慣名と漢字
詩を慣名で書くと漢字で書くとでは、リズムの↓で感じ方がちがつてゐる0之れは豆ちょいとしたことに
思はれるが、賓はなかなか重要なことで、殆んどそれが詩の内的芙の第表的要素を決定する。現に多くの
人の知つて溜通り、慣名の多い詩と漢字の多い詩とでは、単に文字の外形的な特異でなく、賓に詩それ自身
の内容的情景に於て色調を別にしてゐる○即ち漢字を多く使ふ詩人と、好んで慣名を多く使ふ詩人とは、賓に
詩人その人の常葉に於て本質的な異色がある○そしてこの董は多くの人の明らかに感知してゐることである。
漢字を多く使つた詩は、表頂象的、檜董的である0これは言ふ迄もなく漢字の視覚に訴へる強い効果か
らきてゐる0これに反して慣各の多い詩は非印象的である0その代りに情緒的、藁的である。今これらのこ
とについて少しく心理畢的の研究を饅表しょう。
すぺて言葉は、或る観念の心像を雪にあたへることを目的とする0たとへば「太陽」といふ言葉、「田園」
とい毒薬は、それぞれの慧が慧する心像を誓にあたへる0ところで、もし之れを漢字で書くならば、
Z澗用潤りミ
文字の硯覚からしてその心像が速く直接に、より強い印象的救果を持ち得るだらう。反射に仮名で書くならば
その印象的効果が弱くなる。なぜならば、前の場合に於てはこの心像が「太」「陽」といふ二字の祓発から綜
合的にまとまつて、より短かい時間に直覚されるに反し、後の場合にはそれが「た」「い」「や」「う」といふ
四つの文字で書かれる上に、何等成覚的の心像に暗示をあたへる横線がないから0
 この「心像に暗示をあたへる横線」といふのは心理上の聯想観念を指すのである0すぺて漢字の字義にはこ
の聯想観念をあたぺる要素が多い。それはもと漢字の起原が象形文字であつたことによつても官然である0支
那人は音に巧みに、立つ立汲な趣味で文字を使用するので、支那町日常文字などにはほんとに農味の豊富なも
のがある。言ひかへれば支那人は、文字の聯想観念に於て豊富な内容を所有してゐる0それであるから支那の
詩の如きは、文字が一つの重要なリズムとなつてゐるので、とても英語やローマ字に辞せないのである0
 それは飴事であるが、とにかく漢字は豊富な聯想観念をあたへる0たとへば「太陽」といふやうな文字、
「田園」といふやうな文字が、字真の祀感からして直接さういふ印象的な心像を呼び起させる0之れに反して、
日本の仮名やローマ字にはこの印象を呼び出すものが全くない0慣名で「でんゑん」などと書くならば、賓際
に於てその心像が薄弱になる。印象上の響が弱く、何となく感じの上で時間のかかつた間だるつこ・いものにな
る。漢字のやうに直接に来ない。
 しかしながら漢字の映鮎は、それが殆んど音報的のリズムを無成したところにある0元来、支那人の用ゐる
漢字そのものは決して非音楽的のものでない。人も知る通り支那の詩は音韻の平灰律を合せたものであり、充
分にその音楽的要素を高調したものである。もちろん前に言ふ通り、支那文筆の内的節奏は成覚上の字董を重
要とするけれども、硯覚の一方にのみ偏したものではない0むしろ文字上の実は第二義であつて、根本のリズ
ムを普報の音楽実におくこと西洋の詩と攣りがない0(私はかつて支那人の支彗柑でうたつた漢詩を想いたけ
イノ 詩論と感想

妙’■■ ̄
れども非常に藁的な感じのものであつた0是人のJくやる邦謬饅の漢詩朗讃などとは全るきり雰のちが
ふもので、あんな殺風景の為でなく、・純然たる美しい藁であり、詩の孝や意味を知らないで聴いても、
伺且つその嘉的の実にょつてどこか誘惑されるや羞ものであ・つた0名は忘れましたが、或る濁逸の教授が
曾て「嘉の詩は貰で最宴楽的である」と言つたのは貰際はんとであるかも知れぬ。)
然るに日本人の警ときたら全くでたらめである0日本人が嘉の詩を讐するのは文字の視覚にだけ訴へ
る0そしてその詩的要素の第表である音響全然無線してゐる0これでは漢詩のほんとの妙味は解る箸がな
