋にのみ存在するのである。西洋の所謂形而上学は、その賓一種の概念分析寧であり、官然廣
義の科挙に属するものに外ならない。
 かくの如く、西洋文明は科挙と哲学に立脚してゐる。あらゆる精神の根接は概念であり、その自然観人生観
の基調をなすものは相対主義である。したがつて彼等の情操生活を表現する奉術も、官然また相封的説明主義
の傾向を帯びざるを得なけだらう○果して見よ0彼等の檜董がいかに入念にデテールを描き、いかに焉質的の
説明主義であるかを。之れが我々の東洋と、いかに本質的にちがつて居るだらう0我々の支那や日本では、祓
覚に映した物象の「形」を描馬しないで、感覚以上の茸在する物の精神、即ちその物の特質たる強みや、厚み
ゃ、直情性や、艶めかしさや、さらにまた進んでは自然の中におけるそれの気品とか、寂しさとか、飴情とか
といふ深いものまで摘出する。だから我々の檜董における物象−竹とか、虎とか、風景とか!は、その馬
眞的デテールの形象描馬で、到底西洋の油檜に及ばないが、その事物が有する形而上の精神を把捉して、よく
竹の本質たる剛直性、虎の本質たる勇猛性を表現すe鮎で、逢かに説明的の洋室にまさつてゐる0けだし東洋
ガ 詩論と感想

童に於ては、線は形の描馬に用ゐないで、物の著する特質を現はすぺく、専ら筆致の柔強等に重きをおくか
らである0つまり言へば、彼が形象の説明にょつて現はす所を、我は線の感鱗にょつて象徴的に描出する。
濁り檜董ばかりでなく、他のあらゆる拳術が皆同様である○たとへば劇がまたさ>aである0西洋の劇は徹頭
徹尾葺的で、人生の生活様式をその硯費や萱に映ずる通りに全く形象的に説明して演出する。然るに是
の能楽や歌舞伎劇は、かかる婁的な形を演出しないで、それの本質に著する雰や情感を直接に象徴する。
けだし西洋人の蕎観は、すぺてが皆感雲義である○彼等はその硯費や、萱や、笠にふれる所の、すぺ
ての外在的事物をその感覚のままに摘出する0したがつてそれは形の↓で霊にょく似てくる。しか豊の眞
は単なる感覚である0皮相な末梢神経に映る形象の眞である0之れに反して東洋人は、事物を豊的に見ずし
て精神的に見る0即ち所謂「眼で見ないで心で見る」態度を持し、形を慧して内部的に賃在する眞の本質
−形以上のもの、形而↓のもの−を直感する○彼の感彗義に封して、我は即ち精彗義であり、彼の説
明的なるに封して、我は即ち象徴的である。
詩に於ても、この董はまた同様である○ホーメルの叙事詩以来、西洋の所謂「詩」といふものが、いかに
くどくど左入りに説明する責的の文寧であることぞ0叙事詩はこの箸別としても、叙情詩が矢張同様に
表の小説である0古代西洋の詩といふものは、我々日本人の所謂小説や俸記であつて、東洋的意味忘詩と
いふ嘉に邁應しない文畢である0篭に至つて、漸く始めて出来たパイロンや1三ソンの短篇詩と警、何
我芸眼から見れば表の短篇小説であり、詩といふぺくあまりに記述的、説明的の毒で告すぎる。西洋
の詩がいくぶん始めてその説明誓脱したのは、最苧九世紀末葉に例の象徴詩が起つて以来のことである。
 所がこの俳蘭西の象徴詩といふ奴が、我芸本人の眼からみれば貨に生ぬるい似而非象徴で、全くはむしろ
比喩や慧の程度にしか属して居ない○特にマラルメ諒の象徴なるものは、嘉の陰影とか嘉とかいふ観
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苛   「
念を、特に意識的に詩の中に織り込んでゐるのであつて、眞の「象徴そのもの」ではなく、むしろ概念された
る「象徴の詩畢」である。即ち象徴そのものの茸在に入つてゐるのではなく、之れを外部から認識して相射的
