欧洲文明の翻諾誤謬
隣の部屋で叔母と子供が講をしてゐる。子供が本の紙を敷へてゐる。
「一枚、二枚、三枚、四枚…=」
「本はさう数へるものでありません。一ぺ−ヂ、二ぺ−ヂといつて数へるのです。」
「一ぺ−ヂつて何のこと。」
「一枚の半分が一ぺ−ヂ。つまり日本の一枚の表と裏を、西洋では二枚にして敷へるのです。」
「西洋では一枚のことを二枚つて言ふの↑」
「さうです。」
「一枚がどうして二枚になるの?」
「裏と表を敷へるからです。」
「それでもなぜ一枚が二枚になるの?」
「わからない子だね。この子は。」
「だつて可笑しいなあ。どうして一枚の紙が二枚になるの?」
子供の質問はどこまでも切りがない。私は微笑を禁ずることができなかつた。そして同時に、子供の論理的
■習箋一
「
頭脳の明快さに驚嘆した.〔子供といふ奴は、賓に生れたる論理家だ。「どうして」「何故に」を開ひ出すと、
封手を閉口させるところ迄切りがない。西洋人の理窟つぽい論理的な性質は、この子供の天性が自然に蜃育し
たものだ。)
これは子供のロヂツタが正しいのだ。一枚の紙がどうしても二枚になるぺき道理はない。この論理的矛盾を
子供はあくまでも怪しむのである。誤謬は始めから叔母の説明の方に存在してゐる。叔母はぺ−ヂの意味を読
まい
明するのに、日本語の枚といふ概念を持ち出したから悪いのである。日本の一枚は西洋の二ぺ−ヂではあるけ
れども、西洋の二枚ではないのである。西洋の二枚ならば四ぺ−ヂになるわけだ。然るに叔母は「日本の一枚
は即ち西洋の二枚にあたる」といふ不合理な説明をしたからして、此所に子供の論理的怪訝が生じたのは首然
の成り行きだ。
しかしこの場合に、吾人はその説明者を笑ふことは出来ないだらう。なぜならばかうした場合に、だれも皆
かうした説明をするからである。すぺて西洋語を日本の意味で翻詳し、日本語針層洋の言葉で説明する時は、
いつも必然にかうした奇異の現象が起つてくるのだ。しかもそれを怪しむのは子供だけで、大人はだれも平然
として見通してゐる。▲
洋行辟りのハイカラな青年と、その嘗弊な父親との問には、しばしば次の如き問答があり得るだらう0
「ステッキを突いて歩いてはいけません。ステッキは脇にかかへるものです。」
「杖は突くための者ぢやないかね。」
「西洋では突きません。かかへたり振つたりして歩くのです。」
「だが杖は突くべきものぢや。」
「西洋では突きません。」
〃∫ 詩論と感想
「妙だな。西洋では突かないものを杖と言ふのか。」
「さうです。」
「では何か。西洋では喰ぺない物を喰べ物と言ふか?」
この間答における論理の矛盾は、言ふ迄もなく「ステッキ」を「杖」と混同し、二つの異つた者を同一の言
語で概念した所に存してゐる。英語のステッキはステッキであつて、日本語の所謂杖とは、全くその使用の目
的性質を別にしてゐる。しかも日本人は之れを説明して「杖」と辞するから、そこに上述のやうな奇異の非論
理が生ずるのである。そしてこの論壇的矛盾こそ、取りも直さず我が国の牡合における今日の茸情である。現
時の日本は、賓にぺ−ヂを説明するに枚を以てし、ステッキを辞するに杖を以てし、ポエムを辞するに詩を以
てし、ローヤルチイを辞するに忠義を以てし、ラヴを辞するに愛を以てしてゐる。換言すれば、西洋の或る特
貌な観念を、それと全く性質のちがつた日本固有の観念に郡詳してゐる。そしてこの研詳に於ける観念上の錯
誤こそ、それ自ら現牡合の文明に現はれた欧化主義の矛盾である。即ちそこに、ステッキを杖にして歩く人が
居り、アンプレラアを日傘に使ふ人があり、洋服で畳に坐り、ビルヂングで鰭を食ひ、和服をきてハットを被
り、食堂椅子で居間に納まり、憲政政治を待合でゲイシヤと臥ながら議事したり、帝国劇場のオペラハウスで
中称歌右衛門の江戸歌舞伎が上演されたりするのである。
政令上のことは別として、此虞では特に文壇に就いて言ひたいのである。過去の自然主義文壇は、この鮎で