い0元来、是人の所謂「漢語」なaのは嘉の漢時代の俗語であつて1その讐もすぺて漠時代の豪語
をそのまま輸入したのである0所がこの嘉↓の「耳」といふ機関に於て、恐ら孟天的に大欲陥をもつてゐ
る是人のことであ怠ら表底あの蓋のむづかしい支警をおぼえるぺく塞い0・そこ妄貰の芸は、
是へ来てから全くでたらめになつてしまつた0所謂是人の「音よみ」といふのは、本来の意味では「署
の通りのょみ方」といふわけだが、殆んど誓とは似ないでたらめの是的漢語になつてしまつた。つまり日
本人は表字の視覚的印象のみを受け入れてその嘉の美を讐しなかつた0ネれからして、この讐のでた
ら葛藤趣瞼の漢語が、どれだけ我々の文明に不愉快な讐をあたへたかわからぬ。
 人品る通り、豪語の芸のむづかしさは全くあのアクセントにある○賓際いつて、妄語ほどア志ン
£復讐慧は貰に慧ないだらう0去の特色からして詩の方でも平灰牢(それはアクセン去誓合せ
る)の如きが必然に生れる0所が妄の是語なるものは去れまたアクセン£薄琴言で有名である。
是語には殆んどアクセントがない0妄語と日本語のこの封照は異例なゑである。されば是人がいくら
勉強しても、豪語の正しい芸を拳び得なかつたのは纂であつたらう0ともあれ日本式漢語なるものは殆
んどアタセン£ないl小者の青葉である妄れからしてどれだけの不便と不都合とが生真か三とへ・
イ2
  「
ば日本人の所謂「湊語」では、前例の「太陽」も他の意味の一「大洋」も加翌日が同じである01いくらでも同じ例
をあげよう。たとへば「新奇」「神器」「心気」皆同じ翌日である0「刑」「計」「罫」「敬」「景」皆同じであるO
「陽痛」「洋服」同じである。「野猿」「夜宴」同じである0「憤怒」「糞土」同じである0「某君」「亡君」「暴君」
「傍訓」等皆同じである。「拳」「賢」「騒」「剣」「樺」すべて磨同じである0その他かういふ例は殆んど無数に
あるだらう0
 そもそもどうして我々はこの差を直別するか。日常の合話の時に於てすら、これらの同萌の漢語の混乱がど
んなに我々を不都合にするか。■殆んど我々の合議に於ては、しばしば封手の言葉を文字の心像に表象し、それ
からまた二重に意味を取ちねばならない。何といふやつかいな、そして不愉快極まる謡だらう0その不愉快は、
しばしば我々をして「漢語を絶対に使はない組合」の設立を要求させるほどである0
 そもそもすぺてかくの如き不都合の生じた原因は、昔時の日本人が支那藷の正しい饅萌を無成して、字真の
印象にのみ重きをおき、しかもそのでたらめな原音のままで一般に通用さすべく輸入したのにある0もちろん
眞の漢音−即ち支那古代語の原音 によれば、決してこんな不便な同音異義の生ずる筈がない0正しい支
那の字典によれば・「太陽」せ「大洋」では明白に仙翌日がちがつて居る0即ちアクセントに於ける著るしい相違
があるのである。その他「刑」と→計」・と「景」では皆それぞれアクセントがちがつてゐる0されば支那人の
合話に於ては何等の差支へも起るわけがない。た・だ日本人は語のアクセントーそれが支彗仰の生命的要素と
皇ロふぺき−を無線し、「太陽」も「大洋」と同じ平坦の調子で仙翌日し、且つ仮名でかいて「たいやう」と
振慣名する故に、わけのわからない合話の混線が起るのである。(現代の支那俗語でもこのことは同じである0
現代の支那語では「チヤン」とか「ジャン」とかいふ言葉が非常に多い0私はよく知らないが、何でも「チヤ
ン」と寧音する文字が四十近くもあるさタである。しかもその「チヤン」が一つ一つ皆アクセン下がちがつて
イ∫ 詩論と感想

ゐる0だからもし現代に於ても嘉語を輸入するとすれば、そして例の通り日本式の仮名で「チヤン」といふ
やうな振偲名をつけるとすれば、どれだけの混線や不便が生ずるかわからない0この全く同じことが昔の漢語
輸入で行灯れたのだ。)
しかしかうした吉上の不便はしばらく問題外としよう0襲術の封象は美であつて言上の便不便とは別の
