日本詩歌の象徴主義
 美術や演審や、あらゆる東洋蜃衝の本質が象徴主義であるやうに、我々の国粋詩歌の本質がまた象徴主義に
立脚してゐることは言ふ迄もない。吾人は此所でやや詳しく之れを説きたいと思ふけれども、他日別に稿を改
めて「自由詩の根本問題」を論ずる時に、二度重説せねばならないからして、此所では根本的な議論は略して
おく。
 ともあれ日本の民族詩歌が、西洋のものに比していかに直感的で、いかに印象的で、そしていかにメタフイ
ヂカルであるかは、特に説明を要せずして明らかだらう。賓に和歌や俳句の如きは、世界に於ける象徴文寧の
樋粋であり、到底西洋近代の印象詩の如き生ぬるいものとは比較にならない。したがつて此等の詩は、概念的
な西洋人にとつて容易に理解することができないのである。
 西洋人が、近来著るしく我々の象徴主義に近づいて来たにかかはらず、筒音には未だ遠い距離にあつて、少
しも眞の純粋象徴を理解して居ないことは、しばしば彼等によつて説かれる俳句の象徴主義(?)が、その賓
∫∫ 詩論と感想

我々の中での月故俳句で、たとへば加賀の千代女の
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蝶々に去年死したる犬樽し
身にしみる風や障子に指のあと
蛸蛤つり今日はどこまで行つたやら
の如き小説的、叙事的のもの、もし(は芭蕉前渡の
 長持ちに春かくれ行く衣東
  口あけば腹まで見えるアケビかな
 物言へば唇さむし秋の風

等の如き幼稚な寓意詩や比喩詩であるのを見ても明らかだらう。西洋人の所謂象徴とは、畢責我々の意味での
寓意や比喩に止まるので、未だ眞の象徴に至ること逢かに遠いものである0かのボドレエルの詩の如きむ、多
くはこの程度の寓意や比喩にすぎないので、彼等の所謂象徴詩が、以ていかに不徹底の鴻のであるかを知るぺ
きだらう0我が芭蕉が、特に象徴詩人として西洋に紹介されてる所由のものも、費は芭蕉の俳句中に、上例の
如き概念的な寓意詩が比較的に多いためである0しかも芭蕉の眞髄たる眞の象徴詩境に至つては、彼等欧洲人
の全く知らない所であり、また知つでも遽に理解することの出来ない秘密であらう。
  「
秋決き隣は何をする人ぞ
何にこの師走の町へ行く鵜
 かうした芭蕉の俳句こそ、我々の意味での眞の象徴である。それは何の説明でも描馬でもなく、しかも深遠
無量な人生観や、或る複雑な意志をもつた生活感情やが、非常に力強い主観の感情を以て訴へられてる0その
詩的表現の印象的救果に於ても、または情緒的教具に於ても、到底西洋のくどくどした説明的の詩とは比較に
ならない。のみならずその短かい詩中に、敷石行を以て説明できない複雑した思想と充賓した意味が語られて
る。之れがボドレエルなぞの詩ならば「甲瀕に羽ばたく儀鳥よ。汝の死は美しき秘密を語る0おお、汝は眞理
である。」といふ如き抽象的な比喩によつて露骨なロヂツタ的な概念を語るのである0所詮西洋人の至る所は、
寓意や比喩を以て象徴の極粋とするに止まるだらう。彼等が芭蕉を理解する程度のものも、所詮それ以上には
望み得ない。
 しかし芭蕉や俳句を語ることは、近頃一つの流行になつてゐるし、讃者のよく知つてる所だから止めにして、
此所では人のあまり言はない、別の民族詩たる和歌について述ぺて見よう。
和歌はその印象的客観性の鮎に於ては、いささか俳句に劣るけれども、情緒的主観性の鮎に於ては、逢かに
俳句に優つた長所をもつてる。けだし和歌は俳句とちがつて、音律的の美しい調ぺを豊富にもつてゐるからで
ぁる。それで俳句の印象と和歌の情緒とは、客観詩と主観詩との両面を代表して、丁度西洋に於ける故事詩と
叙情詩の如く、日本国詩の二大範疇を頂すものである。(近頃我が国の歌壇は、正岡子規から出た俳句的客観
主義の歌風に偏してゐるが、之れは歌の邪道であつて本道でない。)
 さて我が国の和歌は、おょそ三期の完成期を経て饅展してゐる。即ち常葉から古今に至り、さらに新富今に
jj 詩論と感想