最も非論理な矛盾をしてゐる。即ち俳蘭西や露西亜に生じた文蜃上の自然主義的思想を、最も誤つた日本語に
∫イ古
柄詳して紹介して.居る。その一例をあげて見よう。
\ヽ
自然主義の文壇では「生活のための肇術」といふことがょく言はれた。この「生活」といふ言葉は、もちろ
ん西藷のライフを緋辞したのだらう。ライフといふ外国語は人生の全景的生活を含んでゐるので、食つたり、
\澗パ
「
感じたり、考へたり、遊んだり、樽愛したり、働らいたりする所の、政令的生存に於ける人の生涯を言ふので
ある。換言すれば、西洋人の観念する所の生活、ライフといふ意味がそれなのである。然るに日本語の意味す
る「生活」とは、さうした廣義のものではなくして、主として衣食のための生計を意味してゐる。すくなくと
も遊戯したり享楽したりすることは、日本語の生活に概念されてゐない。即ち言ひ代へれば、日本人の人生観
そのものが、生活の意味をさう考へてゐるのである。だからステッキがステッキであつて杖でないょうに、ラ
イフはライフであつて生成伯でないのである。
所が自然主義時代の文壇はこの外国語のライフもしくはヒユマンライフを直ちに日本語の生活と詳したので、
そこに上例したやうな奇異な錯誤が生じてきた。即ちそれが日本に来て「衣食のための睾術」と観念され、人
の知る如く裏長屋の細民描馬を主題とする、米飯の窮乏を訴へるタクアン文学となつてしまひ、露偶の本場に
おける眞の自然汲文畢とは、全で似ても似つかぬ妙なものになつてしまつた。
日本の文壇では、しばしばまた次のやうなことが言はれてゐる。
「蛮術は遊戯でない。」
「創作は遊戯的であつてはならない。」
此等の場合に言はれる「遊戯」の意味は、別の日本語でいふ「遊び」の意味であるだらう。即ち何等か道楽
的な、本気でない、不眞面目な態度を指すのである。音際日本語の「遊び」\もしくは「遊戯」といふ語には、
さうした非難的な悪い意味が含まれてゐる。特に「遊び」に至つては、しばしば放蕩への道徳的非難さへ含ま
れてゐる。所が西洋語のプレーとかゲームとかスポーツと言ふ語には、何等さうした悪い意味がないのである○
プレーとかスポーツといふ言語には、少しも鎗技的とか道楽的とかいふ不眞面目の観念が含まれてない0却つ
て反封に、或る健康な、明るい、生命的な、元気と快活に充ちた精神を意味してゐる。
〃ア 詩論と感想
≧mT’ ̄「
だからスポーツライクといふことは、西洋では少しも非難の意味ではなく、却つて賞讃の意味になつてゐる。
これをもし日本語で「遊戯的」と詳したら大まちがいだ。すつかり反封の観念が出来てしまふ。今かりに人が
居て、上例「創作は遊戯的であつてはならない」を外国語に直詳したらどうだらう。拳術はスポーツライクで
あつてはならないと言ふ意味は、吸入にとつては次のやうにしか鮮されまい。即ち創作に於ては、すべての明
ヽ ヽ ヽ ヽ
るい健康な、スポーツマン的快活の精神を禁ぜねばならない0即ち陰気で、←a←aして、じめじめした精神
でのみ創作さるぺきであると。
ヽ ヽ ヽ ヽ
日本の自然主義文砂の小説が、また賓際その通りじめじめしたものであつたことは、讃者のよく知つてゐる
事貨である。けだし「遊戯的であるな」といふ彼等のモットオが、必然にこの結果を生んだものに外ならぬ。
それは不眞面目といふ意味を、すべての嬉々としたスポーツ的な精神と結びつけ、遊戯といふ言語の中で、不
興面目と享発とを同時に排斥してしまつたからである。「娯楽」「趣味」等の言語もまた同様であり、西洋語で
はそれが明るく楽しげな、しかも教養に富む倫理的な善い意味を帯びてゐるのに、月本語ではしばしば反封に、
他の「遊び」に顆した不眞面目の悪い意味を含んでゐる。
かうした言語の内容上における彼我の相違が、その観念に封する国民の杜合的情操に基くことは言ふ迄もな
いひ即ち前に言ふ通り、西洋では「生活」といふ観念が、単に衣食のための生計以外に、遊戯したり音興した
りすることであるのに、日本人の生活観念にはそれがなく、衣食に迫はれてゐる■」方のみであるからである。
