野口米次郎論
此頃出る多くの詩集は、どれも器用に漑書けてゐるが、内容が甚だ室虚で手ごたへがなく、一つもどつしり
とした重みがない。この間にあつて、異に内容が充箕し、本の重みを明らかに感じ得る詩集が出た0野口米次
郎氏の定本詩集たる「表象抒情詩」がさうである。
著者野口氏に対しては、僕は以前から大なる人物的興味を有してゐた。それでこの詩集をよんだ横合に断片
乍ら一言しょう。
野口氏は葺に不思議な詩人だ。第一に不思議なことは、日本人に珍らしく、永遠の熱情性を失はないことで
ぁる。一鰹に西洋人は、たいてい五十歳六十歳頃になつてから盛んに油つこい懸の詩を書き、人生に封する態
度も老いて益ヒ熱情的となつてくる。しかるに日本人はその反対で、中年期に入ると皆が老成ぶつて納つてし
まふ。却つて日本人は情熱を軽蔑し、その所謂「書生気質」を早く脱けることを以て人物完成の讃操としてゐ
る。室生犀星君などもこの鮎では代表的で、いつも僕の書生気質が脱けきらず、人物が出来てゐないといふこ
とを非難されるが、人生の意義は却つて達観しない老書生の煩悶にありはしないかと思ふのである○僕の人生
観はこの鮎で室生君と正反封だ。
談が故事に亙つたが、すべての鮎から考へて、茸際に野口氏は日本人ばなれがしてゐる。第一に詩想がさう
である。第二に気質がさうである。第三に容貌がさうである。多くの場合に於て人の容貌ほどその人の性質を
ノ0タ 詩論と感想
現はしてゐるものはない。野口氏の容貌は、どうみても異人らしく、眼玉の色の青い所など、なかなか日本人
とは思はれない。しかるにあのエキゾチックの容貌が、西洋人の眼には日本人の代表型と目され、彼の圃の董
家にょつてしばしば歌麿の董相などにたとへられてる。賓に意外にも不思議の気がするが、この「外人の見る
ヨネ・ノグチ」と、我々の日本人が見る野口氏との驚くぺき相違が、同時にまた彼の詩に封する彼我の見解の
別を語つてゐる。
西洋人の定評する所によれば、野口氏の詩は代表的の日本的情操ださうである。然るに我々の眠からみれば、
彼の詩操は「非日本人」的のことで代表的に思はれる。野口氏の詩をよんで第一に感ずることは、題材の取り
扱ひ方や、観念の運び方や、詩語の使ひ方や、そして何よりも根本の情操そのものが、いかにも日本人らしく
なく、あだかも西洋人の作つた詩を直謬でょむやうな気がすることだ。試みに定本詩集中から「沈款の烏」と
題する一篇の詩をあげてみょう。
〃0
風や世界の作られない以前に生れた沈歎の鳥よ
お前は浜や懸よりもつと古い。
笑と人生を知らない寂実の幽壷よ
思想の峯から、星の峯から飛んでこい。
私はお前を歓迎する。
神秘のやうに、色白く、遠ざかり
人情や饗に厭いた沈歎の鳥よ
神秘の兄弟よ
努肇、苧 L黎
これを日本人の詩、すくなくとも、日本的情操の詩と思ふものがあるだらうか? 詩語の直謬的の言ひ廻し
は別としても、詩の観念にまつはる情操性が、純粋に非日本的のものではないか。我々日本人は、たとへ新し
い教育を受けたものであつても、俸統的に和歌や俳句の文字になづみ、建築や、美術や、音楽や、衣服や、食
物や、それから特に日常の言語に於て、環境のいつさいが「日本的のもの」の中に生活してゐる。したがつて
我々の感じ方も日本的で、詩人が詩作する場合にあつても、あの和歌や俳句の率直で印象の中心をつかまうと
する表現の精神に習つてゐる。現在する日本詩壇のあらゆる作家の詩風をみても、・この日本的精神の本質は一
っであつて、西洋人の詩の如く、種々の観念をごてごてと並べ立てて廻りつくどく論文的に書(人はない。現
在する日本詩壇で、野口米次郎氏一人がこの鮎の異教者である。野口氏の詩風は、どうみても西洋流の詩であ
って日本人の作る詩でない。すくなくとも和歌や俳句の俸統に育つた民族の、自ら作らうとして作り得る詩で
はない。詩語の使用法ばかりでなく、観念の運び方それ自髄が外国語の文法的で、根本から西洋詩人の情操で
ある。
野口氏はまた詩作以外に、多くの論文によつて日本詩歌の特色を外人に紹介してゐる。しかるに氏の註解に
ょる「日本詩歌の本質」なるものは、僕等の眼からみてあまりに西洋人風の主観が強く\あだかも外人の重い
た日本ムスメやヨシワラや、トリヰやの檜を見せられ、これが日本風俗と心て逆に紹介された時のやうな一種
奇妙の感がある。故小泉八雲のラフカヂオ・ハーン氏は、日本文寧の研究に於て外人中の第一人者であつたけ
れども、日本詩歌の眞の深遠な哲畢は、遽に理解することができなかつたやうに思はれた。例へば俳句を鑑賞
するにも、主として千代女の「蝶々に去年死したる夫燈し」「身にしみる風や障子に指のあと」等の所謂月址
俳句を激賞して、芭蕉や蕪村の句に至つては多く妙趣に解れることができなかつた。思ふに西洋人が、日本詩
〃J詩論と感想
歌の眞精神に解れることは絶望的に困難だらう。
所で野口氏は、もちろんハーン氏など阜ほちがひ、ずつと深く本質的に日本文拳を理解してはゐるけれども、
その鑑賞における主観の立て方が矢張外人的であり、一種観光圃的エキゾチックを以て態々の文筆を眺めてゐ
る所がある○換言すれば、日本詩歌自身の三昧中に自身が入つてゐるのでなく、それの外部に立つて横文字の