至つて奉術的克美の極に達した0新古今以後はもはや震すぺき餞地がないから、さらに去の更にかへつ
て新しき出讐繰返すのみであらう0明治以警日に至る新歌壇は、即ちこの〜ネサンスの復古時代に官るの
である0したがつて現時では要が過度に高調され、常葉以来また規範とすぺき和歌がないやうに考へられて
ゐる○しかしながら葺は、和歌の最も床始的時代に於ける出饅鮎で、言はば吾人の少年期における純情小曲
時代に苧る0その偽らざる質感の純情性と、素朴にして熱情に富んだ感傷性とは、もちろんあらゆる奉術的
許償を絶して霊さるぺきものであるが、しかも伶それは奉術の出貰に止まるので、それ自身で遂に滴普
るぺきものではないのだ。
此所に吾人は、萬菓に始まつた日本の和歌が、喜、誓今をへていかに象徴的に進歩震したかを見よう
と思ふ0先づ更に於ては、純情素朴なる青春期の椿愛詩で毒されてる0賓にこの椿愛詩といふものは、東
雪今を通じて詩歌の中心生命となつてるもので、西洋に於てもその詩の七分以↓は之れである。けだしフロ
イドの精神分析挙が説く如く、奉術の本懐は性慾であるのに、警は特にそれの美的に高調されたものである
からだらう0それ故にどこの圃の毒でも、その民族性や表現精神の特色を見ようとするには、何より基づ
樺愛詩を見るに限るのである。
 此所で諸君は、サツホオ等に始まつた西洋上古の警詩(即ち彼の圃の所謂叙情詩)と同じその上古浣ま
つた是の櫻愛詩とを比較して見るが好い○笠の国民性や拳術意識の相違がいかに驚エきものであるか、
けだし思ひ牛ばにすぎるものが頂だらう○西洋の讐詩たるや、「椿そのもの」の心情を歌ふのでなく、賓
には「椿の事件」を記攣るのである0即ちそれは吾人の所謂小説であつて、作者が外部から客観の位置に立
ち、以て樺愛事件の種差るいきさつを記述し、之れを忘檜巻物として展開しっつ説明する。即ちその態度
は全く相封的である0讐は向うにあり、そして詩人は此方に立つてる○然るに要等の橙歌にあつては、詩
∫4
1  「
人自身が「徹そのもの」の絶対墳に飛び込んでゐる。そこには何の相対観がない。故に事件や物語の記述がな
く、詩が直ちに懸そのものの心情を如賓に高調して表出してゐる。賓に西洋上古の懸愛詩、即ち所謂叙情詩と
構するものは、我が国の同じ上古における小説(源氏物語など)の顆であつて、詩といふぺく一段低き程度に
ぁる美文文学にすぎないのだ。換言すれば我々東洋人は、西洋人が普通に詩と呼ぶ程度のものの上に、さらに
一層純粋な詩をもつてゐる。
 西洋人の懸愛詩が、この種の記述的態度をはなれて、我々の和歌の如く直接「懸そのもの」の心情を歌ふや
ぅになつたのは.、最近十八世紀以来の事であつて、彼等としては驚くぺく新しい進歩に属する。しかもその最
                                               、
も近代に属するゲーテやパイロンの懸愛詩ですら、筒我が萬葉等の和歌に此して著るしく説明的で、多くはそ
の逢曳から接吻に至るまでを、活動馬眞的忠茸を以て説明してゐる0
 或は又
私がもし鳥であつたら
君の窓にきて鳴いてゐたい
私がもし鏡であつたら
君の部屋にゐて美しい姿を映したい
と言ふ如き幼稚な比喩を用ゐて、遠廻しに美文的に叙述してゐる。之れを我が萬葉等の直感的で、率直に懸情
の急所を突く詩風に此せば.ハ′その表現の無力にして歯揮いこと、伺未だ香術として遠く及ばないものを感じさ
せる。けだし西洋の懸愛詩人は、椿そのもののメタフイヂカルな貨相的本鰹を把握できないため、いたづらに
j∫ 詩論と感想

