散文詩の時代を超越する思想
 自由詩の音律性について、前に「近代風景」の二月故に小論をかいたけれども、何分にも七枚といふ原稿を
指定されたものであるから、理論の過程を一切略して、単に暗示風の所感を述べたにすぎなかつた。尤も詳し
い議論をしようとすれば、到底五十枚や百枚の原稿では書き切れないので、近く単行本として「自由詩の原
理」を出版し、僕の従来の詩論を綜合的に論決するつもりである。それで此所には、日本語の音律性と僕の詩
論的立場について、簡畢に所感を述べてみようと思ふ。
 讃者の浅薄な誤解をさけるために、始めに先づ僕の詩論の一般的経過を語つておく必要がある。僕は詩人と
して、過去にしばしば作風の欒化を示した。同様に詩論家としても、幾度かの反省と懐庚を繰返し、咋日の僕
の思想を今日の僕が反駁して、幾度か認識の階段を跳躍した。故に「首尾一貫」といふ如き頑迷固階の詩論は、
私の思想過程の中に全くない。僕の讃者が漸く自分の言つてる意味を理解しかけた時分には、僕はもはや自分
自身への新しい懐疑に捉はれ、過去の思想を根本から香定すべく準備してゐ・る。故に僕の讃者と僕自身とは、
不幸にしていつも歩調が合つて居ない。僕は自分を愛し、自分を理解してくれる好き味方と同志に封して、い
っも敵の立場に立たねばならない所の、運命づけられた不幸な孤濁の人間である。
 そこで最初に言つておくことは、詩に於ける音律性の要求などは、僕のかつて前に香定した所であり、今日
之れを自分で主張するのは、明白に前後矛盾した洩論理であるといふことである。しかし矛盾とか漫論理とか
∂∫ 詩論と感想

いふことは、同じ時期に書いた同じ論文の中にあるぺきで、既に思想が襲化した後の場合の論理を以て、前の
幼稚なものと封照し、かれこれ同一饅の矛盾を費むべきものではないだらう。もし「矛盾」といふ語をさうい
ふ意味で用ゐるならば、僕の過去の思想過程は轟く皆矛盾である。香、僕といふ人物そのものが、性格的に決
定された矛盾である。矛盾人物! 然り、僕は始めから性格の論理性を超越してゐる存在だ。
 自由詩の本質が散文であり、それ故に何等リズムや音律の必要がないことを、僕はかつて他の雑誌に論断し
た0「音律なくとも詩は有り得ぺし。」それを僕は明言した。然るにこの同じやうな思想は、世界的にも既に到
達してゐるのであつて、濁逸表現汲の詩人イグン・ゴルも次のやうに明言してゐる。日く、我々の時代の詩は、
もはや韻律やライムを必要としないい詩が音律を要求した時代は既に去つた○現代の詩が表現するものは、電
光の如き刹那の刺激である。表現渡はあらゆる言語の節約から、廣告電気の如く瞬間の光の中に、最も強き印
象を讃者にあたへる。即ち表現汲は日本の舛○内内q(俳句)を手本とすると。(青山郊汀氏詳の大意による。)
 かうした表現汲の傾向は、恐らく世界の最も新しき、最も近代的な詩論を代表するものであらう。けだし前
に私の「象徴論」で説いた如く、近代における欧洲詩の傾向は、象徴主義を以て表現の本質とする結果、次第
に日本の和歌や俳句に近づいてくる。上述の表現汲の如き、特に自ら「日本の俳句を以て手本とする」といふ
意識を掲げるほど、それほど西洋詩壇の象徴主義は徹底的になつてきた。賓にこの意味から言ふなちば、我々
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の詩は西洋詩の到達する最後である。即ち日本の詩の始まる所に西洋の詩が経つてゐる。1西洋の終る所に
