文明の情操性
各の時代の文明は各の時代の特殊なせ相をうつしてゐる。それで如何なる時代の文明にも、それぞれの特挽
いろあぢ
な趣があぺ固有の色味をもつてる故に、一として償値に優劣がない。人は爛熟時代の文明を賞揚して、過渡
期や未開時代の文明を劣現するが、もつと廣い文明観の眼でみれば、さういふ許償の偏見にすぎないことがわ
かるであらう。各の時代の文明は、丁度吾人の生涯における、各の時代にたとへられる。人間の生涯に、少年
期、青年潮、中年期、老年期等の経過があるやうに、人顆の国々に於ける文明の歴史がさうである。爛熟時代
の文明は人の成年期にたとへられ、過渡時代の文明は人の春横磯動期にもたとへられる。しかして成年には成
年時代の情操があり、青年には青年時代の情操があつて、各の特殊な濁創性を高調してゐる。青年の情操には
老人の重厚性がないけれども、熱と精気とに充ちた純情の美しさを有してゐる。青年には重厚な思想が無い代
りに、情熱の高い叙情詩がある。老人がどんなに勉強しても青年のやうな詩を作ることはできないだらう。さ
れば老年と中年と、青年と少年との各の時代を通じ、何れが人生の完成期だといふことがどうして出来よう。
各の時代には各の特貌な美があり、他の償値を以てそれに交換することができない0老人を以て「成年の進歩
したもの」、成年を以て「少年の進歩したもの」と考へる思想ほど、通俗の誤つた考へはない0眞理を言へば、
世の中に「進歩」などといふものはありはしない。ダルヰンの進化論は、一方から見れば退化論と皇ロヘるだ
らゝフ0
かく「進歩」といふ思想は、人間の悲しい妄想にすぎないのである0人が成長することは、一方で死に向つ
て退歩することにすぎないのだ。詩人が詩を長く作れば作るほど、彼の情操は滑れてきて几劣になる○自分で
「進歩する」と考へてゐる時、その賓「退歩しっつある」ことに気付かないのは、概ねの人の悲しげな錯覚で
ぁる。賓に「進歩」といふ観念は人間の妄想であり、現音にはただ「攣化」があるにすぎない0それ故にまた
文明の時代相もさうであり、文明には茸の進歩といふものがなく、ただ時々の攣化があるにすぎないのだ0紀
元前一世紀の文明と、今日二十世紀の文明とは、その内容を全く別にしてゐる故、どこにも償俺の優劣を定め
る許償がない。同様に過渡期の文明と爛熟期の文明と、文明の償俺に於て常にひとしく優劣がない0あだかも
紅と自と育と線が、色の特殊な美に於て優劣がない如く0
かく、各の文明には優劣がない。しかしながら人々の個人的な趣味によつて、或は紅色を好み、或は黄色を
好むやうに、文化に対する人々の好意も、またその個人的な情操によつて決定される0眞資の批判に於ては
「償値ある文明」「償俺なき文明」の差別はない0各の文明は特異な平等の償俺を有してゐる○しかも個人的の
趣味と愛惜からは、常に「書き文明」と「慈しき文明」、「望ましき文明」と「望ましからぬ文明」の直別が判
別される。
一般に多数の人々即ち所謂「輿論」は、何をもつて書き文明とし、何をもつて慈しき文明とするだらうか?
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
私はそれについて知らない。香、箕はよく知りぬいてゐるけれども、ここにそれを言ふ興味がない0「輿論」
′jア 詩論と感想
の好意は、常にその時代の「眞理」を決定するが、もとより我々の自由思想家は、かかる眞理を始めから眼中
に入れて居ない。私はただ私自身の思想を語らう。即ち私自身にとつて何が「望ましき文明」であるかを語ら
1フ0
ボドレエルが望んだ人生は、夢と神秘とあこがれとにみちた人生である。私もまた、この情操に於てポドレ
エルに一致する。それ故に私が、どんな文明を望ましく、どんな文明を厭はしく考へるかは、もはや自然的に
明らかだらう。私の最も厭ひなのは、人々の生活からしてあらゆる野心と杢想の種をうばひ、無為と平和の中
に刺戟のない生涯を強ひた所の文明、人生を一の退屈な墓場にした文明である。世界のすぺての国々の歴史に
於て、一の強力なる××××のある所に、いつもこの呪はしき文明が資現された。たとへば欧羅巴では、思想
上の歴制政府たる羅馬法皇の教権時代に、日本では近き徳川時代に於て。特に後者は、幕府の方針たる「人民
を去勢する政策」が汝滑に富み、それが三百年の平和を完全に保護しただけ、厭はしさの感が深い。あの三味
線音楽、あの歌舞伎芝居、あの下劣な革攣紙、浬本、心学、すべて江戸趣味のいつさいが語るものは、×××
×の下に保澄された似而非の平和から、いかほどまで人間が卑劣になり、根性がいぢけてしまひ、趣味が堕落
したかといふことの生きた讃接である。もし「平和」が「自由」の賦償によつて得られるならば、か施る平和
は呪ふぺきかな!