案内書をよんでゐるのである○故にその日本詩歌論は、我々にとつて不思議に他山の石を見る新奇の感じをあ
たへるけれども、何となく事物の外面を撫でてるやうで、物それ自鰹の本有に食ひ込んでゐない歯拝さの不満
をあたへる0しかして何もつと云へば、野口氏の名吟として引例する多くの和歌俳句も、どこかラフカヂオ・
ハーン氏の趣味と一致する所のある、言はば西洋人好みのする特貌の詩歌が多いのである。
要するに野口米次郎氏は、全膿として完全な外国人である。氏が日本に国籍を有するのは、あだかも外因生
れの母国観光囲が、母国の言語も習慣も知ることなしに、しかも純粋の日本人として街上を歩いてゐるやうな
ものである0然るにこれは「我々の側の観察」であつて、西洋人の観察は全然これに反封してゐる。西洋人の
見る所によれば、野口氏は日本人の代表者であり、その容貌、その拳術、その思想、共に純粋に日本的なもの
を象徴してゐると思惟されてる。
西洋と東洋、世界の南極における文明の驚くぺき相違は、野口氏に封するこの両者の見解の矛盾にょつて、
最針よく澄明されてゐると僕は思ふ0或る同じ人物が、一方からは「あまりに西洋らしく」そして一方からは
「あまりに東洋らしく」思はれるといふことは、そもそも何を意味するだらうか? つまり野口米次郎氏は、
西洋と日本との問に架けた「橋」である0日本と西洋との交通は、いつもこの橋を渡ることによつてのみ行は
れる。
今僕は東洋と西洋といふ言語を用ゐた0しかしこれは正常の考へではなかつたやうだ。ひとしく東洋と言ふ
〃2
中には、印度があり、西域があり、支珊があり、日本がある。この中最も西洋に近きは印度であつて、それか
ら支那へ日本へと次第に東への道は遠くなる。文明の造もさうであり、西洋に最も近きは印度の文明で、日本
がそれから最も速い所にある。したがつて印度は西洋人に理解され易い。思ふに我々が印度を理鰐すると、西
洋人が印度を知るとは、距離に於てあまり大差がないだらう。西洋と東洋との最も直接な唯一の橋は、いつも
印度であつたことが歴史的にも説明されてる。しかるに日本と西洋との問には、ずつと多くの距離があり、い
くつもの間接の橋が用意されねばならないのだ。比喩をとつて言へば、欧米人が眞に日本の文明や文寧を知る
といふのは、賓際に於て容易ならない仕事であり、直接には殆んど絶望的で、何かの間接な媒介を必ず必要と
する。しかしてこの媒介をする案内人は、牛面にはよく西洋人を知り、牛面には日本人を知つてる所の、和洋
南語に通ずる混血児でなければならない。
印度人! 東西南洋の橋である印度人は、現賓における最も善い案内人であるだらう。彼等は半ばアリアン
人種で、牛ばは純粋の東洋人である。今もし僕等の仲間に於て、印度人のやうな人が居ないだらうか? その
血液だけが東洋人で、その情操が欧洲人であるといふやうな。我が野口米次郎氏が、丁度その求めてゐる人で
ある。日本を西洋に紹介する目的からは、彼ほどに通常な人はまたとない。もし純粋の「桝辞されない日本」
を生地で出せば、到底外人には理解されない。これを欧洲語に翻詳して、或る程度まで解り易くして紹介する
ことが必要である。そして野口氏はこの聴明な紹介をあへてし得る一人者である。
烏は煽蠣に言つた
お前は私の仲間でない。
獣は蠣蛸に向つて言つた
〃j 詩論と感想
お前は私の仲間でない。
〃イ
丁度これがヨネ・ノグチ氏の悲劇である。我々から見るならば、野口氏の詩はあまりに西洋臭く、民族の情
操性にぴつたり合はない不満がある。この逆が、また歌洲人から見た時の不満であらう。しかしながらまたそ
れ故に、彼の肇術はいつも僕等に新しく、いつも太平洋からのさはやかな潮風を感じさせる。まるでちがつた、
別の感じ方の詩があるといふことを、氏の奉術によつて教へられ、或る何かの貴重な教訓をうけるのである。
現詩壇に於て野口氏が特異の地位と権威をもつ所以が此虞にある。
二重囲簿者としての野口氏は、それの立場からしてエトランゼで、またヂレツタンチズムである。彼はいつ
も母国観光囲員の眼で日本を見てゐる。彼は汽船の甲板から、珍奇と驚異の情で富士を見てゐる。そして人力
車で京都を見物し、キューリオスの横文字看板を出した店に歌麿や俳像を見つけてくる。或はまた洋服にケサ
をまとつて縛宗の山門に参挿する。
この詩人的ヂレツタンチズムは、野口氏の人生観に於ても一貫したテーマを有してゐる。氏の人生に対する
態度は、常に少年の熱情性と生眞面目な好奇心とに燃えてゐる。今の詩壇に於ても、彼ほどに人生を深く愛し、
感じてゐる人はすくない。しかもその態度は常に傍観者としての地位にゐる。人生に於ても、彼はまた」甲板の
上に立つて見物してゐる。彼自身の山頂に立つて歌つてゐる時でさへも、領一のキューリオスとして、彼自身
の存在を考へてゐる。丁度才智のある少年が、存在のいつさ小に飽くなき好奇心をもつてるやうに、丁度さう
いふ情熱 多くの西洋人は、一憶にこの種の少年的情熱を多分にもつてる。彼等が珍奇な骨董品などを晩ぷ
のも、皆この若々しい本性のためである。この鮎、日本人の骨董いぢりと西洋人の骨董好きとは、全く情操が