東洋が始まつてゐる。1我々の詩は西洋詩壇の「未来汲」である。むしろ現代の我々は、この未来汲たる和
歌や俳句から出優して、逆に文化の歴史を過去にさかのぼり、西洋の古風な詩饅を寧びつつあるのである9西
洋は我れに向つて流れょうとし、我れは逆に西洋に向つて革んでゐる。この西洋と東洋との奇異なる逆流関係
について、他日別に詳論する横合があるだらう。

  「
心強什
 とにかく私は、早く既にかうした表現汲的詩論を暗示してゐた0私は考へた0我々の時代の詩は、もはや何
等の弔文である必要がない。自由詩は徴底的に散文である方が好い○新しき詩が要求するものは、ただ瞬間に
ぉける言語の印象であると。之れによつて私は、雑誌「亜」によつて特色してゐる瀧口武士、安西冬衛君等の
一行詩を最も早く 恐らく詩壇のだれょりも先に 認め且つ推薦して居た○此等の諸君の短詩は、私の前
の論文にかいた所謂「印象的散文」の代表的なものであり、日本詩壇における表現汲的意向を可成特色したも
のであつた。
 しかしながらかういふ私の詩論は、最近に於て著るしく不安と懐疑を生じて爽た○何となれば詩の文学とし
ての本質が、到底散文によつて満足されないことを自覚してきたからだ0イブン・ゴル、その他」般西洋人の
考へる所によれば、日本の俳句等の詩には殆んど何等の音律がなく、畢に象徴主義の印象的描馬のみを本質と
する如くである。もちろん日本語は、欧洲語に此して甚だしく音律的要素が稀薄である故に、彼等欧洲人の耳
に琴与る我々の詩が、畢に「ボツボツの言語を琴へた」所の「少しもリズミカルの美を有しない」そして「あ
らゆる外国語の中で最も平凡無趣味な非音楽的の言語」として許されるのは官然であるけれども、我々日本人
の自身の立場からみるならば、俳句や和歌の如き詩が、何等の音律美を持たない散文とは決して考へない0此
等の詩歌は、我々の耳に対して可成快よき音楽を感じさせるのである○
 かく我々の俳句と錐も、西洋人の考へる如き非音律的の文学 即ち僕の所謂印象的散文 ではなく、多
少相官に「調ぺ」を有する韻文である。況んや西洋の詩に至つ七は、自ら音律を無威する表現汲ですらが、賓
には極めて高い調子の音律を持つてゐるので、今日の我が詩壇における一般自由詩や印象的散文の如く、殆ん
ど全然魅力的の音律を有しない純粋の愚昧での散文に顆するものは、日本以外の外図には絶無と言つて好いだ
らう。僕は深く考へる。詩が表現しょうとする文畢の本質には、どうして皇日律でなければ言へない感情があ
古∫ 詩論と感想

るといふことを。晋に僕は、此の疑問について再三再四反省してみた。そして結局、いかにしても単なる印象
的描馬だけが、詩としての表現を満足させないことを知つた。換言すれば、詩は遂にいかにしても「散文であ
つてはならない」といふ断定に到達した。僕はこの思想の眞理を立澄すべく、此所に充分の論澄を試みたいの
であるけれども、限られたる紙面では不可能だから、他の論文や著書に譲ることにし、進んで次の問題に移つ
て行かう。
 かくの如く、僕の詩論の結論は印象的散文を香定する。しかしながら勿論、ここに「印象的散文は詩に非
ず」といふ意味の「詩」は、小説等の文寧に封して狭く考へられる意味の詩、即ち所謂「散文」に対して考へ
られる特殊の文畢形式を意味してゐる。もし詩といふ言語をさらに凍大して、より廣い意味で使用するならば、
今日のコントや新感覚汲等の文挙が、或る意味で「詩」と言ふことができるやうに、それのさらに一層蜃術的
