新世界からの感情
騒々しい音楽・馬鹿馬鹿しい滑稽・陽気な唄・綺麗な娘・花
やかな舞茎・爆饅・でたらめ・悪ふざけ・騒々しい音楽
これは一昨年東京にきたバンドマン一座の廣告ビラである。何といふ愉快な文句だらう。
これを讃んだとき、
僕は世界がひつくりかへるやうな気がした。まるで見官のちがつたところから、ふいに華南のやつが飛び出し
てきて横ずつぽをなぐつたやうな菊がした。
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その時からして、世界がすつかり陽気になつてしまつた。でたらめ! 悪ふざけ! 騒々しい音欒! 何た
る鮮新な感情だらう。その感情こそは、膏世界のあらゆる奉衝、あらゆる文明に射する破壊を意味し/−ゐる。
あの自由で、乱暴で、青春の血気にみちたヤンキイの新文明がこれだ。初夏のさはやかな風のやうに、傍らの
精神をフレッシュにするもの、ふしぎな新世界からのょろこぴが感じられる。
ジャツヅ・バンドの音楽が丁度これだ。あいつを聴いてゐるとたまらない。愉快といふぺきか、不思議とい
ふぺきか、馬鹿馬鹿しいといふnか、淫猥といふべきか、陽気といふべきか、とて星々とした奇妙な気分
がする。
今日のすべての蜃衝家が、アメリカ式の喜歌劇を呪ふやうに、今日のすぺての音楽家はジャツヅを日の仇に
してゐる。彼等に言はせればジャツヅは音楽の邪道である。香それ所ではない。むしろ全く嚢術と呼び得るこ
とのできないもの、蛮術の神聖を冒涜するものであるさうだ。
僕は音楽のことを深く知らない。しかしさういふ凰な思想をもつ人は、それ自らすでに「嘗世界の感情」に
生き残された人ではないか。今や古き欧羅巴の文明は行き詰つてしまつた。欧羅巴は老衰しその肇術は頑廃し
た。いつさいの新しき精神は新大陸の方から萌えあがつてくる。若きアメリカ。俸統のないアメリカ。肇術も
頑儀も知らない野育ちのアメリカ人。そして近頃著るしく富裕になり、新興の元気正に旺盛なアメリカ人。そ
いつが無銘砲に躍り出すところは正に世界の一奇観である。もとより奴等は乱暴である。歴史も知らず、肇術
も知らず、学問もなく、思想もなく、そして所謂文明人としての洗練を全く軟いてゐる。しかしながら − そ
れ故に 彼等は全く自由である。すべてが創造的である。その感情は鮮新にして生々しい。然り、血のやう
に生々しい。
この「血のやうに生々しい」のが、賓にジャツヅ音楽の特色である。この生々しさは、蕾世界の音楽のどん
なものからも瀬くことができない。大べトーペンのシムホニイは僕らを蜃術的に威歴する0偉大な天才の力を
〃∫ 詩論と感想
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感じさせる。所がジャツヅはさうでない。ジャツヅはでたらめである。悪ふざけと騒々しさと馬鹿馬鹿しさの
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
音楽である。むやみやたらに陽気でちやらぼこで、要するに拳術のあらゆる約束と権威とを無税した乱暴むち
やくちや外野生蜃術である。しかしながらジャツヅには、一種特別な不可思議な魅惑がある。ジャツヅを鵜い
てゐると、神経中枢の或る部分が生理的に刺激されてゐる。そいつはたまらなく瀬者を肉感的にする。からだ
のどこか奇妙の部分が、妙に揆ぐられるやうにむずむずしてくる。ジャツヅの現はすラヴの感情ときではたま
らない。それは「懸愛」といふょりも、むしろ「痴情」といふに近い、ある卑猥にして限りなくスヰートの気
分である。要するにジャツヅの悦びは「肇術的のもの」でない。むしろ全く「質感的のもの」である。言葉を
代へて言へば精神的なものでなくして生理的なものである。
一慣に野攣人の原始的な踊は、乱暴で、野卑で、淫猥で、陽気で、それでゐて奇妙に生々した肉感的の魅惑
をもつてゐるさうであるが、ジャツヅの気分がそれと殆んど近い。つまりジャツヅは一つの野攣的蜃術である。
