詩論と感想

真理は普遍的でなければならぬ。けれ共あらゆるすべての人が、
真理を理鮮するわけには行かない。 ゲーテ

読者のために (序にかへて)

 最近数年間、種々の雑誌に発表した詩論中から、特に重要なものを集めて一筋とし、これに少許の随筆雑感の類を加へて、この事を編纂することにした。
 僕の遺憾に思ふことは、日本に本当の意味の詩論集が、殆んど全く出て居ないことである。たいてい従来出て居るのは、初学者への入門手引 ― 「詩の作り方」といつたやうな ― か、でなければ現代作家の詩風を評して、之れを系統的に分類したやうなものであり、或は少し変つた所で、西洋詩家の詩論を翻案的に紹介したり、韻律形式の一般概念を講義したり、もしくは日本詩壇の変遷を歴史的に考証したりするやうなものであつた。
 すべてかうしたものも、広い意味での「詩論」にはちがひない。だが真の意味で詩論と言ふべきものは、さうした初学者への講義録や、作家詩風の概念的分類や(これほど無能な著述はない)では勿論なく、また西洋詩論の紹介や、他人の文献を引用した考証学的研究の類でもない。実の意味で詩論といふべきものは、他の一般の思想論文の類と同じく、詩についての新しき解説や発見を、一の卓抜な頭脳によつて、独創的に発表したものでなければならぬ。即ち例せば、ポオの詩論、マラルメの詩論、イエーツの詩論、芭蕉の俳句詩論の如きものがさうである。
 然るに我が国には、最近この種の詩論家 ― 即ち真の意味の詩論家 ― が殆んど居ない。そして単にマラルメを紹介する詩論家(?)イエーツの詩論を受売する詩論家(?)ばかりが居る。でなければ博覧強記、考証該博の大先生が、学校の講堂でするやうなアカデミックな講義録的詩論家のみ。一として真の詩論象らしき詩論家が居ないのである。
 それ故に僕の書物は、すくなくともこの点で誇をもつてる。僕のあらゆる詩論は、常に僕自身の頭脳で ― 一冊の書物からでもなく ― 長い間かかつて考へ、幾度となく反省し、全く自分自身で発見した思想である。僕の思想には借り物がない。翻案もなく考証もない。だから僕の詩論からして、西洋詩学の一般的概念や、文科大学の講座でする美学原理や、引例と考証とで紙面を埋め、横文字と学術語で読者を威しつけるやうな、もつともらしい学者的大論文や、それから特に大英百科全書の中から引つぱり出して、言語的根拠のあるやうな顔をする凡俗的低能者流の詩論などを、若しかりにも欲求する人があつたら誤つて居る。さういふ欲求の人たちは、僕に来ないで図書館に行けば好いのだ。僕は「思想」を書くのであつて、書物や、文献や、智識やを書くのでないから。
 僕はどんな場合に於ても、常識的理解に止まるやうな通俗詩論を、決して書かうと思つて居ない。換言すれば僕の読者は、常に自分と同じ程度の地位に居るので、自分より下に、より通俗の低級なレベルに居るのでない。したがつて僕の詩論は、いつも対等の読者に向つて、対等の理解で議論してゐる。僕はどんな場合に於ても、決して講義や解説を試みない。なぜならば講義や解説は、自分より下の地位にゐる所の、より低い理解の読者に向つてすることだから。僕はいつも、自分の読者を高く買ひかぶつて居る。すくなくとも僕の読者は、僕が常識的に知つてゐることを、同じく常識的に理解してゐるものと仮定し、その上で自分の議論を進めてゐる。だから僕の詩論は、徹底的に「議論」であつて「講義」でない。
 そしてこのやり方から、僕はしばしば或る読者等に誤解される。実に或る読者等は、僕が現に常識してゐることを、未だ常識にすらできないほど、それほど認識的初歩の階級に居る。然るに僕の詩論は、一切どんな場合にも講義をせず、現にある僕の常識を前提とし、それの上に超常識を演繹するため、しばしば年少の読者にとつては、不可解以上に曲解されたものになる。実にこの数年間、僕の詩論は幾多の年少作家によつて反駁された。しかも僕が意外とした所は、それらの反駁が悉く皆的外れであり、全然論旨を曲解した早合点に基いて居たことである。しかも此等の誤謬に対して、僕は一も解説弁明の辞を述べなかつた。なぜならば僕がそれに応へることは、上から下に向つての説明となり、議論でなくして講義になるから。そして講義することは、僕にとつて耐へがたく興味がないから。もとより僕の詩論は、理解力の同輩に向つて語つてゐるので、詩壇への普遍的読者を強ひるのでない。即ちつまり言へば、僕を理解できないやうな人は、始めから読まなければ好いのである。