その心臓の周囲を廻つて、之れを柏封的な粉飾技巧や美文的比喩にょつて描為するためである。
要の讐歌は、かく貰的にみて最高至の象徴主義に立つてる詩であるけれども、それのあまりに素朴
なる特長は、同時にまたそれの単純にすぎる映鮎を指摘される0奉術は単純より複雑に向つて進む。そして近
代褒術における象徴の時代的意味(いかなる嘉にも、それの不易的の意味と流行的の意味とがある。)は、
          ● ● ● ● ●
本望の意味以外に、琵性としての複置を要求される0即ち象徴主義の近代的特色は、何等か複雑微妙に
してデリカシイの情操に存してゐる0(世人は多くこの時代的意味の故に象徴の本質的意味を誤つてゐる。象
徴の本質的意味は、前に説いた通りメタフイヂツタの絶封主義に存する故に、いかに単純素朴な奉衝でも、東
洋的本質を有する限りには勿論象徴と言ふぺきである0葦の詩がこの本質的意味での象徴であることは言ふ
迄もないだらう0しかし象徴の時代的意味に於ては、近代蕎の特色たる複雑性や神経の濃やかさが要求され
る故に、この鮎では原始の素朴拳術が、それの時代的意義をもたないことになる0つまり言へば高実の歌や能
讐は、本質的には象徴主義の拳衝だが、時代的の味覚をもつた琵象徴主義の蕎とは、その色合や特色が
やや異るのである0この象徴の語に於ける時代的の意味と、不易な本質的の意味とは、充分注意して直別しな
い上、南方の錯雑から大きな誤謬に導かれる。)
そこで慧圃の詩が、近代的意味における象徴の特色を有するやうになつたのは、童以後、後世の古ケや
誓今に入つてからである0童は素朴なる原始的象徴表現にすぎなかつたが、喜集以後に於て始めて感覚
情緒の復讐る、マラルメ等の所謂「陰影」「薫」「飴情」等の入り混つた、近代的味覚における象徴詩が現
はれてきた。
 此所に古今集の代表歌をあげてみよう。
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大宅は態しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらん
をちこちのたつきも知らぬ山中におぼつかなくも呼小鳥かな
 常葉の直情露出に封し、いかに言語が音楽的に使用され、それの標聯たる匂ひの中に一種夢幻的な情緒を匂
はせてゐる心が解るであらう。特に次の一首は全古今集を通じての絶唱であり、最もよくその象徴詩墳を代表
してゐる○し
             さ つ き
  ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめ、も・わかぬ懸をするかな

 今は五月、初夏新緑の時が来た。ほととぎすは杢に鳴いてる。あやめは地上に嗅いてる。ああ、この浪漫的
な季節! 何とも知れず不思議に人を礎したくなる。といふ意味の詩であるが、これほど美しく、これほど力
強く、初夏の季節における微妙な情感を表出した詩は他にないだらう。詩における言語の音韻そのものが、何
と旦呂へず標紗たる感をあたへるので、詠吟してゐる中に自ら新緑のさはやかな杢気や、晴れた青杢のかぐは
しさが感じられ、海のやうな旗情をさそふ季節のロマンチックな感情がひしひしと迫つてくる。
 所でこの歌を文法的に解繹すると、一篇の意味の主題は下旬の「あやめもわかぬ懸をするかな」にあるので、
              さ つ き
上旬の「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草」は、下の「あやめ」といふ語を引き出すためのカケ言葉で、言は
ば三聯から出来てる長い枕詞と解せられる。しかしかく文法的に解稗しては、かうした歌の妙趣は全く滑滅し、
畢なる言語の技巧的な洒落となつてしまふ。現に我が歌壇に於ては、此等の歌をかく文法的に判讃するから、
浅薄にも古今集以後の歌風を小技巧とレて排斥するやうな蒙見がある○歌人却つて歌を知らずとは賓にこのこ
とだらう。
∫ア 詩論と感想