正反対だ。一は「子供らしさ」 の本性から、一は「老人らしさ」 の本性から。Iを有してゐる。賓にあらゆ
る人生の存在が、野口氏にとつては物珍らしさうに眺められてゐる。彼はたしかに「人生の詩人」ではあるけ
● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
れども、人生の中に感じてゐる詩人ではなくして、人生の外に立つて、しかも人生への情熱を有してゐる帝人
である。即ち一言で言へば、彼の本領は熱情あるヂレツタンチズムである。科学者が自然の研究に関してもつ
てるやうな、または異国の放客が人生に封してもつてるやうな、一の無邪気にして生々とした好奇心、傍観者
としての熱情性、即ちそれである。
最後に野口氏の最近詩集「表象抒情詩」は、従来出版されたる氏の日本語詩集中で、格段に出色した詩集で
あつて、恐らくは過去における氏の詩壇の絶収穫とも見るぺきだらう。この詩集に於て、日本語詩人としての
氏は、その行くべき道の絶頂に達した観がある。野口氏の哲学、野口氏の情操は、すべてこの一巻の詩集に完
全にエキスされて、正に蛮術的境地の高調に達した観がある。この詩集に於て、氏は始めてその常に観念して
ゐる「東洋的イデヤ」を蜃術に表象し得たやうに思はれる。
この詩集の償値は、既に前に遽ぺたやうに、眞に「充質した内容」をもつてゐることである。その詩の一つ
一つが、野口氏の濁自な哲畢を語つてゐる。何よりも「思想」を有してゐる。この 「思想をもつ」といふこと
は、西洋の詩には普通であり、ポドレエルでもイエーツでも、彼等の詩には必ず何かの思想、即ち「冥想風に
観念されたもの」を有してゐる。しかるに日本人の詩にはその思想が殆んどない。現在する代表的詩人の作を
みても、多少とも哲挙らしきもの、観念らしきものを根抵にもつ詩を書く人は一人もない。これは賓に民族性
の俸統的本質によるのであつて、昔から日本人は冥想を持たない国民である。日本は「言あげせぬ園」といひ、
一切の論理や思想を排斥した国民である。特にまた我が国の詩歌は俸統的にさうであつて、歌にも俳句にも、
観念らしきものをさらに入れない。尤も芭蕉等の俳句には、しばしば観念風の想が混じてゐるが、彼等の表現
はそれを純粋の気分に風化し、表面には全く意識できないほど情調化してしまつてゐる。たとへば「台地や蛙
〃∫ 詩論と感想
l−1
飛び込む水の音」「この道や行く人なしに秋のくれ」等の如く、本質には冥想風の観念を寓してゐるけれども
詩としての表現は純粋の風物詩で、畢に自然の情景を叙したもののやうにしか思はれない。
かういふわけで、日本人の詩には意識さるべき観念がない。それはまた我が国の詩歌の特色で、象徽主義の
絶対的至墳として世界に誇るぺきものであるか知れないが、その長所はまた一面からの映鮎でもある。現代の
僕等が住む新日本詩壇には、多少蕾慣を打破した新株式の詩、即ち西洋風に観念を取り入れた詩があつても好
いと思はれる○野口氏の「表象抒情詩」は、この鮎で非常に珍らしく、日本現代の詩壇に於て貨に珍奇とすぺ
きである0「観念をもたぬ日本詩壇」は、或る意味で甚だ無内容なものに近く、一面にはそれが日本詩人の思
想的無能性を澄明してゐる。特に散文詩に於てさうであつて、元来散文詩といふものは、叙情詩に比して一層
露骨に、作家の人生哲学を打ち出すべきものであるのに、日本の詩人には一も深遠な観念が無いために、彼等
が散文詩を書く時にその醜態を一層ひどく露出してしまふ。
野口氏の「表象抒情詩」は、この意味で日本詩壇への教訓であり、西洋の長所に就いて学ぶ所の多きを僕等
に敦へてゐる。十九世紀の末葉、彿蘭西に象徴主義といふものが唱へられ、マラルメやイエーツ等の詩人によ
つ.て所謂「象徴詩」といふのが作られた。しかし彼等の所謂象徴詩は、我々日本の詩歌に此して甚だし・く観念
的のものであり\もし芭蕉等の俳句を眞の象徴詩と言ふべくは、彼等のものは「観念叙情詩」とも稀すぺき顆
にすぎない0それは象徴重患としては生硬で未熟なも町にすぎないけれども、却つて我々の学ぶ所は、その生
● ● ●
硬で未熟な所、即ち冥想風の観念を露骨に打ち出してゐる所にあつた。野口米次郎氏の詩が、丁度この西洋流
か針針少尉 即ち僕等の言ふ観念叙情詩を見本的に示してくれる0
西洋人が、もし野口氏のこの詩集をみたならば、彼等は直ちに「神秘的な暗示にみちた純粋に東洋的な象徴
誇レと呼ぶだらう。しかるに僕等は正に反封であり、それからして西洋詩の珍らしい新操式を学ばうと考へて
〃古
ゐる。僕等にとつてそれは「東洋的な象徴詩」ではなくして、逆に「西洋的な観念詩」である。これほどにも、
賓に我々と西洋との間には驚くべき間際がある。いつ、どうして、だれがこの眞杢を埋めるだらうか? 思ふ
● ● ● ● ● ● ●
に印度は東西南洋をつなぐ橋であり、そして我が野口氏が、丁度日本のタゴールに比喩される。音際の所を言
へば、彼の詩墳は日本的でなく、また純の西洋的でもない。彼はこの中間に居る「印度人としての東洋人」だ0
讃者は、既にしばしば西洋人によつて評論されたヨネ・ノグチ論を見たであらう0そしてそれらの有名な外