雪あるから、よしたとへ日常生活宗都合警る言葉であつても、それが何等かの美的償値をもつ限り奉衝
上で非難すぺき理由を認めない0しかしながら上述の如き是的漢語に於て、果してどこに美的の償値がある
だらう0葦上からみて殆んど何等の嘉的美感もない、でたらめの、でたらめの、でたらめの芸である。
特に最も惑いことは、それが日本語本来の藁誉殺教し、且つ大雪葉をして不純な墓味のものに墜落さ
せてゐることである。
日本藁の本来の美は、むしろ漢語や漢字の輸入する以前に於て高調された0文字以前に於ける古代の日本
語はペルシャ語に似て、もつとよほど美しいものである0たしかに嘉文明の輸入は1特に漢語の輸入は
!日本語をめちやくちやな悪趣味のものにしてしまつた○多くの人の言ふ通り、日本語本来のリズムは甚だ
南欧の悌蘭西語や伊太利語に似てゐる0アクセントが弱いために語勢の強味がないが、そのために却つてなだ
らかでやさしく、耳ざはりの柔らかい典雅な藁的快感をあたへる0とにかく私は決し盲本語を非音諾の
ものとは考へない○純粋の大和言葉は可成貰的に美しいものである0然るに漢語の輸入は1呑むしろ漢字
の輸入はミ我々の「耳」■嶺奪つて「眼」に課税をした0我々は↑度今日の大挙に於ける英畢生の如く、ひた
すら眼にょつて漢語をょみ耳の方を等閑にした0そこで誓の習慣は表語をその文字面から蔓的に讃むの
に慣れた0この事賓を少し具鰹的に説明してみょう。
 今、たとへばここに「艶鹿な美人」といふやうな言葉がある0すると我々は、この言葉の表象する心像を早
イイ
  「
くもその文字の硯覚的印象から感知してしまふ。資際に於て我々は、この「エンレイナビジン」といふ音頭を
正確に帆翌日してゐないのである。その讃み方の饅聾を終る前に於て、既に「眼」の方から先にその心像を直覚
してしまふ。諸君自ら讃書に於ての心的現象を反省するならば、けだし此等の事賓は思ひ牛ばにすぎるものが
ぁるだらう。漢字をよむとき、殆んど我々は確賓にその語の報を磯饗して居ない。その襲撃よりも祀覚の方が
                      ● ●
先走りをして、いつも一足先に語の意味を直線してしまふ0いつも語の観念が先に感知されて、それから一足
後れに讃み方の音萌がくるのである。雪さうではない0厳重に言ふと殆んど正則には音韻を態饗しないので
ぁる。要するに我々の漢語は、現代英嘗生の英語と同じく、讃み方などはどうでも好い、意味さへ解ればそれ
で好いといふ輸入昔時の精神から俸承され、それが全く習慣となつてきたものである0
 それ故、漢語や漢字の使用によつて、日本の文章は甚だしく聴覚の注意をおろそかにするやうになつた0人
人が「眼」で文章を味ふやうになつた。餞萌のリズムは益ヒ閑却され、大和言葉固有の悌蘭西語風な美が殺致
されてしまつた。特に明治以後の日本に於ては之れが甚だしい0明治維新昔時に於ける文明の創造者は、いづ
れも無趣味殺風景な壮士輩で、特に漠寧的の教養を受けた士族であつたため、彼等は西洋の文物を輸入する必
要上、むやみやたらに生硬粗悪な新漢語を作つて之れを桝案した0たとへば「樺利」「義務」「成功」「地方裁
判所」「民事訴訟法」「繊道」「電信」「郵便」「美術」「家庭」「博愛」「運動」「文明」「教育」等の語は皆彼等に
ょって新しく作られた翻案語である。何といふ官僚的で俗悪な、しかして粗雑極まる言葉であらう0こんな厭
ゃな言葉を使用すべく強ひられた今日の日本人は眞に鍋ひなるかなである。あまつさへ常時以後−伶現に今
日に於てすらも 新しい西洋文物が輸入されると同時にまた一つ宛この顆の生硬な新漢語が加はつてくる○
(たとへば最近のもので「自働車」「飛行機」「普通選挙」「共産主義」の顆。何れも悪趣味極まる生硬な言葉で
ぁる。)おょそ今日の日本語ほど漢語の多いのは前代未開である0しかもその漢語たるや発くに耐へない意劣
イj 詩論と感想