言ふ迄もなくこの歌では、↓句がそれ自ら音の自然や景物を叙して居るので、文法の形式上では枕詞にな
つて居ながら、賓際はそれが翌した意味を有して↑句に繋つてゐるのである○故にそ芸味の切れんとして
切れず、続く如くして績かない所に、違の微妙にして幽玄の感を漂はせるので和歌の象徴的テクニックとし
て至れり轟せるものであらう○果して見よト之れが後に新古今集に雲て長足の震をし、遂に後期の歌の
中心的特色をなすに至つた。
賓に日本の和歌は、新書集に至つてその拳術的震の棟致に達した0既に葺集にその芽をみた上述の
テクニックは、誓今集に及んで完成の極実に達し、近代的意味における象徴詩の警滴警せたのである。
以下諸君の熟知する盲人盲から、主として貰の代表歌風を引例しょぅ0(盲人盲は主として新古今集か
ら避ばれてゐる○他の歌集から取つたものでも貰の歌壇的美挙を規準とし選んであるから、つまりそれが最
もよく新古今歌風を代表してゐる。)

陸奥のしのぶもぢずりたれ故に乱れそめにし我ならなくに
みかき守衛士の焚く火の夜は燃えて董は滑えつつ物をこそ思

この始めの歌算法的に鰐苧れば、↓句「陸奥のしのぶ音ずり」までは一の形容的粗詞である。即ち
「たれ故に乱れそめにし我が心ぞ」といふ圭想を言ふために、之れを他の物象で形容したのである。然るにこ
の文法上の形容が」それ自らまた主観の複雑な心境を象徴してゐる○詳苧れば、この「陸奥のしのぶもぢず
りたれ故に」の詩想や言語の音律やが、それ自嘉蓼たる東北地方の寂しい雰と、さうした地方で製される
乱れずりのやうに、蒜の夙に吹き乱れてゐ息しい心緒とを感じさせる0そこにある荒蓼たる、俺しく頼り
l∃  「
叫.
ない思ひと、その中に思ひ乱れてゐる心緒との、複雑無限な詩想が表出されてゐ・るのである。特に歌」首を貫
く言語の音敢が、いかにも複雑に乱れてゐる心の様を象徴してゐる。マラルメの言ふ「言葉の音楽」といふ意
味も、正にこの境地の象徴主義を指すのであらう。
 次の歌もまた同様であり、上旬「みかき守衛士の焚く火の夜は燃えて」ま.では、文法の形式上からは下旬の
形容語であり、一の長い枕詞であるけれども、それが音には複雑な内容をもち、特殊な詩壇を暗示してゐるの
である。即ち寂しい遽境の沿海地方.で、衛兵の焚いてゐる煙が杢に立ちのぼつてゐる所の、一の印象的光景を
一方に摘出しながら、同時にその一方では、さうした寂しい自然町中に排桐してゐる主観の心境を歌つてゐる
ので、此所では上旬の景色と下旬の心境とが、言語のふしぎな秘密によつて結びつけられ、全く分離すること
のできない関係で重なり合つてる。

  これやこの行くも辟るも別れては知るも知らぬも逢坂の開

 この有名な蝉丸の歌は、言語の音律が現はす調べによつて、いかにもあわただしく、放人等の東西に往来す
る関所の気分を現はしてゐる。「これやこの」といふ性急な調子に始まり、行くも辟るもと「も」の字を重鶴
にして響かす所から、何となく賑やかにして慌しい往来の放客を印象させるのである。この歌の如きは、所
謂「言葉の音楽」の代表的なものの一つであらう。
 その他「足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を濁りかも寝む」の如き、人麿の歌ではあるけれども、
歌風の上からは嘗然新古今集に入れらるぺきで、その詩の音韻そのものが秋夜孤濁の長い時間観念を現はして
ゐること言ふ迄もない。(前述した私の形容詩膿も、賓は此等新古今から革んだのであるJ
 以上、日本詩歌の特色たる象徴主義の大要を説明した。今や吾人は、盲目的なる西洋心酔の夢からさめて、
Jタ 詩論と感想

民族的に日本主義の精神を自覚しなければならないだらう。
j.1一rトト ■、
ぺき新しき民族詩の精神を賃すること、之れまた我が日本語詩壇の急務である○ただ我々は、新しき貰を
建てるために古き貰を見るのである○省き鋪の中に省き尭を愛するのは、未だ我が「若き詩竺の必しも
操るぺき所でほないと思ふ。
我々の古き国粋詩歌の中から、我々のょつて立つ
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