国人の評論が、いかに僕等の現に見てゐる野町米次郎氏とちがふかを知るであらう0ヨネ・ノグチ氏は、西洋
にあつては一の「神秘」であり、日本にあつては一の「現賓」である0僕の此虞に書いたことは、イエーツ氏
その他外囲詩人の評論と全く別のものである。もしそれらの外国人が僕のこの一文をよんだならば、世にはい
かに異つた観察者もあるものかと恐らくは意外の感に打たれるにちがひない。
(追記)
思想家としてのヨネ・ノグチ氏は、最近しきりに国粋主義を力説し、現時の欧化しっつある新日本の雑駁と悪趣味を攻
撃してゐる。かうした氏の論文は、いかにも詩人らしい熱情に充ちたもので痛快だが、論旨には一の根本的矛盾がある0
即ち野口氏のイデヤしてる日本の実は、鳥居や、富士山や、ゲイシヤや、ミカドや、俳句や、能楽や、歌麿や、禅宗山門
ゃの、すぺて外人の旗行記に印象される日本の美が、そつくり檜巻物に展開された日本であつて、我々現代の日本人が、
自ら印象してゐる日本 日本人の見る日本−でない0つまり言へばヨネ・ノグチは、外図観光園が日本を許し現代の
欧化を嘆くやうに、それの立場で囲粋主義を唱へてゐるのだ。
資に野口米次郎氏は、どこまで行つて鴻エトランゼで、不思議なエキゾチックの詩情に充ちた、日本の奇蹟的人物であ
る。彼自身は気質的の外人であり、そして外璧仰の文法による詩を書き、外人流の考へ方をする詩人でありながら、観念
上では反対に1呑むしろそれ故に 日本の欧化を嘆いて国粋主義を構へてゐる○賓にヨネ・ノグチにとつては、日本
〃ア 詩論と感想
この頃諸方で山村暮島民の追悼が催される。あの孤濁なさぴしい詩人、すぐれた天分をもつて異常な仕事を
残しながら、不幸にも人気の無かつた詩人、資力だけに認められず、誤解と誹誘の中に世を去つた鬼才詩人、
丁度ショーペンハウエルの生涯を思はせる所の、天才不レ容〆せの暮鳥のために、遅まきながら世間の識者が哀
悼の喪章をつけてくれるのは、この冬峯の下に於て、特別に悲しみの影がながい。
暮島は私の嘗知であり、私の詩の最初の知己であつた。彼がほんとに子供らしい心で、私の貧しい詩に感激
しては、熱線のやうな讃鮮をハガキで飛ばしてくれるので、その頃の私はどんなに張合ひがあつたかわからな
い。ああいふ有りがたい友といふものは、めつたにあるものでない。だれもさうであるが、人が生きてる中は、
肉親の愛でさへも為りがたみが鰐らない。友人なども、生前には何とも思はず交際してゐるが、死んでから始
めてその友情の深さやなつかもさが、しみじみと日ましに鮮つてくるものだ。
暮鳥の私に対して示してくれた友情なぜも、このごろになつてしみじみと思ひ出される。生前彼に封して私
のしてゐた冷淡な態度などが、封手の眞情に封して封照的に考へられ、すまないと思ふ心でいつぱいである。
暮烏のやうなありがたい友人といふものは、もはや決してあるものでない。いろいろ彼が僕のために蓋してく
れたことを考へると、感謝の念でいつぱいになる。特に私にとつて忘られないのは、北原白秋、室生犀星の二
民と共に、.彼が私の詩の最初の知己であり、私が無名でゐる頃から、世に先立つて自分を認めてくれたことで
ある。この徳は一生自分に忘恩できない。
暮烏は姶め「自由詩杜」の同人であり、南士幸次郎、加藤介春、人見東明の諸氏と結社し、常時「象徴詩
汲」の全盛詩壇に叛逆して、之れと全く反封の主張にたつ所の「人生詩汲」の旗下に属した0この「人生詩
汲」なるものは、そのイズムの主張からみても、また詩の本質的意向からみても、少し後に輿つた僕等の「感
情詩汲」と血族的に符合した精神に立つてるもので、涌土民、山村氏、加藤氏等の詩境から知れる通り、言は
ば「感情詩汲前渡」と皇ロふべきものであつたのだ。(伶このことに就いては別の横合に詳説しょう0)
かく「人生詩汲」と「感情詩汲」とは、本質的に姉妹詩汲の関係にあつたので、後に人生詩汲に属する詩人
達が、僕等の詩汲に共鳴しで大てい「感情」の寄稿家となり、或は準同人となり、璧息ある同志となつてくれ
たの▲は官然の行きさつである。山村暮烏もまたその一人で、自由詩祀の解散後は、個人的の雑誌を主宰しなが
ら、一方に雑誌「感情」の準同人として、さかんに僕等のために饗援してくれたのである○
暮烏の詩人的経過は、大懐これを三期にわけ得る。第一期は「聖三稜破璃」の鋭角時代○第二期は「風は草
木にささやいた」の人造主義的時代。そして第三期は「雲」の虚淡時代である0
以上三期の攣化を通じて、彼の詩才に最も異常な光芭が現はれたのは「聖三稜破璃」の時代である0この驚
くべを詩集については、眈に既に私が雑誌「感情」で評論し、且つ幾度もそ\の償俺を世にすすめた○昔時、伶
甚だ因襲的で新奇のなかつた詩壇に於て、かくの如き詩の創造は驚嘆すべき大勝であつた0世間は暮鳥の詩に
驚ぎ、呆然として言ふ所を知らなかつた0そして詩壇はいつさいに之れを採斥し、至る所に嘲笑と悪罵とをも
って迎へ。られた。その世評の一般はかタであつた。難解! 晦漉! でたらめ! ヨタ! 思ひつき! 不可
鰐! ガラクタ・・詩の冒涜者! 遊戯作家! 本質なき詩人! 葬れ! ウソ!
