印象的散文は詩に非ず
自由詩の形式が、所謂「萌文」に属すべきものであるか、もしくは「散文」に属すぺきものであるかといふ
∫ク 詩論と感想

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ことは、むづかしい議論になるから此所に言はないけれども、とにかく詩の詩たる特色が、音律的魅力なしに
あり得やとは考へられない0自由詩がたとへ散文であるとしても、その特秩な音律−リズムではなく「調
ぺ」といふぺ漕顆のもの1が必要であることは疑ひない。
我々の時代を代表する自由詩は、明白に言つて確かに散文時代の産物である。けれども詩が詩としての特色
を保澄する以上には、すくなくとも小説や感想等の一般散文と異り、それと鮮明に直別し得る程度の音律芙が
なければなるまい0古来すぺての詩が、詩としての特殊な魅力をあたへる所由のものは、賓にその音律の要素
に存してゐる○ゲーテから、キーツから、ポオドレエルから、ヱルハアレンから、或は人磨から、西行から、
藤村から、泣重から、彼等の詩の音律要素を除いてみょ○後に何が残るか? 音律が詩の神経であり、その魅
力の生命的要素であることは、議論でなくして事賓であり、常識以上の常識であると思はれる。
 それ故に吾人は音律的要素のない文畢を、いかにしても詩と考へることはできないのだ。自由詩が正規的な
律動の拍節を有する文学、即ち所謂「報文」であるか香かは、大いに疑ふぺき問題であるけれども、たとへ所
謂「散文」であるとしても、やはり散文詩としての不規則な音律実は必要であり、それなしに詩が詩としての
特色があり得るとは思はれない○もし巨由詩が詩の神経たる音律を捨て、感想や小説等と同じ記事本位の文撃
                                    つけたり
となるならば、どこに詩としての特殊な文挙的魅力をもち得るか。たとへ附の手段によつて、何等かの詩的効
果を表現し得るとするも、到底それを以て音律の魅力に換へることはできないだらう。そして此所に「他の
                                                                                 ▲下
手段」と言つたのは、印象的手法にょる描馬の尖鋭等を指すのである。
 近時我が国の自由詩は、象徴主義の精神に深く徹底した結果、表現の印象性を強めることに甚だ巧みになつ
てきた○即ち簡潔な言葉の中に、よく情景や心象の気分を捉へて、表象を浮き出さすことに進歩してきた。の
みならず近時の詩壇は、一般にこの印象的効果を重視し、著るしくその新潮流に向つて傾向してゐる。之れた

  「
しかに詩としての進歩であり、吾人の慶賀すべき現象にはちがひないが、その一面に於て音律牲が姦ヒ閑却さ
れつつあるのを見ては、むしろ詩の第一義を失つた邪道として績斥されねばならないだらう0
 詩に於ける第一義の要素は音律であり、第二義の要素は印象の尖鋭である。古来日本の詩歌は象徴主義に立
脚するため、表象における印象的手法を重成し、就中俳句等に於てはそれが極めて重要なものとなつてるけれ
ども、やはり詩の第一義は音律の要素にあるので、和歌も俳句も「調ぺ」を離れて本質の生命を持たないので
ぁる。自由詩も詩である以上、やはりこの原理は同様であるだらう。自由詩の印象効果は最も必要のことであ
るが、それが音律から攣止して、重心をその方に持つて行くならば、もはや詩と言ふぺきものでなく、本質的
意味における純粋の散文となつてしまふ。
 近時我が国の自由詩は、概ねこの顆の「印象的散文」にすぎない。たとへば

 軍艦の銭板にカキの死骸が食ひついてゐる

とか

  女はバラの食慾で■貪り食つた

とか言ふのが、即ちこの「印象的散文」の見本である。成程、かうした詩句は強い印象的効果をもつてる。し
かしどこに詩としての音律的魅力があるのか。此等の詩から受ける感銘は、コントや新感覚汲等の小説が特色
とする印象上のタツチであつて、純粋に散文的のものではないか。詩がその文学の特色とするものは、かかる
小説風の描馬技巧ではなくして、もつ上特秩な魅力をもつて人に迫る音律美でなければならない筈だ0ニイチ
ェは「顧律の魔力」といふ言葉をよく使つてゐる。ここに苛律といふ言語は、必しも文字通りに正解する必要
朗 詩論と感想

はない0吾人の所謂「調ぺ」も廣い意味に於ては韻律の一種と考へることができるだらう。とにかく言語は、
その音律の中に不思議な塵惑的な魔力をもつてる○そして詩の詩たる特色は、賓にこの魔力を使用する鮎にあ
る○詩にしてこの魔力を使用しないならば、どこにその文寧の特色が存在するのか?
吾人は断言する○今日の如く詩が音律性を忘れて印象性に偶重するのは、たしかに詩としての本質的な邪道
であると○ここに理窟は述ぺない○ただ事賓によつて讃者の判断に訴へょう。上述のやうな印象的散文が、果
して眞に第一流の陶酔や詩的感激をあたへるかどうか。詩が眞に人を魅惑し、特殊な昂奮やエクスタシイやに
吾人を導く所由のものは、主として全くその音調の美しい塵惑にあるのぢやないか。ボオドレエルの詩でも、
ヱルハアレンの詩でも、また日本の和歌にしても新膿詩にしても、誘惑の眞の要素がどこにあるかを考へてみ
よ○そして此等の音律美を有する詩と、現詩壇の印象的散文と、どつちが果して生命的の力強い昂奮をあたへ
るかを反省してみょ0いかにヒイキ目に考へても、後者は到蜃剛者の1諒にも及ばない。何よりも詩として
                                 ヽ ヽ ヽ ヽ
の骨格的なカがない○眞に精神的に、心臓に向つてどつしりと迫つてくる魅力がない。印象的散文の魅力は、
単に皮膚の表皮を椅子片で引つ掻くやうな、感覚的神経質のとリヒリした小美感をあたへるのみだ。詩が詩と
して有すぺき、太く達ましい全盛的の昂奮や陶酔やをあたへるものは、此等の印象的散文の中には存在しない。
けだし言語の魔力は、音律を離れて他に有り得ないからだ。
「自由詩がもし詩であるならば」と吾人は言ふ○断じて自由詩は印象的散文であつてはならない。すくなくと
も自由詩の言語には、讃者によつてロ詞まれ、愛吟され、朗詠されるほどの音律美がなければならない。膚度
繰返して心ふ0詩が音律の魅力をもたないならば、どこに詩としての特色があるかと。むしろ今日の如くば、
短篇小説やコントの中に詩を葬るに如かずである。
古2