アメリカといふ二十世紀の野哲人が生んだ原始的音楽である。その蜃術的償値の総和は、自由と鮮新と、そし
て賓にナイーヴの力強さである。
ジャッヅを呪ふ人々は、その上調子で軽薄なことを指摘する。しかし僕らは、あの濁逸式の重苦しい荘重な
音楽に飽きてゐる。拳術といふものの本質が、何かしら哲学的な、∵崇厳な、意味深厚な気分をあたへねばなら
ないといふの‥′は、今日多くの牽術家の抱いてゐる先入観念である。しかしさういふのは、今日もはや古い思想
に属してゐる。拳術の本質はもつとギリシャ的、楽天的であつてもよい。軽薄だらうが、ちやらぽこだらうが、
何でもかんでも串由な感情をむき出して陽気に騒げばそれで好い。かく新しきアメリカ人は考へてゐる。
ヤンキイの民衆が創造した唯一の季術。それは後にも先にもジャツヅが只一つあるのみだ。そしてジャツヅ
」田なるノ切の蓼術が、今や全欧羅巴を風靡しょうとしてゐる。多くの蜃術家の熱心なる恰恵とh抗議とにもかか
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はらずゃギヤツヅ的音欒とジャツヅ的演劇とは、洪水のやうな勢で欧洲に汎濫してしまつた0あの文明的儀稽
に惑壊してゐる常識家の英囲紳士も、野攣不作法のヤンキイ趣味に感化されてしまつた0そして何よりも皮肉
なのは、趣味の洗練を誇る彿蘭西人すらが、この俗悪・卑猥・とても話にならないジャツヅ的歌劇に魅惑され
てしまつてゐることだ。
今や世界をあげて、物質的にアメリカの配下に屈従してゐる如く、精神的、肇術的にもまた新大陸の感化に
隷属しっつある。この現象に就いては、僕等はその悦ぶべきか悲しむべきかを知らない0ただしかしそれは事
斉である。欧羅巴はすでに疲弊してしまつた。蕾大陸の文明はその行き詰る所に到達した0彼等は老衰しても
はや青春の血をもたない。ここに新しい生命を注ぐものは、ただ若き新世界からの薫風があるのみだ0新しき
ものはすべて野蟹であり、粗野であり、不作法であり、むちやくちすである。それはもちろん未見成の肇術に
すぎない。しかしそこに生々とした生命がある。蕃世界のそれとは全く根本的に異るところの、一つの驚くぺ
き新奇な感情がある。その若くして旺んなるエネルギイこそは、すぺての老衰した民族を若返らせるであらう0
賓際始めてジャツヅに接する人は、ふしぎなる心の若返りを感ぜずには居られない0多くの人は思ふ0「これ
● ●
は奉術ではない。だが奇妙に愉快なものだ。」と。然り、それは人々の先入観念としての蜃術 それは既に
既に行き詰つてゐる を根本から一新させる酎針に外ならない0
すぺて棉紳的文明なるものは、物質的文明の上杢に架設される。孔子の所謂「衣食たりて祀節を知る」であ
って、書生活の根砥なき所から学術や文牽の花は咲かない。未来もしプロレタリヤ蜃術なる者が世に生れると
すれば、そはプロレタリヤの黄金国が貰現し、彼等が充分生活の安定と飴裕とを得た後の謡である0欧羅巴の
文明は、彼等の諸国が地上の柴華を極打た時に全盛であつた0しかして今や彼等はその栄華を失はうとしてゐ
る。そして同時にその文明も。
〃j 詩論と感想
一方、新世界のアメリカは、最近物質上の柴華を極めてゐる。生活の向上と共に人心は元気にあふれてゐる。
しかも最近まで、彼等は何の季術をも持たなかつた。けだし文化の衣は一朝にして吹くものでない。昨日の成
金紳士は今日一朝にして茶道の趣味を解し得ない。成金は富硲なる野攣人にすぎないだらう。けれども多少の
時期をへて、漸くその感情は洗練されてくる。かくして最近、漸くアメリカ人は一つの濁創的文化を創造し得
た。アメリカ的文化! それは未だ概念の明白しない漠然たるものであるが、しかも有形無形の中に、ある恐
ろしいカが海の彼方から迫つてくるのを感ずる。そしてその最も具憶的な現はれとして、まづジャツヅ音楽を
考へることが出来る。
憐れむべきアメリカ人。彼等のもつ濁創的蜃術は、後にも先にも唯ジャツヅ一つしかない。しかし既にその