〃ク 詩論と感想
おょそ明治以来大正の今日に至るまで、ずゐぶん多くの「悪評ある詩人」も世に出た。しかし山村暮鳥の如
←、詩壇の嘲笑と悪罵を一身に負うた作家は無からう。四面皆賛歌の饗。よく暮烏はさういふ意味の感激をも
らしてゐた。それが少しも誇張でなく、文字通りにさうであつた。詩人といふすぺての詩人は、轟く皆彼を悪
評した。暮烏が唯一の友であり、その同じ詩汲の同志たる礪士幸次郎君さへも、しばしば暮鳥の敵に立つて攻
撃した。
天才が世に認められず、生前孤濁で終るのは、世界の歴史を通じてありがちの事賓である。たいていの天才
は、世間の嘲罵の中に生を経つて、死後何年かの後に漸くその眞償が饅見される。暮鳥の生涯がまた天才の常
規であつた0彼は寂しく磯濱の煙になつた○しかしその名著「聖三稜破璃」ば、永く臥本の詩壇に残るであら
>つ0
常時の世間、香詩壇が彼の詩を理解せず、冷笑して不可解のネゴトと言ひ、でたらめのヨタと言つたのは、
今の常識からみて驚くぺき燕智である。
卓上なみながれ
とか
冬は臍の眼
とか
強盗側臥
J20
とかいふ類の特挽の詩句が、虚時の詩壇の常識に根本から坂逆して−いかに詩人等の反感と恰みとを寛りたか
は、今の詩壇では想像もできない不思議である0しかも此等の詩語の故に、暮烏が詩壇の迫著をうけたことを
考へれば、まことに前世紀の夢を見る心地がする○それほど今の詩壇は攣つてきた0そして此の「攣化」に動
● ● ● ● ● ● ●
横をあたへたものは、資に我々の勇敢なる殉教者、新詩壇の犠牲となつた不幸の暮鳥、我々の先髄者でなけれ
ばならない。
僕は賓に彼を「詩壇の先駆者」といふ。何となればその「彗短波璃」は、最近漸く起つた日本的表現詩汲
(マボオ汲のものを指す)の形式を、ずつと早き時代に於て暗示したものであるから0今新しくある詩壇の形
式と精神とは、既に早く暮鳥の表現に牙ばえて居た○この驚くべき事賓をまことに感じ得るものは感ずるだら
う。不要多粁。
ヽ ヽ ヽ ヽ
理解されない暮烏に封し、私は一人でやきもきしてゐた0僕は暮烏に同情せず、世間に対して腹を立てた0
衆愚! この馬鹿な詩壇に挑戦して、彼等が智慧の眼をひらくまで、一人で暮鳥の味方にならうと決心した0
遠く孤濁にゐる友を思へば、僕の義憤は血のやうに燃えあがつたO「詩壇は僕を警戒せょ! 僕は友のために
創を抜いてる。」
しかし暮烏は羊のやうに柔和であつた0そして超人のやうに達観してゐた○彼は決して怒らなかつた0愚痴
一つこぼさなかつた。「知る人だけは知つてゐる0」これが彼の言葉であり、\その意味の中には、私の稚気に対
する憫れみの博さへこもつてゐた。私は彼のために浜をうかべた0
暮鳥はさういふ人であつた。彼は世俗に超然とし、自分だけの境地に楽しんでゐた0某汲を結び俗衆に媚び、
ヽ ヽ ヽ ヽ
名饗にこがれてあくせくとしてゐる時漁の詩人輩に較べれば、まるで素質からしてちがつてゐる0彼は眞の意
味での蓼術家であつた。そしてその故に、生涯を田舎に埋れて詩壇の樺勢と関係なく、資力あつて虚名なき孤
∫2∫ 詩論と感想
寂の一生を経つたのである。
詩集「撃二稜披璃」は、内容に於ても形式に於ても、昔時の詩壇に比顆なき純濁創的のものであつた。蜃術
の償値の第一義は「創造」にある0そして暮烏の拳術が、賓に創造にみたされたものであつた。その詩とスタ
イルと情操と、共に前人未饅のもので、不思議の詩想と才気にみち、鉄人の追従を許さない濁創特異の境地を
ひらいた○詩集「聖三稜破璃」は、この鮎だけでも日本詩史に不朽の眞償を有し、永く詩壇の記念堵として残
るだらう。
しかし暮烏の初期の詩境は、この詩集に於てその行く所まで行きつくした。彼の濁自な拳術は、一先づ此所
に完成されたのである0次いで一縛横が爽ねばならない。彼は青島の蝶顆に攣態する如く、きれいにその一切
の蕾態を捨て、新しき別の詩境に進んで行つた0彼の第二期の新境は、詩集「風は草木にささやいた」等によ
つて代表されるもので、全く従来の詩風を一欒した0世人はその欒貌の甚だしきに驚いたが、依然として人気
がなく悪評が一般に高かつた。
彼のこの新しき詩境は、常時の文壇に流行してゐた白樺汲の博愛教(トルストイズム)から、多少の刺戟と
動因とを得たやうに周漑れる。常時僕等の感情諸政でも、同人中室生犀星が、蒜トルストイズムの影響をう
けトその「愛の詩集」には博愛敦のセンチメンタリズムが高かつた0山村暮島の「風は草木にささやいた」が、
之れと前後して出たものであり、感情詩紅の準同人たる地位からみても、常時償等の肇術的友誼がいかに親密
であつたかが想像される。
かくの如く暮鳥の第二詩墳は、いくぶん文壇の時流的影響を受けてゐた。多少のトルストイアン的情操も混
入してゐた0しかもこのことは、彼の濁創的名著を傷つける理由にならない。何となれば彼の文壇思潮から得
たものは、単にその変位の時期における、詩情の動力にすぎなかつた。暮烏はもとより人間愛を歌ふ詩人でな
J22
■▼
い。彼の本質は自然愛の詩人である。されば「風は草木にささやいた」.の一巻はもとより何等樽変数的のもの
