破壊と創造

 常識は考へる。まづ破壊があり、次に創造がある。たとへば新しき家を建てるものは、始めに古き家を破壊せねばならないと。しかしこの比喩は、物質上の因果にのみ正常であり、精神上の事実に通用されない。
 破壊と創造とを、かく別々の事業として、継続の前後に考へるのは、時間を空間上に翻訳した常識の誤算であつて、実の純粋時間を知らない抽象概念の迷蒙である。今日ベルグソンによつて 「時間」の正しき観念を教へられた我々は、破壊と創造との因果に就いても、容易に常識の蒙を啓発することができるだらう。確かに物質の世界に於ては、古き家の破壊の後に新しき家が建設される。しかし精神の世界、空間なき脳髄内の仕事に於ては、全くこの順序が交錯してゐる。即ち脳髄の仕事にあつては、破壊と創造とがいつも同時に融合して行はれる。始めに破壊があり、次に創造がくるのでなく、二の者が常に両面から一所になつて、全く同じ時間の中に働らくのである。換言すれば、精神界の仕事にあつては「破壊」と「創造」とが一如であり、これを抽象上に分析することができないのである。
 藝術の創作は、最も純粋なる精神上の仕事に属する。されば藝術品に於ては、破壊と創造とが一如に混同して居り、これを別々にわけて考へられない。すべての優秀なる藝術的天分は、強暴なる破壊的精神と旺盛なる創造的精神と、この矛盾する両者の融合から成立してゐる。藝術の天才とは、一面に於ては「破壊好き」の気質を有し、一面に於て美の完全を追求する「創造好き」の気質を持ち、両者が互にもたれ合つてゐる人である。その破壊的の性情からは、盲き因襲や典型に対する叛逆心、独立自由の新天地に対する憧憬が呼ばれてくる。そして創造的の性情からは、藝術品の優美な完成、実の渾沌たる表現を求める所の創作的良心が呼ばれてくる。古来、藝術上における天才と呼ばれた人々は、何れもこの矛盾する二の性情を人格に具へた人で、その故にまたその作品が「常に新しくして然も創造的」であり、常に破壊的にしてしかも完美せる藝術的であり、要するに美の生気と完成とを、同時に完全に具へてゐる。たとへばワグネルの音楽がさうであり、ゲーテの文学がさうであり、ラフエロ、セザンヌ、ヱルレーヌ等皆然り。彼等は常に因襲から独立し、古き藝術を破壊しつつ、同時に新しき藝術を創造してゐる。
 破壊性の現はれは、藝術上における自由主義である。創造性の現はれは、之れに対する古典主義である。けだし古典主義の精神は「美の完成」にあり、形式の端麗に存するのに、自由主義の意義は「美の革命」にあり、形式の破壊に存する故に、藝術的気質の分析は、概ねこの二のイズムによつて対照される。
 それ故に真の偉大なる藝術は、一面に古典主義の精神をもちながら、一面に必ず自由主義の本質を有してゐる。換言すれば、それは「完成された形式の藝術」であると共に、必ずまた「新しき内容の藝術」である。「美」と「力」とは、天才の作品では必然に一致してゐる。