のものであり、しかしてその芸はいょいょ益ヒ乱暴樋まるものである故に、現代の量岬宗きは吉上の
便からみても、趣彗の償偉から論じても、恐らく全貰に顆のない最意・の璧岬で電−フリ
さてかやうなわけであるから、塞語の美的堕落を防ぎ、大雪薬園有の精神を高調せんと思ふものは、必
然的に漢語漢字の排斥論者とならざるを得ない0特にまづ我々は「漢字」姦斥せねばならない。肇にし▲て
廃棄え漂らば、自然に「太陽」と「大洋」との芸的差別豊犬されるし、すくなくとも慣名でかいて意
味の取れないやうな似而非豪語は全て使用されなくなる0けだしこの鮎に於て今日ローマ字論者が志して
ゐることは全く正しい理由である。
嘗漢字を廃してや」マ字または仮名にて綴るならば、すぺての言葉が必然的に音響嘉するやうになる。
たとへば上例の「艶鹿なる美人」を慣名で「えんれいなるびじん」と書くならばどうか0この誓には字形か
らの硯讃ができないから、、いやで為でも妄苧寧に著し妄慧ねばならぬ0即ち之れにょつて藁の
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音慧正確に準音され、したがつて国語の嘉的要素が重視されてくる。
▼大和言葉の純粋の音翼は、昔の和歌に於て最もよく高調されて・ゐる0特に喜集、誓今集等に現はれて
ゐ頂ズム浣へやうもなく美しい0諸君は試みにその熟知する蔓首の和歌ハ貫盲の和歌は大部分新
書集からの選である0)を朗詠して見たまへ0反苧れば反讃するほど、益ヒたまらなく人を魅惑する美し
い藁がひび¥くる0賓際我々が此等の歌に誘惑されるのは、その内容よりむしろ藁の力である這は俳
蘭望岬晶むことができないが、恐らくはあの最宴楽的に美しいと言はれてゐる囲語でさへも忘等日本の
詩の蔓ム以上にあまり遠くはまきらないであらう0されば昔の歌人等が、漢語を絶封的に排斥したのは、彼
専の洗攣れた趣味から考へて全く纂である0芸のでたらめな宗分量発塞いあの日本的妄語が、
彼等歌人のょく調律された革にま宗何に不愉快至極な撃と琴完であちうか0彼等は讐で耳を押へ、あ
46
二裏  「
くまで和歌の世界に於ける漢語の侵入を拒絶した。そして勿論また漢字もできるだけ済斥した。古代の菌粟仮
名の漢字は別として、午慣名新造以後に於ける和歌の書式は、本式として全部仮名を用ゐたものである。漢字
はごく稀れにしか使用を許さなかつた。これその音葡上の効果を重戒するためである。もし漢字を使用せんか、
前述の理由によつて音韻が閑却され硯讃されてしまふ。即ち和歌の眞の音楽的リズムが殺されてしまふ。かの
宮内省汲の歌人等が、今日伶しばしば「餓道」「電信」等の漢語を忌み」之れを国風に詳して「くろがねの道」
とか「えれきの文づかひ」とか言ふのは、一面に於て彼等の俸統的趣味が如何に洗練されて居るかを語つてゐ
る。眞に大和言葉の実を知るものにとつて、かくの如き悪趣味の新漢語は耐へ得るところでないだらう。
 かく論じてくるならば、一殆んど漢字は我々の蜃術の讐敵である如く思はれる。漢字からは何の善いものもあ
たへられないやうに思はれる。しかしながら、この論文の最初に於て述べた如く、漢字には到底仮名のおょば
ない長所がある。即ち漢字は印象的に著るしく強い刺激をあたへる。それは頼覚から来ずして硯覚から来る0
したがつで心像が直覚的、給養的にまとまつて映像する。この鮎に於ては仮名やローマ字の到底及ぶところで
ない。同じ言葉でも慣名で書いては逢かに印象が弱く不鮮明になる。心像の構成に長い時間がかかりそれだけ
間の延びたものになる。どうしでもこの鮎では漢字の絶大な威力を認めないわけに行かない。そしてまたこの
長所の故に漢字の優勢な普及性を失はないのである。
 要するに漢字の長所は印象的、檜量的の効果にあり、仮名の特長は塘覚的、音楽的の実にある。されば漢字
を多く使用してゐる詩と慣名を多¢使つてゐる詩とでは、讃者にあたへる味覚の上で著るしい相違がある。た