したがつて「遊び十や「娯楽」やは、西洋人にとつて生活に必須のものであり、ケれなしにライフが完成され
ないもの、∵即ち生活の必然的な一部であつて、その言語の中に包括される展性となる。反封に日本では、それ
が生活の語に包括されず、生活以外の不必要のもの、道楽的の悪いものとなつて観念される。これからしばし
ば過去の文壇では、次の如き不思議な三段論法が流行した。
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彗術は生活以外のものではない。
趣味へ美の享欒)は生活以外のものである。
故に趣味は肇衝でない。
これに顆した奇異の観念は、温去の文壇に無数にあつた。しかしその論理的及び事質的の誤謬は、今日とな
ってはもはや指摘する必要がないであらう。すべては哲西洋の文学輸入に際する、言語の誤つた郁謬からきて
居るのである。そしてこの同じ誤謬は、今日でも績々として新しく繰返されてる。未来、日本の祀合と文明と
が、全然欧風化してしまふまで、即ち日本人の観念と西洋人の観念とが同じ言語に於てぴつたりと一致する時
まで、思ふにこの同じ翻詳誤謬は無限に繰返されて行くのである。ただ日本がょり欧風化して←るほど、その
誤謬の差がすくなくなつてくるといふにすぎない。
今日可成欧風化した日本でさへもさうなのである。況んや昔、日本が未だ全然西洋を知らなかつた鎖国時代
はどうであつたらう。
ナポレオン一世を一代目ナポレオンと詳し、総理大臣を大老と詳し、裁糾官を町奉行と詳し、ランプを西洋
行燈と詳し、カツレツを西洋天ぷらと言ひ、羅馬法王を切支丹大和伶様と言ひ、兵士を和蘭陀足軽と言つた時
分はどうだつたらう。その頃の桝詳誤謬は、到底ステッキを杖ど辞する位の間ちがひではすまなかつた〇
一例あげれば、歌羅巴に漂流した日本の漁民が、彼の園の議合を見物した款話がそれである0
日く「羅紗打筒袖祥でんに臥じ股引をはきたる人饅の者あまた群がり、交ヱ卑き壇上に戯けあが打て腕をふ
り眉を怒らし、大馨を饅してわめきたてれば人々之れに應じて怒親し、その駄々しく脅か£しきこと最も言外
なり。」と。
この談話を瀬取した人の批判が面白い。∴日ぐ「案ずるに我が国の魚市場の如きものかごrと0成程ラシャの
ノ49 詩論と感想
筒袖祥てんに股引かけの・風膿をした人足が集つて、品物のセリ費をしてゐる有様が眼に浮ぶのは尤もである。
譲合を魚市場に見立てたのは面白い。しかし流石に腑に落ちないと見えてかう言つてる。
「か一りにも天下の一大事を議する評定所にて、行儀作法もなく人足棟の風鰹をし、むたいに喧嘩口論をして乱
暴の條心得がたし。このこと最も怪しむぺし。」怪しむぺし、怪しむぺし、としきりに頸をかたげて疑つてゐ
る。
すぺて尤ものことである。昔の日本の議合と言ふのは、即ち将軍家の御前に居流れ、中老や若年寄やが祀式
かみしも
正しく梓を着て、所謂「天下の一大事」を評定することであつたから、彼等にその「西洋評定所」が鮮らない
のは官然のことである。銚謬誤謬も議合を魚市場とまちがへるほどになれば徹底してゐる。
讃者はこの昔話を笑ふ前に、も一度自分等の現状を反省して見るが好い。「趣味」を「生活以外のもの」と
言つたのは、つい最近の文壇である。奇々怪々なる不思議な文寧を書いてゐて、自ら二十世紀の新思潮たる自
然主義を任じてゐたのも、命殆んどつい最近の文壇である。
田舎の山出しが洋服に下駄をはき、自ら欧洲の最新流行を迫ふハイカラを以て自任したら、諸君は如何に之
れを笑ふだらう。我が国現時の文壇が丁度この通りだ。
我が国の融合の文明がさうであるやうに、現代日本の文題滝また、資の内容はやつと欧洲十八世紀末のもの
にすぎない。自然主義どころか、その前渡たる濁逸浪漫主義の文寧さへ、まだ貿には輸入されて居ないのだ。
もしこの事貨を疑ふものは、まづ第一に欧洲語を日本語に詳して見給へ。そして両者の語意における時代的の
ヽ ヽ ヽ 「ヽ)
差異をはつき打と認識し給へ。・
∫∫0