でなく、それとは全く別の情緒によつたもので、大自然の力、重心、構想、意匠、及びその意志の現象を歌ひ
● ● ● ● ●
出してる。この詩集の著るしい特色は、特に自然の意志的現象を表象したことの創意にある0即ち自然界にお
ける風景の物理的構成、そのカの重心、植物界の意匠、鋸物の結晶性、物質の惰性、魚介の習性等が表象する、
自然界の意志−ショーペンハウエルの意志哲挙が、そこで意匠を暗示してゐる0 を鋭角的につかみ出し
てる。
かく内容的に観察すれば、暮鳥の第二期における攣化は、何等本質的の豹攣でなくして、畢忙詩のスタイル、
表現の様式上における攣化にすぎなかつたことが解るのである。見よ「聖三稜披璃」に現はれたる初期の詩想
ヽ ヽ ヽ ヽ
は、次の時期に於てもそつくり満足に現はれてゐる。「聖三稜破璃」に盛られた詩想は、資に自然界の重心に
突入する、智慧の不思議なイマヂネーションに外ならぬ。即ち風景のもつ三角帆影(自然界の幾何学的意匠)、
光る噂水(光線の美挙的屈折)舟山に登るサラサ固案(建築意匠)、それから様々なる魚介の習性、植物界の
生態、鋸物の結晶性等に関する特異な観照であつたのだ。言はば「聖三稜披璃」の詩想は、一の物理寧的、光
寧的なる、そして特に幾何学的なる自然の立饅圃案であつて、檜董におけるキューピズムの精神と通ずるもの
がある。故にこの鮎から、暮鳥を稗して「日本立饅詩汲の組」といふ人あらば、異に官てた卓見である0我が
国にも宮洋の立饅詩汲を輸入した人があり、自ら栴して日本立膿詩と栴しでゐたが、吾人の見る所によれば、
それは西洋立髄詩の智慧なき直詳であり、単に皮相の形式を模したるのみで、蟄術的に殆んど濁創のないもの
であつた。日本の詩は日本人の創造たる所にそれの本有的なる意義を有す。西洋詩汲の皮相な形饅を輸入した
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ものは、直浮立饅詩や直詳未来詩ではあるだらうが、日本立慣詩、日本未来詩とは言へないだらう0山村暮鳥
の「聖三稜破璃」は、純粋に濁創の拳術であり、西洋人の敏明を模倣したものではない0しかもそれは外国の
∫2J 詩論と感想
立慣詩汲のやうに、浅薄なる給費形象に訴へるものでなく、その美挙の原理を徽底させ、ずつと自然を本質的
にキューピシハ√したものである○即ち西洋のキューピズムが「形式的立饅詩」なるに封し、暮烏のそれは
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「精神的立慣詩」である0そして此所に日本立膿詩の西洋にまさる長所と特色、東洋拳術の特異なる償値を標
梼するに足る。
かく「聖三稜披璃」における此等の詩想は、そのまま饅展して次期の「風は草木にささやいた」その他の詩
集に移つて行つた〇二期の詩篇中、彼の代表作と稗される起重機の詩その他をみても、依然として彼は「自然
の物理的重心」にその詩境の封象を求めてゐたのは明らかだ。初期に於ても二期に於ても、彼は依然として人
間愛の詩人でなく、自然を対象とする詩人1廣義の自然詩人1であつた。ただこの間の攣化をみれば、ひ
としく自然を封象とすると言ひながら、その「自然」の観念に攣化を生じた。初期の「聖三稜波璃」時代にお
いて、彼の観照した自然なるものは、物質、光線、電気、磯城、人工物、建築、魚介、衣服、人饅、エネルギ
ー等を含む所の、最も廣き意味での自然であつたが、第二期以後の攣化にあつては、一般に人工物の封照とし
て言はれる狭義の自然、即ち森林、原野、大地等を概念する所謂「天然」を封象とした。
この「廣義の自然」から「狭義の自然」へ彼の詩境が移攣した経過については観念に浮ぶ表象が絶論から分
乱に移り、概括から分析に移つた為の推移であつて、彼の天性が正に行くぺき結論に到達したものに外ならな
● ● ● ● ●
い0詳説すれば彼は好め科挙者の如くに自然を眺め、後には眞の詩人の如く見直したのである。科挙者は自然
を観察するのみでこれに愛情をもつことがない○愛によつて自然を見るのは詩人である。そして「凰は草木に
ささやいた」以後の暮烏は、従来の科挙者的態度′を捨て、温情ある愛にょつて自然を眺め、草木や海洋やの生
気に親しく心を解れてきた0もちろんその特異なる幾何学的観照の態度に於ては依然として固有のものを績け
でゐたが、かつて無かつた愛の情緒が今度のものに加はつてきた。そしてそれだけ、詩に情味と温かみが加は
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っセきた.しかしながら1表情感性は、一方で彼の濁自の境地たる詩の鋭角性を傷つけ、感傷で智慧をくもら
せ、しばしば詩の良質を傷害した。
彼の二期における詩が、スタイルにおいて急激の攣捧をし、キューピズムから一攣してホイツトマン流の詩
饅になつたのは、昔時詩壇の奇として怪しんだものであるが、上述の如き詩想の内容的攣移を考へれば、むし
ろ官然の形式を官然の表現に選んだものにすぎないのだ0即ち自然への直線的構成主義は、愛の情緒によつて