とへば次の例む見よ。(詩は「日本詩人」一月硫に田中清一氏の詳出されたアラン・シーガーの日本語であ
る。)
〃 詩論と感想

私は愛した
唆々と輝く夜に渦巻いてゐる名高い都合や群集を。
私は愛した
雪の絶頂の周囲を緑飾で囲んでゐる
白雲なびく逢か彼方の地平線を。
イβ
之れを試みに慣名で書きかへてみる。
 わたしはあいした
 かうかうとかがやく夜にうづまいてゐる名だかい都合や群集を。
 わたしはあいした
 壷のぜつちやうのまはりをみどりのふさでかこんでゐる
 しらヾ滝なびくはるかあなたの地平せんを。
両者を比較せょ0全く同じ詩でありながら、いかにその詩的情趣の内景を異にして感ぜられるかを。漢字を
多量に用ゐた前者がいかに檜量的、印象的の気分をあたへるか0之れに反して後者がいかに非檜量的、非印象
的であるか0もし詩の目的の全意義が、かかる情景の明白なる檜量的心像をあたへたる妄のみにありとすれ
ば、前者はたしかに後渚よりも優れてゐる0しかも哀詩の藁(聾的リズム)といふことを考へるならば、
慣名の多い後者の方が逢かに逸かに英しい響をあたへる0同じ詩でありながら、後の方の菅方でょむと前の
川州仙
方の書き方でょむのとでは、ほとんど全く同一でない○後の方の書き方では、詩語の;一つの琴青が全部正
確につづられてゐるから、いやでも應でも、讃者は之れを「耳」で讃まねばならぬ0然るに前の方の書式では、
主として「眼」からくる語句の心像が先走りをするため、音報わ正しい璧日はすぺて閑却されてしまふ0言ひ
代へれば嘉的の美が甚だ稀薄なものとなつてしまふ0命この事資を扁心理学的に説明すれば、前者では讃
者の注意が杢間的心像に制限され、後者ではそれが時間的心像に傾注される0したがつて前者からは「藁」
が忘却され、後者からは「檜童」が忘却される0
 今日ローマ字論者の趣味は、ひとへに言葉の音楽美に走つてゐる0そは思ふに彼等の久し←外国語によ
 って養はれた趣味が、聴覚上に於て異常な饅達をした為であらうと思ふ0現に神戸のローマ字唱導者たる
q斡岩50占OTO夢⊥勺○⊥E(大和言葉の家)から、現代詩人の代表的自由詩をローマ字に書き換へて
刊行してゐるが、その中に納められた私の詩「閑雅な食慾」などを見てこの感を深くするのである0「閑雅」
 「食慾」の如きは明白に漢語であつて大和言葉でない0そこでローマ字の詩ではこれを岩り○巴r−望r−
                ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
宅岩THT出(のどかなあぺたいと)と詳してゐる0すべてこの調子で、我々の詩から一切の漢語を除き、
之れを純粋の大和言葉、もしくは英語に書き直レたのであるから、そのローマ字の詩は発覚的によほど美し
 いもので、その鮎逢かに原詩にまさつてゐるのを感じた0

この祓覚的心像と敢覚的心像との差異からして、詩の内容である情想の上に著るしい気分の欒異をあたへる0
試みに讃者は、今一度前例の詩を対照してよんで見紛へ0今遽ぺたこと以外に、個別に著るしく束の付くこと
があるだらう。即ち前者の漢字饅に此較し、後者の仮名書き饉は非常に柔らかな情鰭的の感じをあたへる0之
イク 詩論と感想

れには勿論書式蒜覚におょぼす印象影少の関係があるだa0しかしそんなことは苦る床賢ならない。
その芸には、後者の平仮名をローマ字に書き代へた署を慣想するが好い0特にもし出来得ぺくば後者の書
式を葺慣名で試みて見るが好い0常葉慣名といふのは人も知る通り、是認のアイゥエオを漢字の「阿」
「伊」「字」「合」「尾」等で代音させるものであるから、この事式にょれば、後者の書式は全著漢字となるわ
けである0さて然る後南方の詩を比較してみょ0この誓に於ても矢張後者の詩は甚だしく柔らかで情緒的に
感じられるであらう0蓋しこの感じの豊のょつて生ずる原因は単なる書式↓の印象に告のでなく、賓に詩