にエキスされたこの種の印象的散文が、或る種の意味の「詩」であることは勿論である。この種の文畢は、形
式上には明白の散文であるけれども、表現の肇術的手法を高い標準においてる故に、その鮎での詩と思惟する
ことができるのである。即ち詩壇の所謂「散文詩」なる言葉が、正に観念してゐるものが之れである。
 されば僕の所謂印象的散文や、今日我が園の詩壇における自由詩の大部分は、言語の正しき意味に於て「散
文詩」と呼ぶべきであり、形式上に於て散文の範囲に属すぺき文寧である。今日我々の詩壇は、この歌文詩な
る言語を自由詩と直別してゐる。即ち詩壇の一般的な思惟によれば、散文詩は散文であるけれども、自由詩は
散文でなくして之れと封照さるべきもの、即ち「韻文」であると考へてゐる。しかも箕際の事賓を見るに、今
日我が詩壇に於ける大部分の詩は散文であり、殆んど何等の音律的魅力を有してゐない。即ち詩壇が自ら「自
由詩」と稀してゐるものは事賓上に於ては概ね皆「散文詩」である。(最も馬鹿馬鹿しい妄見は、自由詩と散
文詩の直別を印刷書式の行ワケに辟してゐる。)
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/(
 それ故に今日の我が詩壇は、杜ね「散文詩」のみが有つて「自由詩」が無いといふわけである0僕はもちろ
ん、散文詩の蜃衝的意義を認め、それの益ヒ未来に於て餞達すべきことを信じてゐるけれども、畢克散文詩は
散文詩である故に、之れを以て純粋の意味の詩に代へることはできないだらう○僕は決して散文詩を香定しな
い。のみならずそれの詩形における近代的意義を痛切に感じてゐる0見方によれば、現代は資に「散文詩の時
代」だと言つても好いのである。けれども、それの肯定される一方に、眞の韻文たる純詩が存在されない道理
はない。香、眞の本質的なる詩的表現は、決して音律的要素なしに有り得ることができないのだ0故に我々の
時代が、正しく「散文詩の時代」であるとしても、之れと同時に丁万では、純粋の音律を有する詩が存在せね
ばならないのだ。
故に如何に理窟をつけて考へるも、今日現在する我が園の詩壇は攣態である0なぜと言つて現詩壇は、畢に
散文詩のみを有して自由詩を有して居ない。西洋の詩替にあつては、彿蘭西でも濁逸でも、決してこんな無茶
苦茶の現象はないのである。すくなくとも西洋の巨由詩といふのは、我々の詩壇のそれの如く、本質的に散文
と同化する迄音律を無税したものでなく、矢張どこかに特殊な強い魅力を有する詩的音柴を持つてゐるやうだ0
現在日本詩壇の所謂自由詩−賓は散文詩 の如きは、世界に全く顆のない不思議の存在である0
思ふに我が詩壇におけるこの現状は、一の避くべからざる特娩の事情によるのである○何よりも、先づ第一
に根本的な不幸は、我々の日本語の構成が、本質的に非頚文的であることに基因する0日本語にはアクセント
もなく平灰もなく、畢に語数の音敷からくる長短律があるにすぎない0故に我々の詩挙が方則し得る韻文とは、
ぁの退屈にして畢調無味なる七五調等の反覆律があるにすぎない○自由詩はこの韻律の単調を破るために考へ
られた。しかも自由詩そのものがまた散文的平坦によつて苦しめられる故に、結局して日本語は、和歌俳句の
短詩に行く外、哉文として救ひ道のないものと言はねばならぬ0そしてこの日本語の非音律性が、丁万に甚だ
βア 詩論と感想

しくケの表象の印象的特色を饅育させた0けだし日本語は、音律として最も稀薄な璧岬である代りに、その言