曲線的に柔らげられた。しかして彼が、この「愛」を畢び得た動機は、おそらく時流の博愛敦から暗示された
感化であり、ただその鮎でのみ、白樺渡の文壇思潮が彼の感受瞥に取り込まれた○しかもただこの鮎でのみ0
況んやその愛は人間に向はずして自然に向つた〇二期の暮鳥を人道渡詩人に顆現することの曲見たるは、これ
によつて充分だらう。
しかしながら彼の第二期における詩壇は、全慣として未熟なものにすぎなかつた0「風は草木にささやいた」
その他の詩集は、拳術的償値の上で、逢かに「聖三稜披璃」に劣つてゐた0策謀此等の詩集は、充分の濁創
性をもたなかつた。もちろん濁自の詩墳はあつたけれども、内容スタイル共にやや平凡で、嘗睦二般に行はれ
た他の多くの詩風と、特に著るしく攣る所が見えなかつた0これを第一期における「聖三稜破璃」の創造性、
その全く類型なき濁自のスタイル、最も特異性ある稀有の内容と比較すれば、二期のものは月の前の星の如く
平凡にして微攣殆んど光を失つてゐた。思ふに第二期の心境は、次の第三・期に移る過程であり、言はば「未
完成の時代」にすぎなかつた。
暮鳥の晩年における収穫は、賓に詩集「雲」の一巻であり、これが第三期の攣化として、彼の詩人生活の終
局を結んでゐる。
詩集「雲」は、東洋的虚淡の詩境に立つもので、彼の冥想が正に行きつく所に行き蓋した詩集の観がある0
ノエラ 詩論と感想
始め萬有的自然詩人に出磯し、次に自然の愛に入つて天然詩人となつた彼が、最後に到着すぺき心境はどこだ
らうか」既に大自然と相封して、之れに人格的の愛情をよせた詩人は、二躍してさらに自然との相封を超越
ヽ ヽ ヽ ヽ
し、自然それ自身のふところに投入して、老子の所謂至人虚淡の心境、即ち絶封的自然人の宇宙に出るのは官
然である。
詩集「雲」は、しかしながら冥想的のものでなく、むしろ小曲風の軽い情趣に富んでゐる。この詩集には西
洋風のイメーヂがない。純粋に東洋的の気分であり、和歌俳句等の国粋詩歌とも、情景相通ずる顆の詩集であ
る0しかもそれだけに虚淡の峯漠たる情趣、杢気の如く雲の如く、標砂模糊とした心境が感じられる。けだし
暮烏が最後の縛横として、この一詩境に到達したのは、次に述ぺる如き彼の人間的天質からして、一層必然の
因果が感じられる。川路柳虹氏が「雲」を許して暮鳥の完成期を語る詩集と言つたのは、けだし至言と言ふべ
きだらう。
暮烏の詩と人物とを通じて、素質的に著るしく感じられるのは、その性格の素朴で子供らしいことである。
この「子供らしい」といふ言葉は、善い意味にも悪い意味にも使用される。悪い方の意味では、幼稚や低能へ
の軽蔑を示してゐる。反封に書い意酪では、純粋でナイーヴな原始的性格を語つてゐる。暮鳥に就\いていふ
「子供らしさ」はもちろん後の方の意味である。
「常識は理智で知り、詩人は原始本能で知る。」といふ言葉がある。この場合の「知る」といふ語には、むづ
かしい認識論上の議論もあるだらうが、とにかぐ詩は常識を超越した所に意義を有する。しかるに理智はいく
ト考へても常識の範囲を出ない。(理智の孝問たる哲学さへも、つまりは常識にすぎないのだ。)詩人の智慧は
理智から来ない。一のナイーヴな、本能的な、感じ易い、ふしぎな原始的心情に属してゐる。そしてこの原始
本能は、子供に於て最もよく現はれてゐる。故にすべての「生れたる詩人」は必然的に子供らしき素質を有し
J2古
てゐる。尤も詩情の智慧の素質は、子供の畢純な原始本能とはちがつてゐるが、しかも極めてょく類/似したも
のであるから、詩人が素質的に子供いいa風貌を有するのは官然である0
山村暮島は、賓に 「生れたる詩人」である。そしてとりわけ子供らしき心情の所有者である。その子供らし
き心情は、自然のあらゆる現賓を生々しい姿で見る。理智で認識しないで本能的な神経で見る。だから必然的
に認識が生新しく、常識の想像のできない特異のもの − 常識はそれを神秘といふ1を饅見する。故に「子
供らしき性情」は、必然にまた神秘的な風格を表象する。露西亜にソログープといふ散文作家の詩人がゐる。
彼の特質は純粋の子供らしさで、常識の思議できない神秘な世界を重いてゐる。ソログープは「紳秘的子供」
と言はれてる。そして山村暮鳥がさうである。
暮島の詩の一般的なる特色は、賓にこの子供らしき心境の素朴さにある。しかし就中、彼のこの天質を本領
的に示してゐるのは、初期の詩集「聖三稜披璃」と、晩年の詩集「雲」とである。特に「聖三枝破璃」を讃ん
だ人は、いかにソログープ的な子供らしさを、著者の心境から感ずるだらう。彼のあらゆる自然観照は、一の
奇異なる幼兄の心像、稚兄の夢に見る素朴な世界の表象である。たとへば自然界の意匠について、暮鳥の心像
はいつも「赤んぼのへそ」であり、風景の実は「章魚つぼの貝」であり、檜真の囲案は「舟山に登る」奇想で
ある。彼の詩境のあらゆる本質には、いつも劫兄の玩具箱がひつくりかへつて、神秘的なる童話の夢魔がみた
されてゐる。
すぺての 「子供らしき心情」の本領は「稚拙」である。もつと丁寧に言へば「魅力ある稚拙」である。そし
て暮鳥の奉術ほど、善い意味での稚拙といふ言葉にあてはまるものはない。資に彼の特異なスタイルを有する