のリズムの内景的な異別からくるのである。
前に説いた如く、慣名著きにした詩は極めて非印象的である0「田園」を「でんゑん」と書き、「森林」を
「しんりん」と書くならば、かうした雷のあたへる檜露心像温めて稀薄になり、且つその統言時間の
かかつた間だるつこいものになる0しかしながら妄に於ては語句の芸が明晰となつて藁的の心像が高調
されてくる0つまり後の誓に於ては、詩の情想が藁的のものとして、藁を敢くときのやうな気分として
強く感知されてくる○所でこの「藁的の雰」とは何んな雰であらうか↑言ふ迄もなく、それはあのメ
ロヂイが虜感する陶酔的の甘美な雰である0この雰は明白に「給養的の気分」と直別される。給養を著
するときの芳は、決して情緒的陶酔的のものではない0それはむしろ冷たい叡智的、観照的の気分である。
そしてこの同棟の気分の相違が、前例の二つの藷(言葉は一つであるが)か・ら明白に感別される。即ち前の方
の詩の芳は観照的∵即象的であり、後の方の慣名著きの詩は甚だしく情緒的であつて暖かい肉感風の警あ▲
 たへる。
 要するに箸と漢字の優劣論は、静人各自の趣味によつて決定さるぺきである0喪それを論じょぅと思は
ない0しばしば誉詩人は論じ三蔓詩のリズムは嘉に雪るものであつて親覚に関するもの・でない。故
∫0・
’ 「
に壌字の如きは出来るだけ廃棄しなければならないと。しかしながらかういふ思想には攣成できない0確かに
西洋の詩では、音頚がリズムのすぺてで針るだらう0けれども支那、計本の詩では必しもさうでない0何より
も漫字は讃み方の時間を節約する0詳説すれば「心像が構成されるまでの時間」を経済にする0即ち言葉の表
象す孟臥念を、より直接に、より統一的にあたへてくれる○されば漢字を讃みつけた習慣からは、仮名やロー
マ字はとても間だるつこくて不愉快である。この一つの理由によつても、漢字の偉大なる表現的特長を捨てる
ことができない。しかしてこの漢字の長所は、同時にまた漢語の短所†もある0かの翻案語として瞥造される
「装甲自働車」由の新漢語も、我々にとつて音に軒し分なく不愉快のものであるが」さりとてローマ字論者や
宮内省歌人の如く、之れを大和言葉で「くろがねのよろへる車」など言ふのも滑稽である0第「灯それでは間
だるつこくてとても賓用にさへならないだらう。
然るに之れと反封に.、妄ではまた慣名やロこ字の美を感燭できない人々がある0こか人々は漢字の檜董
美ばかりを主張して、▼仮名のリズムがもつ音楽美を閑却してゐる0これは最も困つたことだと息ふ0すくなく
とも今後の日本語は、今少し瀬覚的にも美しくならねばいけない0現代の日本語は、例の翻案的新漢語の濫造
によつて、殆≠ど世界に顆のない非音楽的のものになつてゐる。美的償俺はもトより、第二貫用上の合謡にさ
へ不便を感ずるほど悪い望柑である。すくなくとも日本語本来の音報は、決してこんな劣悪のものでない0明
治以後に於て我々の美しい璧柑は虐殺された0正に我々の時代の詩人は、この「失はれたる大和言葉」を回復
                           ● ● ● ● ● ● ●
しなければならない。正に「新しき時代の大和言葉」は、我々以後の詩人によつて創造されねばならない0
今、然らば如何にしてこのヂレンマを賂泳すべきか? 丁万では漢字の長所を活かしながら、しかも一方で
は漢語を廃して九彗昇町仮名書き(もしくはローマ字書き)を普及言ようといふのは↑思ふにこの矛盾
を解決するものは「時」である0しかも我々の希望するところは、その「時」を呼び起すための自覚である○
∫ノ 詩論と感想

今日表の人々−特に詩人!が、この現在の最も堕落せる日本語に自覚し且つ饅奮し、次に来るぺき時代
の美しき璧仰のために、その理想と創造とをひつさげて高唱されんことを欲求する0しかしてかくの如きは、
諸君の計棄に封する趣味を向上し、且つそれを反省し評論することにょつて到達される。
∫2