静における表象性の豊富にして聯想に富んでゐることは、賓に世界無比と言はねばならぬ。どんな欧羅巴の言
語も、こ・の鮎では決して日本語に及ばない。
 かく音律性に稀薄であつて表象性に豊富な日本語が、文牢として象徴主義に徴底するのは、始めから全く官
然の次第であら>`賓に日本に於ては、古来から西洋的意味の韻文1即ち叙事詩や劇詩−が全く磯育しな
かつた0我々の璧抑は音律的に貧窮である故に、到底かかる長篇の韻文に耐へないのである。香、長歌や今様
の如き叙情詩すらが、そのやや長き憩律の反覆から、退屈として歴史の過去に廃つてしまつた。明治の新膿詩
が、また同様の理由にょつて廃れてしまつた0日本に不易的の償値を有する韻文は、ただ常に和歌俳句の短詩
のみである0賓に我々の詩人は、象徴主義の表現で世界に誇り得る代りに、音律としては最下等のものであり、
僅かに和歌俳句の短詩に留まらざるを得ないほどそれほど見すぼらしい境遇に居るのである。

日本語に音律性の貧窮なこの事情を、丁万日本人の「音楽嫌ひ」の国民性と対照してみょ。そこに何等かの必然な方則が
餞見されるだらう。
それ故に現詩壇における上述の問題は、我々がこの貧窮なる日本語を以て無自覚にも西洋流の詩を模倣する
といふことの、根本的な矛盾に鰐決されてくる0元来が和歌俳句の短詩にしか邁應しない日本語で、始めから
音律本位にょる膚洋の長い詩形を眞似るといふことが、詩壇的に根本からまちがへた無理であり、新膿詩以来
の認識不足がそこにある0けれども蒲原有明氏時代の自由詩には、相常に音律的な要素があつたので、もとよ
り西洋の詩とは比較にならない話であるが、さすがに、今の自由詩ほどヒドイ者ではなかつた。すくなくとも
昔時の自由詩は散文と区別され得る程度の、可成の音律的魅力を有してゐた0今日の自由詩に至つては、殆ん
ど全然「耳」を失つてゐると言つても好い。詩が今日の如く極端に音律性を持たないことは、日本に於ても有
史以来始めての出来事である。
 何故に今日の自由詩は、かくの如き翌日律になつてしまつたのだらうか↑ 賓際正直な所を告白すると、今
日僕等の作つてる自由詩からして、眞の音律的魅力を感じ得る讃者は、殆んど一人もなからうと思はれる○僕
等の自由詩にもし何等かの魅力がありとすれば、表象の印象表現によつて讃者の聯想に訴へるので、眞に音律
の魔力にょつて人を陶酔させ、思はず饗をあげて朗吟しょうとするほどの、強い報文的誘惑を有する文学1
それが本官の詩である は、今日の文壇には殆んど穎無だと言つても好い0何故に今日の自由詩は、これほ
どにも極端に散文化してしまつたらうか?
 この理由は、今日の自由詩が文章語で書かれずして、現代の日常語たる口語で書かれることによるのである0
蒲原有明氏時代の自由詩や、室生犀星の叙情小曲時代に於ける初期の詩が、今日の詩に此して甚だしく高い程
度の音律的魅力を有するのは、資にそれが文章語で書かれてゐるためである○此所で諸君は、日本における文
章語といふものの、特娩な存在理由を考へてみねばならぬ。だれも知つてる通り、この文章語といふ不思議な
言語は、日本にだけ特殊に存在したもので、西洋諸外国にはかつて無かつたものである0西洋では、日常の合
話が話す通りを文章に書くのであつて、日常語と文章語とを別にするといふ如き習慣は、世界に日本だけしか
なかつた習慣である。
 何故に我々の日本人は、かうした特秩な習慣をもち、文章語といふ如き二重言語を敏明したのだらうか?