詩は、これを「素朴」と言ふょりも「稚拙」といふ方の感じに適合してゐる。その言葉はぶつきら棒で、リズ
ムは途中に寸断され、語草に巧みなく、聯路なく、一言で言へば子供の描いた稚拙の檜に顆してゐる。下手カ
′2ア 詩論と感想
スの檜、拙劣の檜、.無技巧の檜、それでゐて原始的な力強い印象をもつて迫つてくる。然り、暮鳥の詩のスタ
イル土そ、.正に「子供の描いた檜」の肇術化である。
子供の天才! 子供の神秘詩人たる山村暮鳥は、いつもまた子供のやうに大自然を観照してゐた。いつも自
然の中にのみ、彼は嬉々として遊んでゐた。山中の老仙、白髪童顔にして稚兄に似たりといふ形容は、我々の
暮鳥の人物をしばしば想念させる。彼の晩年の詩集「雲」が、老子的虚淡の心境に近づいて行つた経路を暗示
するのもまた嘗然の次第である。しかして彼が一面に童話作家であつたことは、より一層また官然である。彼
の書いた童話の数は、その詩集に逢か数倍してゐる。これ一には生計のためであつたが、もとより童話が彼の
気質的本領であつたことは尿ひない。本来、すべての詩人は童謡作家たる素質を有す。「詩」それ自饅すらが、
見方によつては季術的童話とも考へられる。けだし詩人の世界と子供の世界とは、本質的に顆同したものであ
る故。そして暮鳥の場合では、これが天質的に一層両者を接近させた。
自然詩人としての暮鳥は、しかし人間に封して興味をもつてゐなかつた。けだし人情にうといのは、詩人的
性格の一の範疇に廃してゐる。概ねの詩人等は子供らしき心情を有してゐて、原始の自然に嬉戯することを悦
ぶけれども、小説家の如く人情の機微にふれて、現賓世相の俗界を観察描馬する事を悦ばない。詩人の天性は
子供と同じく常に「非現質的なもの」への好尚に向つてゐる。そしてそれ故に、また「非人情なもの」rでさへ
ある。しかし彼等の非人情は、人情を解しない冷血漢の不人情でなく、夏目先生の所謂「詩人的非人情1人
情を超越した非人情」である。暮島の人間に封する漫興味が、またこの詩人的非人情に素因してゐる。
暮烏は基督敦の牧師であり、政令からの俸給で衣食してゐた0しかし多くの蜃術家と同じやうに、彼も天質
的の無神論者であつたやうだ。むしろ汎神教徒であつたにしても、彼が基督敦の信者であつたとは考へられな
い0この「基督を信じない基督教の俸道者」が、政令に於てする説教は、ずゐぶん奇妙なものであつたと思は
ノ2β
れる。侍鞠する所によれば、しばしば神を香定する如き異端的の言を吐いて、熱心な信者や軟骨から反感され、
たびたび諸方で追放されたといふことである。
しかしながら暮鳥自身は、彼自身の見たる如き、ちがつた意味での基督教を信じてゐたにちがひない0彼は
たしかに「教合の基督敦」を信じなかつた。しかも彼自身の解繹による、彼自身のバイブルの言葉の中に、一
の濁創的なる耶蘇教を磯見して、芙と眞理とにみちた聖塵を信じてゐたにちがひない○
暮鳥の信じてゐたイエス・キリストは、思ふに恐らくは成人のイエスでな〜天国は此所にありと言はれた
る、かの劫なき稚児のイエス、聖母マリヤの手に抱かれ給ふ耶蘇の劫な兄、馬屋の中に生れ給ひしナザレのイ
エスであつたらう。そして彼の夢にみる信仰の十字架は、僧侶と教禽の常識を表象する十字架でなく、かの妖
しげなる詩実にみちた幼児礫刑の十字架であつたらう0或は原始基督敦が秘密町時流たる「魚」の表象こそ、
彼の賓のキリストを暗示するものではなかつたか?
ともあれ詩人山村暮烏は、かくの如くしてその生活と仕事を経つた0彼は私と同じく上州の平野に生れた0
そして水戸に近き磯濱の海岸に生を迭つた。さればイソハマの詩人は、血統的に上州の詩人でもある0彼の血
統には私と同じ地方の特殊質が流れてゐる。この素性の故に、私は特に彼と親しく、だれにもまさつて暮鳥の
心境を理解してゐる。友よ! 先進者よ!
だが今はこの世に生きてゐない人だ。彼のために千古の言をつらねて、かLかる追懐や評俸を書いた所で、そ
れが死んだ暮鳥の何にならう。さしも寂しく人気のなかつた不幸の友も、今や漸くその眞傾が認められ、若い
人々が世に先だつて哀惜の節をつくしてゐる。今後幾数年を躍る中には、思ふに一席彼の名筆があがつてきて、
千古に惜まれる詩人に列俸するかも知れないのだ0ああしかし、すべてそんなことが何にならう0死んだもの
は締らない。生涯の不幸はそれの墓場と共に地下にうもれて、再びまた取りかへす望みもない0窮乏と病気と
∫2ク 詩論と感想
の中に、不如意な一生を経つた暮鳥は、死後もまた永遠に不幸な人である。
「ただ生ある中にのみ、我等の楽しみをつくせかし。」
エビクロスは何を我々に敦へたか↑ そして支那の詩人は歌つた。死後千歳の芳名は生前一杯の酒に如かず
と。既に不幸の中に死した友を弔ふのは、彼を二重の意味で不幸にする。ほんとに死んだ友を弔ふ穫儀は、瓢
つて酒を飲みながら、しづかに涙をながすのである。さらば浜は友のみのためでなく、自分の身の上のために
も流れるだら>つ。
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