に説明してゐるのである。象徴を栴へながら、しかも尚且つ彼等はその象徴を概念してゐる○西洋人は遂にど
こまで行つても西洋人なる哉だ。かく要するに、彼等の象徴詩及び象徴主義なるものは、一の不徹底にして曖
昧なる観念にすぎなかつた。けだし昔時に於て、始めて態見されたこの東洋的メタフイすヵルの新観念は、彼
等にまで宗祖棒されたる新しき拳術の世界を示したもので、それ自身が極めてセンセーショナルなる「物珍
らしきもの」に属してゐた。したがつてそれは、充分に本鰭の解明されたものでなく、むしろ曙光的な輪廓の
みが、おぼろげに暗示草れたものであつた。之れ象徴といふ語が、昔時の意味に於て何等か神秘的な、宿命的
な、或る東洋的妖怪然たる魔法のメスメリズム的鬼気を帯びて居たことによつても明らかだ0(象徴といふ語
が、今日でもしばしば神秘的意味の聯想を伴ふのは、貰にかうした言語的起原に原因する0勿論その本鰹が解
明してゐる今日では、何の神秘でもユリキシイルでもありはしない0この語感に伴ふ神秘性は、既に眈に滑滅
させて好いのである。)
欧洲の象徴主義が、異にその観念を明らかに解明し、したがつて眞の意味での象徴文拳を生じたのは、全く
これょり後、漸く昨今に至つてのことである。即ち最近詩壇の印象汲、未来汲、立膿汲、表現汲等の拳衝こそ、
賓に象徴主義の解明された本質に立脚するもので、此所に始めて欧洲にも、東洋と一味相通ずる近代汲の叙情
詩が生れてきた。特に猫逸表現汲の立脚地は、欧洲における最も解明された象徴主義を代表してゐる0彼等は
言ふ。
「表現汲は一つの美的な言葉も無用な文句皇口はない0どうしても必要なことだけを、できるだけ緊縮して言
ふのである。一つの言葉は、他の言葉の中にその根澄もつてる0言葉はそれ自身としては存在せずに、それが
エ,詩論と感想

召使ひとなつてる所の、言葉の観念のためである0=…・表現汲は、できることなら、全く言葉なしで表現した
いのである0」(イブン・ゴル。谷京作氏詳)
この表現汲の楕紳こそ、それ自ら象徴主義の根本美讐語るもので、同時にまた是詩歌の表現哲学を代拝
してゐる0賓に我が国の和歌や俳句の立つ所は、一の無用な言語も言はず、忘粉飾的な兼併も用ゐず、あら
ゆる心象の賓有性を直ちにつかんで、表現の最高度における緊縮を主とするのである。しかし之れに就いては、
伶後の睾に詳説しょう0とにかく象徴主義の本質が、東洋的拳術の根攣る特色にあること、したがつて表現
汲を始め、印象汲、立漂、未来汲等、西洋近代のあらゆる詩風が、本質的に我々のものと接誓つつある事
貰を明示し得るのである。
此所で欧洲十九世紀詩壇の所謂「象徴汲」と、廣義の象徴詩たる近代詩ハ印象汲、表現汲、未来汲)との、
根本的な特色が直別されたことと思ふ0十九世紀詩壇の所謂象徴詩とは、前に言ふ如くシムポリズムの物珍ら
しき曙光期に出たもので、したがつてその詩風の特色には、象徴といふ言語における不可思議な魔術的鬼気、
即ち神秘性や、暗示性や、幽壷性や、東洋的宿命性やが、殆んどその著るしい特色となつてゐるのである。之
れに反して、その後に饅展した開明後の象徴詩(即ち表近代詩)は、象徴主義の根操に立つて居ながら、象
徴の語の起床にまつはるかかる神秘感を持つて居ない。
 故に詩壇の所謂「象徴詩」と、賓の「象徴主義の詩」とは、判然と之れを差別して考へなければならない。
所謂象徴詩とは、象徴の語における起床的語感を考へる場合のみ、正しきその語意を判断され得る。即ちそれ
は、或る特殊な意味における、特殊な狭い内容の象徴詩である0したがつてこの意味での象徴詩は、この時代
的詩汲に属するものであつて、今品に欧洲では過去に属するものとなつてる0しかもこの詩汲にょつて暗示