一を創造した。つづいてまた彼等は二を作り、三を作り、四を作るであらう。そして今日のジャツヅの如く、
次々にそれらが世界の新奇として喝宋され、やがてはアメリカ的なる一切の文化が、欧羅巴と地球とを統一し
てしまふであらう。僕はその未来を考へるとき腹立たしくなる。なぜといつてアメリカ人の趣味には、先天的
に僕等と一致しないものがあるから。思ふに僕等は、生涯を通じてアメリカ人を恰みながら、しかも次第にそ
の頁力に牽きずられて行くのではあるまいか。
人々は、凍爽況や表現汲を新しい拳衝だといふ0なるほど此等の蛮衝は、形式に於て蕾来の型を破つ.でゐる0
形式に於て臥由であり大儀である。しかし要するに此等の奉衝は「欧羅巴の蜃術」である。あの老衰した、血
の気の薄い、あの「著せ界からの感情」の名残りにすぎない。明白にいへば此の種の拳衝は、すでに行き詰つ
た嘗世界の文北に苦しむ人々が、その窮鎗の果に考へついた一別路である。即ち「蕾世界の人が考へた蕾世界
への反逆」である。
それ故に此の種の蓼術の新味は、単なる外観上のものにすぎない。彼等は自ら破壊を叫び、改造を呼んでゐ
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Z潤瀾周督“.′..
る。しかも悲しいことには、彼等自身が眈に新しい時代の人でない0彼等の生活の環境は死にかかつた欧羅巳
● ● ●
である。そして彼等の血賑には先組の老衰した血が通つてゐる。されば如何に自ら悶えた所で、彼等は彼等以
●
上に別の人格となることができないのだ。見よ、その作物は全く蕾世界的な感情でみたされてゐる0普通の、
欧洲風の、ごく有り来りの退屈な思想が、ただ一寸攣つた形式で書かれてあるにすぎない0未来渡にしても、
表現汲にしても、その濁創的償値は全く外形上のものにすぎないのだ0
眞に新しいと言はれるものは、感情の上から、内容の方から、全然攣つた世界の驚異を感じさせる顆のもの
でなくてはならない。所がそんな肇術は今日の欧羅巴にはないのだ。さういふのは恐らくどこカの野攣人から
磯見される。野攣人の生活や文明やは、我々と全くちがつてゐるからだ0しかし野攣人は拳術を持たない0庫ノ
つたにしても我々の時代の趣味に合はない。
この意味に於て、アメリカ肇術ほど異に新しいものはない0あの未来汲音柴の破壊主義は、理窟や考へによ
って外部的に取りつけられたものであるが、ジャツヅの乱暴は自然的な感情の爆裂である0理窟もなければ柴
理もない。むやみやたらに浮れ出した酵つぱらひの乱痴菊騒ぎである0そこには全く香華術を馬鹿にしたもの、
嘗世界の人の夢にも考へなかつた鮮新無比の感情が躍動してゐる○それは我々にまで「これは奉術でない」と
いふ香定をあたへるほど、それほど新奇にして顆想の頂いものである。
最後に言ふ。僕はあへてカツボレや馬鹿踊りの蜃術吋僚値を高唱するもの・でない0況んや寄席番人の所謂
「陽気なおはやし」を悦んで、眞面目な蜃術を卑下しょうとするつもりでもない0僕の言ふところはそれでな
い。僕はあの八木節廟の卑猥と俗悪とを好まないことで、多分に諸君と趣味を一つにする0けれども注意せ
ょ1・あの野攣的な八木節廟には、他の高尚優美な肇術的舞踊に於て見ることのできない、一つの仝で別な美
がある。すなはちあのナイーヴで、生々とした、元気にみちた、肉慾的で、野獣的で、自然的な美がそれだ0
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それに比べる時、古雅で高尚なる奉衝的舞踊の顆が、いかに無精カで味気なく見えることよ。けだし一方は生
きた民衆の奉術であり、一方は死んだ貴族の奉術である。その肇術としての現在する償俺はもとより比較にな
らないだらう。しかも新しき時代に目ざめつつある人は、前者の野卑に対してむしろ別な興味を失はないであ
らう。僕のアメリカ趣味に就いて言ふのは、けだしこの意味に外ならない。
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