思ふにその事情は、我々の国語の甚だしき音律的映陥性を、日本人自身が自覚した為である0さすがに我々の
先租は、日本語が詩的表現に適用さるべく、あまりに音律性が映乏してゐることを自覚した0かかる非音律的
d夕 詩論と感想

な孟を以てしては、叙情詩はもとよりのこと、表文寧の美的責をするぺく、あ溝に不廼官であること
に気が付いてゐた0そしてこの奉現的困難を避けるために、より音律的要素に富んでる別の言語、即ち文章語
を創昇したのである○故に文章語は日常語に比して、逢かに強烈なアクセン呈、鮮明な句切れと、力のある
語調と、簡潔で弾力のある語撃とを有してゐる0試みに諸君の日常語と文章語とを比較してみょ。すぺての鮎
に於て、後者がいかに音律的要素に富んでゐるかが、直ちに判然と解るだらう。畢に「である」と「なり」を
比較し、「さうであるから」と「故に」とを比較しただけでも、いかに妄が埠感的に著しく、妄が軽快
で歯切れの好い音律を有するかが明白である。
然るに明治以来、我々のハイカラ者流が西洋の文明開化を眞似、彼の文畢が言文表である理由を以て、我
れの文拳皇口文表でなければならぬといふ漫理性の論理に到達し、全く国語の特色を異にする我が国の文壇
に、西洋流の言文表を攣眞似し始めたのである○既に比較的音律性の豊富な文章語を以てすら、我々の韻文
は和歌俳句以上に出ることが困難だつた0然るに況んやょり甚だし(非音律的な口語を以て、逆により嘉な
西洋詩を模さうとする○その殆んど根本的に不可能であることは、むしろ最初から鮮り切つてる話ぢやないか。
しかも若し強ひて之れを試みょうか0その結果は即ち今日の我が国における攣態自由詩の詩壇である。そこに
何等の自由詩がない0ただ横書きにした散文があるのみだ。
 針本人の表的日常語、特に今日の日常語が、殆んど絶望的に音律性を有してゐないことを、諸君は.ょく反
省しで見る必要がある0たとへば試みに「稲妻や遠くの杢の薄明り」といふ俳句を、我々の言文表に直して
「稲妻が温くの彗光つてる」として見よ○前者には一種の強くはつきりした音律があるけれども、後者には
                                        ヽ ヽ ヽ ヽ
どこにも全く音律感といふものがない0之れ前者の「や」といふ切字が強く判然とした語哉を有して、後句の
「薄明りしなる語顛の軽快感と封比する魚、そこに一種の音律美を生ずるに反し、後者の言文表饅では、ど
ア0
こにも歯切れの好い音律的の言語がなく、却つて「が」といふ如き鈍重な語領のてにをはが、「光つてるしと
                                                                                                         ヽ  ヽ  ヽ  ヽ



                                 ヽ ¶ ヽ ヽ
いふ如き重苦しい語報の上に重複する為、徽底ぼたぼたした不快の音律を感じさせるのみである0
 これ畢に】例であるけれども、今日の口語自由詩なるものが音律的に凡そどんなものであるかは、之れによ
って大慣推察することができると思ふ0日本語の口語ほど極端に非音律的な国語は、恐らくどんな野挙国にも
無からうと思はれる。せに「餅づき調子」といふ言葉があるが、我々の日常語は正にその好例である0即ち
「あつたんである」「であるんである」といふ如く、どこまで行つても一本調子で攣化がなく、耳障りの悪く重
          ヽ ヽ ヽ ヽ
苦しい語頚が、べたべたと重なつてくるばかりである0しか皇晶に力を込めて表出しょうとする場合には、
結局して「であるんである」式の餅つ・きを重ねるより他に道がない0之れを救済するためには、いかにしても