され、後に漸く本鰻を鮮明してきた象徴主義、及びその主義による一切の拳衝は、その各の詩汲的特色を別と

して、根本上には普遍恒久の精神に立つものである。
 要するに欧洲詩壇の所謂「象徴詩」と「象徴主義そのもの」とは別である。前者は特殊な一詩汲の一詩夙に
属するもので、後者は一般のあらゆる近代蜃術に共通する哲寧である。(日本詩壇で言はれた所謂象徴詩は、
之れまた欧洲詩壇のそれと大いに趣きを異にしてゐる。日本詩壇の意味した象徴詩は、海念上にマラルメ等の
説を直詳に紹介したが、賓の奉衝的作品の上からは、殆んど多くは象徴詩の名に償しない別のものであつ七。)
 かく西洋の季術が、い近来始めて象徴主義の新表現を知つた結果、次第にそれが我々のものに近づいてくると
は言へ、伶矢張西洋人らしい感覚主義がつきまとつて、賓には未だ遠く眞のメタフイヂツタに入つて居ない。
たとへば例の立膿詩など言ふも、その立饅なる言語の解繹が全く視覚上のものであつて、資の本質的なる立鰹
の精神をつかんでゐない。即ち詩語をビラミツド的形態などに配列して、皮相な視覚上からそれを立饅と思つ
てゐる。その稚気、その子供らしさ、むしろ我々に取つて無邪気な笑殺に償する。畢責西洋人は感覚以上のせ
界に入ることができないからである。
 しかしながらとにかくにも、最近西洋のあらゆる文化が、著るしく東洋化して来つつあることは事賓である。
濁り詩ばかりでなく、美術、音楽、哲畢等の一切が、東洋的メタフイヂカルの精紳に接近し、したがつて甚だ
しく象徴主義になつて来た。例へば檜童の如きも、日本の浮世檜の影響からして、例の後期印象汲が生れてき
た。この美術における後期印象汲は、丁度詩における象徴詩の連動と一対すべきものであつて、欧洲肇術にお
ける近代精神 即ち象徴主義1の新しき精神を始めて展開したものである。即ちたとへば、ゴーホは自然
を描出するに視覚上の形象説明を用ゐないで、太陽の熱に燃える線の感じなどから、感覚以上の本有する自然
の内奥精神を現はしてゐる。セザンメがまた同様であり、物象の輪廓する形や色を馬生しないで、物それ自膿
が特有する内在本質、即ちそれの厚み、深み、硬さ、柔らかさ等を直接に掴み出してる。そして此等のやり方
2ア 詩論と感想

が、すぺて支那董や日本董の固有な表現精神であること言ふ迄もない。
かくして、今や次第に世界全健が象徴主義の文化にならうとしてゐる。
以上述ぺた所にょつて、所謂「象徴」といふ語の本慧明らかになつたであらう0即ちそれは相封主義に封
する絶封主義に根接してゐる○したがつてまた形彗義に封する形而主義、概念に封する直感、婁に封す
る精神、説明に封する暗示を指してゐる0故に要するに東洋の文化や奉術は、西洋のそれに比してすぺて皆象
徴である0そしてまたその中でも、能楽は歌舞伎に比してょり扁象徴的、墨檜や商量は浮世檜に比して特に
純象徴的であることも解るであらうJ
最後に、象徴に関する最も根本的な、しかも最豊遍的に行はれてる世の謬見を啓蒙して、この観念の本質
を徹底的に明らかにしておかう0けだし世の多くの人は、象徴について次のやうな考へを抱いてゐる。日く、
象徴とは物の音響描く代りに、それの影を以て代表させる手段であると0即ち毒の代りに符誓用ゐて現
はすのが象徴だと0かうした皮相の萱が、今日一般的に普遍してゐるのは、むしろ驚くぺき董である。も
し果してそれが象徴ならば、所謂象徴とは毒なき幽霊術、物を描かずしてそれの影を描く隊陣肇術の謂で
ある0そして翌つ象徴とは、賓敷の撃閧ノ符誓用ゐる代数であり、それ自ら純粋に抽象的な概念に苧る
だらう○しかも我が圃の能楽や芭蕉の俳句1人蒜それを象徴の代表と見てゐるちが、果してそん濱敷
的な幽霹香術であるだらうか?