 とはいへ僕の詩論は、正直に自白して難解の点が多く、誤解を招き易い所がすくなくない。之れ元来僕の思想が、正反両面の矛盾を包括する所の、ヘーゲルの所謂弁証論的系図に属するからだ。(ついでだから言つとくが、僕はへーゲルといふ哲学者は虫が好かない。ただ彼の思考的方式には、矛盾を出発する近代思潮の根原がある。)それでへ−ゲルが難解である如く、僕の思想もまた難解である。(難解とは必しも言語の晦渋や、智識的教養の高度を意味しない。その意味なら僕の文章は平易すぎる程である。)僕の詩論家的良心は、認識が物の一部に偏し、独断となり、偏狭となることを憎むのである。僕は常に真理を愛する。故に僕が一方に正を見る時は、一方に必ず反を眺め、矛盾が合理的に解決され、公明正大の真理として立つのを待つてる。然るに最も意外のことには、僕の詩論に対する非難が、定評的に僕を指して独断と呼び、偏狭と言ひ、独り合点と嘲つてゐる。何故の非難だらうか。僕は実に意外であり、鬱憤して不平に耐へない。
 けれども考へてみると、多少さうした誤解を招く責任が、僕自身の思想にないでもない。けだし僕の詩論内容は、上述のやうに弁証論的であつて、正反両面の矛盾を両方から竝立させ、一つの車軸によつて両方から押して行く為、その一方だけを別々に見る人にとつては、時にしばしば前後矛盾し、言語混錯した不合理の感をあたへるのである。それで例へば、本書中の詩論にした所で、一方で「印象的散文は詩に非ず」と言つて、自由詩の散文化を拒絶しながら、他方に別の論文では、むしろ詩の散文を主張し、自由詩の韻文に非ざる所由を力説してゐる。(自由詩原理への入門。)
 かうした僕の詩論は、明らかに前後矛盾し、思考の混乱に陥入つて居る如く見える。しかしながら多少忠実に僕を理解し、且つ直覚的頭脳を以て、僕の思想を全局的に読破してくれる読者にとつては、かかる別種の標題による詩論が、各々論旨の対象を異にして居り、したがつて言語の字義的解釈を別にしてゐることが解るだらう。そして若しそれが解れば、僕の詩論の根本が一であつて、論理的にも何の矛盾のないことが解るだらう。しかしながら僕と雖もも、そこに演繹の不足があり、論述の欠陥が存することは、自ら自認して告白せざるを得ない。しかも僕が、あへてこの不完全を自認しながら、著書を公刊する所由のものは、次に述べる如く一の事情があるからである。
 実にこの五年ほど前からして、僕は自由詩の創作に大なる懐疑を抱いて来た。何となれば自由詩と称する概念が、僕にとつてほ疑問であり、如何にしても合理的に解決できない所の、不思議の矛盾に思はれたからだ。不幸にして僕は、気質的に理窟つぽい人間であり、いやしくも懐疑に捉はれた以上、何事も手に付かない人間である。そこでこの五年間、僕はこの問題に没頭し、哲人のやうな思索を続けた結果、遂に過去のあらゆる疑問を解決すべき、一大真理の発見に到達した。
 そこで最近鎌倉に於ける全一ヶ年の時日を要して、著書「自由詩の原理」を書き出したが、種々の事情によつて今尚脱稿するに至らない。しかも「自由詩の原理」そのものは、原稿として僕の認識中に完成されて居る。そこでこの著が世に刊行されるまで、僕のあらゆる詩論はその序説であり、若くは演繹であるに過ぎない。すくなくとも僕は、その意識によつて時々の断片的の詩論を書いて居る。
 それ故に此等の本に集めたものは、言はば「自由詩の原理への入門」であり、それの常識的理解の上に立つて、時々の断片的な主題を捕へ、或は演繹したものに外ならない。したがつて僕の読者は、正当には「自由詩の原理」を読まずして、僕を理解することは困難である。この書物に納めたエッセイは、時々の主題を異にする断片的小論である故に、もとより前後の聯絡もなく統一もない。僕の詩論が一貫して系統され、論理的の正しき組織と体系とを有するのは、近く出版される著書「自由詩の原理」に俟つべきである。読者にしてそれを読んだならば、過去の僕の詩論に対する疑問や、不可解や、不満足やの、あらゆる一切の雲霧が一掃されること疑ひない。それ故に僕の諸君に望む所は、暫く時期を待つて僕を許し、この書物の断片的詩論における不完全と、言語演繹の不足とを寛容されたい一事である。