「なり」「かな」等の簡潔にしてカの強い言語を創案する外はないだらう0我々の先組が文章語を簡明したのは、
賓に止むを得ない必要から出たのである0
しかしながら過去の所謂文章語は、もはやクラシックの園語に属して居り、今日の新しき時代のものでない0
我々の新しき時代のためには、何等か別の新しき新文章語が無ければならない0明治の言文表を輸入した昔
時の新人にして、今少し日本語の特色を理解し、今少し聴明な頭脳をもつてゐたならば、かかる西洋模倣の言
文一致を考へずして、新時代の日本が有すべき「新しき文章語」を創案したにちがひない0そしてもしさうで
ぁったらば、冬日僕等の詩壇はかかる救ひがたいヂレンマに陥入ることも無かつたらう0今日の詩壇及び詩人
は、⊥カで西洋の詩饅を模倣しょうと意圃しながら、妄で日本語の不適官な特殊性に悩まされて、自己で自
己を奄足する錯覚に陥入り、表現上の致命的破産に際してゐるのである0
要するに僕等の存在は、あらゆる意味に於て「新日本の苦悶」を代表してゐる0我々の日本は、今や皮相な
る西洋模倣の夢から醒めて、国粋のものに自覚しっつあると同時に、妄では国粋のものに対して、自ら抑へ
アノ 詩論と感想

られない不満と嫌厭を感じてゐる○僕等の時代の感情ほど、組囲に封する「愛」と「恰」の交錯から、不思議
なヂレンマに陥入つてるものはないだらう0そして我々の詩壇及び詩人が、賓にこの新日本を象徴してゐる。
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即ち現詩壇がもつ一切の特色は、この時代の矛盾性といふ表にょつて表される。我々は「矛盾時代の詩人」
である○故に我々の嚢術には眞の意味の完成がない0我々は常に攣化と破壊の中に動揺してゐる。我々咋未完
成の詩人である。新日本前渡の過渡期における詩人である。
さればかうした混沌時代の現詩壇が、その表現の言語すらも持たないといふことは、表に於てはむしろ官
然の次第であるが、かかる事賓を事賓として尚且つその↓に熱情さるぺき、吾人のイデヤを捨てることはでき
ないのだ0何よりも僕等は、表現の言語をもたないといふことに、詩人としての絶大な苦悶を感ぜずに居られ
ない0しかも和歌俳句の俸統形式に安住してしまふことは、僕等の生活者としての良心が許さない。前途に造
があつても無くても、とにかく我々は忘「新しa詩形」を後見すべく、百日的に突進して行かねばならぬ。
ただ僕の詩壇に警告しょうとする所は、僕自身及び諸君の詩が、忘不自然なる未完成の拳衝にすぎないこと、
正しき意味に於ては「自由詩」といふ名稀に償しないものだといふことの自覚における鴫明な認識である。
 現詩壇が自ら自由詩と稀してゐるものは、何等散文と封照さるぺき文学でなく、賓にはそれ自身が散文であ
る所のもの、即ち所謂「散文詩」に外ならないのだ0僕はこの事賓を指摘するため、前には特に宗詩等の印
象的散文を引澄した0けれども此等はまだ好い方である0他のょり長篤な詩に至つては、その印象的であると
記事的であるとにかかはらず、一層算音律的であり、純粋に悪や随筆の散文と選ぶ所がない0もちろん前
に適トヘた如く、僕は散文詩の特殊形式を肯定し、且つそれの必然な時代的意義を認めて居る。この論文の始め
に述ぺたイブン・ゴルの表現汲も、畢責するに「散文詩への時代」を暗示したものに外ならない。この意味で
散文詩1即ち僕の所謂印象的散文1こそは、菅近代的趣味を代表する文孝である。僕が難詰「亜」の同
ア2
人や、マボオ汲の萩原恭次郎君等の詩(マボオ汲の詩は印象的散文として可成典型的なものだ・それは「耳」
に訴へないで「眼」に訴へる。)を、詩壇の最も新しき欲情として推薦する所由のものも、質に散文詩の時代
的意義を認めるからである。