 かうした思想の根抵には、思ふに忘基調的な誤謬がある0即ちこの誓での「賓撃といふ観念が、そも
そも始めからちがつてゐるのだ0此所で彼等の指してる叢とは、物が五官に感写る所の、その嘉神経的
なる現象界を意味する0たとへば眼に映るままの器物の形、手に濁るるままの存在、それが即ち彼等の所謂賓
膿なのだ0しかもそれが果し妄慣だらうか↑もし霞とするならば、そは単なる感覚的な毒1現象的

≒  「
事物 にすぎぬ。なぜならば器物の眞の本有性は、かかる皮相の形や色になくして、それの内部に賓在する
眞の性質−感覚ではなく、心眼に映ずる器物の特色、たとへばセザンヌの檜がそれを示して居る にある
からだ。眞の意味での「質饅」とは、賓にかうした物の形而上的本質に存するのだ0
 然るに象徴主義の目的は、物の皮相な形象や事物を捨てて、直ちにそれの費有する形而上的本膿をつかむの
だから、それ自ら眞の虐味での「箕膿を描く」のである0「資膿を描かずして影を描く」のは、賓には却つて
説明主義の奉術である。何となれば彼等は、事物の内在的本性を見ることなくして、畢に馬眞器のレンズに映
じたままの事物の形象 影の影 のみを描くから0象徴を以て「物の影を描く腹膜奉術」「質物の代りに
符貌を用ゐる代数奉衝」とする考へほど、思想の根本に於て誤つた見解はない0
 しかしかうした見解が生ずる所由は、所詮「茸撃といふ観念の立て方によるのである0吾人は紹封主義の
見地に立つて、形而上的本質を宇宙の眞理と認める故に、しぜん貨饅は象徴の側に属する0然るにもし相封主
義の立場に立つて、物質世界の感覚的現象を眞理とすれば、反封に「賓膿」は形而下の物に属し、したがつて
象徴はそれの影となつてくる0故に始めから相対主義の哲学に立ち、唯物的概念によつて思想する西洋人が、
象徴を解して「貨膿の影を描くもの」と見たのは首然である0音に彼等は、始めから非象徴主義の立場に立つ
て、象徴の概念を考へてゐるのだ。故にその思考は、いかにしても象徴の眞核に徹底せず、進めば進むほど誤
つてくる。
前に述べた腺腱美挙の象徴詩人 彼等は象徴の特色を膜騰にありと解してゐる が、かうした誤つた西
洋人の象徴観から出たものであることは、此所に至つて全く明瞭になつたであらう○この膜腱詩汲の根砥には、
象徴が「賓膿を描かずしてその影を描ヱといふ先入見が根を張つてゐる0所が眞の象徴詩人たる芭蕉等は、
常に如何にして物の茸慣を把へょうかといふ観念で動いてゐた○妄では、強ひて物の影を描かうとして苦心
2夕 詩論と感想

し、妄では物の確雲霞を捕へょと弟子に教へてゐる0いかに不思議にして奇妙なコントラストだらう。
けだし西洋象徴汲では、始めから「叢」の慧を感覚的事物に置いてるから、毒を避けて影を見よといふ
意味が、賓は芭蕉の敦へる「叢をつかめ」といふ形而1的意味になるのである0以ていかに西洋の所謂象徴
的なるものが、本質的精神に於完象徴主義的であるかが鰐るであらう0彼等は始めから象徴を以て幽霊な
虚数と見て居る0なぜならば、それは賃膿でなくして影であるから。
かうした西洋人の象徴観が、我々にとつて全く不徹彗馬鹿麓しいものであることは言ふ迄もない。しか
もベルグソンの如き筆者ですら、彼自身が眞のメタフイヂツタを説く管掌、即ち言はば象徴主義の葦で
あるにかかはらず、その著に於て象徴の語をひどく排斥してゐる0何となれば象徴は事物の陰影であり、叢
でなくして虚数であり、叢でなくして符彗あるからと言ふのである0之れにょつてベルグソンは、象徴の
語をそれの丁度正反対の意味、即ち「概念」や「抽象」と同じに使つてゐる0けだし象徴を蓑の符誓考へ
る以上には、必然的にそれは概念と同じ意味の言葉になる0そしてベルグソンのかうした鮮繹は、もちろん俳
蘭西の象徴詩から得たものだらう0なぜならばその汲の詩論は、象徴を以て↓述の意味に併してゐるから。吾
人は彼芸洋人の象徴観を笑殺し、さうした蓼術の麓馬鹿しさを痛感する○しか為毒それにもまして
麓麓しく笑殺すぺきは、この不徹底にして不可思議なる西洋詩壇の象徴評論を毒して、それを藁の如
く我々の頭上に戴かうとした、前代日本詩壇の所謂象徴汲詩人である。
 象徴と言ふ語の眞の本質的解説は、之れょり外に断じて有り得ない○かの象徴を麓と警る如き見鰐の、
いかに浸薄皮相な覚であるかは言ふまでもないであらう0けだしかくの如き偶見の生じた所由は、常時の蕾
式なるハルトマンあたりの美挙や、常時欧洲に流行した一汲の麓哲畢1実は麓の中にありと説く1に
影響され、之れを優生期の不徹底な象徴思想と混同した結果に外ならぬ。
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…習「
 今や我が詩壇は、眞の象徴の観念を固く把持して、過去の謬見されたる幽盛概念を廃除しなければならない
だらう。けだし眞の象徴は、それ自ら肇術の根援する本質であり、特にまた我々の立つぺき民族的根捷でなけ
ればならぬ。貰に象徴主義の精神を離れて近代詩の特色はなく、就中特に日本の詩の特色はないのである。伶
次睾に於て、日本詩歌の象徴的特質を一言しょう。