 けれどもさらにひるがへつて、詩の第一義的な本質に目を向ける時、どうしても散文詩だけでは表現できな
い感情の第三次杢を、僕等自身の内部に認めざるを得ないのである0印象的散文の魅力は、いかにしても感覚
的であり、そしてとリヒリとした皮膚の刺激以上に出られかい0もちろん現代は「感覚の時代」であり、それ
が殆んど近代詩人の全神経でもあるけれども、矢張「詩」の最も本質的な内部には、感覚以上に迫つてくる感
情の全感性が要求される。そしてこの全感性を強く表出するためには、いかにして皇日律の力を借りねばなら
ない。僕は此所で断言する。詩の現はさうとする眞の情操は、言語の印象的表象にあるのでなく、ひとへにそ
の音律のカに存するのだと言ふことを0そしてまた、詩が散文によつて換へられない特殊な文筆的意義を掲げ
る所由も、ひとへにまたこの特色に存するのだと言ふことを0
我々の多くの日本人が、一般に詩に封する観念はかうである0「詩はできるだけ短かい言葉の中に、できる
だけ多くのことを言はうとする。」と。この思想を押して行けば、遽にイブン・ゴルの表現詩論と一致し、さ
らに進んで音律不要論 即ち散文彗切論1となつてくる0けれどもかうした思想、詩を以て「散文のエ
キス」と考へる肝の思想は、あまりに象徴主義の病的な備見に執しすぎてる0今日我が詩壇における二三の
「先見ある頭脳」は、概ね皆その時代的感俄の敏感性から、この種の散文主義に導かれて居る0即ちたとへば
西川勉氏の「聯想詩論」橋爪健氏の「散文時代論」伊南部氏の「後期自由詩論」等、各皆論旨は異るけれども、
思想の根砥を共通して流れるものは、サべて皆↓述の時代性を以て二見してゐる○僕をして言はしむれば、彼
等は象徴主義の病毒に犯されてゐる所の、一の時代病患者である0
フワ 詩論と感想

L Ll
今日現在する我が国の詩壇−そこには散文詩だけあつて自由詩がない1の現状について考へれば、成程
かうした思想は正常であるかも知れない0今日の我が国の事情で見れば、むしろ自由詩をして散文に徹底させ
ることが、却つて今の似而非文学を救ふ唯忘道であるかも知れないけれども、壷かかる特挽な詩壇的現象
を捨て、詩そのものの不易な本質性について反省する時、本歪明な頭脳を有する上述の詩論家諸君は、必ず
や更らに認識の不足を知り、より二空商い僕の眞理にまで追ひついてくるだらう。何となれば詩の本質には、
いかにしても散文で表現できない所切、或る不思議な、むず浮き、言はば「言語が藁の中に融けょうとす
る」必然必至の本能感を持つからである0そしてこの本能感なしに、いかなる純粋の詩も有り得ない。換言す
れば、すべて詩の本質的な魅力はその音律実に存在する○したがつて音律感なき詩は、すくなくとも純粋の意
味の詩と言へない0即ちそれは「準詩」であり「散文詩」であるにすぎない0諸君がその散文詩を肯定し、之
れを以て「新しき時代の詩形」と見るは正しく、僕も元よりその鮎では同感である。けれどもそれを以て萬能
とし、之れのみが本質の詩であると思惟するならば、僕は根本的に反封せざるを得ないのだ。
要するに僕の言ふ所は、散文詩を散文詩として妄に認識しっつ、妄に眞の純粋な自由詩を創造せょと言
ふのであeいけだし「詩」といふ言語の純粋な意味に於ては、音律なき文拳を包括することができないのだ。
そして此所に「音律」といふのは、もちろん川路柳虻君の主張する如き定形的の律格ではなく、何竺定の方
則をもたずして心の律動感に解れてくるもの、即ち自由詩人の所謂「内部韻律」日本語の所謂「調ぺ」である。
僕は結論する0準き未来に於て、必ずや新是の近代的文章語が創造されるにちがひない。そしてその時、始
めて我々は眞の意味での日本詩人たることができるのだ○今日現在するものは、一の未完成なる散文詩人の群
にすぎない0けれども我々は、未来への希望の故に創造の勇気を捨てないだらう。
ア4