文明のあらゆる世相を通℃て、私の望ましき季節は何だらうか? 私はいつも四季の移り攣る時期を好む。
冬がすぎて春が近づき、野や木立の下卑に木の芽が明るく萌えてくるとき。または夏のくる始め、五月の新緑
が海風のやうに匂つてくるとき。あれらの季節の始めにおける鮮新の気分、人の心をそそのかす浪漫的の重来。
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すぺてのものが現に攣化しっつある頃の自然を愛する。
この同じ菊質と性癖が、私をして必然にまた過渡期の文明に愛着させる。私はいつもルネサンスの歴史が好
∫∫β
きである。冬の厚い氷の中から、草の若芽が漸く萌えてくる様な、あの頃の人間のふしぎな情操が好きである。
歌羅巴の歴史を通じて、私の最も好きな時代は十五世紀初葉である。もしくは十八世紀から十九世紀の姶めで
ある。丁度中世紀の暗黒が終りを告げ、新世界の光が雲の隙間から見えそめた頃、あの「先駆者」のレオナル
ド・ダ・グインチが生れた頃、世界の最も望ましい文化があつた。しかしながら私のょり多く好むのは、十人
世紀から十九世紀にかけ、唯物論が勝利を得て自然科学の萬能時代にはいつた頃、人々が始めて「自然」とい
ふ言葉を知り、人顆の新しき生活が、横械と態明によつて建設され出してきた頃である。
科学! 今でこそこの言葉は、一の乾燥無味なる平凡の常識にすぎないだらう。しかるに近世の始めに於て
は、それがどんなに神秘的な観念を人々にあたへたことか↑ 「科挙」の概念は、その頃の人々にまで、賓に
不可思議な「魔術」の観念を意味してゐた。(我々の日本人も始めて功支丹の俸来した科挙に接した時、明ら
かにそれを神秘な魔術と考へた。)唯物論といふ言葉は、今日最も現賓主義の思想を意味する。それが近世の
始めに於て、人間の茎想し得べき最もロマンチックな神秘観念を意味してゐた。
数千年来、世界のあらゆる人間が抱いてゐた不思議の夢、たとへば室を飛ぶ夢、物言ふ機械の夢、自働的に
走る魔法の車、物の像を生き馬しにする秘俸、その他のさまざまなる錬金術的の、、、ステリイが、日毎に現賓の
奇蹟となつて現はれてくる。科挙! それは賓に人間の夢に見てゐた熱望を、現音に示してくれた奇蹟である。
人顆の歴史があつて以来、科挙の態見ほど人心に衝動をあたへたものはない。貰に人顆の文明は、科畢によつ
て根本から攣化してしまつたのである。世界の文明史は、明らかに次の二期に直別し得る。科挙以前の文明と、
それから科挙以後の文明と。現代二十世紀の文明は、古代ギリシャ文明の績きでなくして、ベーコンの経験論
に始まる所の、近世新文明の績篇である。丁度我が国現時の文明が、江戸文明の績篇でなく、明治以後に新し
く創造された、別種の文明の経過である如く。
ノ∫ク 詩論と感想
十八世紀から十九世紀にかけては、世界のあらゆる人々が科挙の魔簗に酔ひどれてゐた。饅明は俊明を次ぎ、
日毎に不可思議な夢が貰現されてきた。昨日は汽車が餞明され、今日は蒸汽船や馬眞磯が饅明された。風船や、
幻燈や、パノラマや、魔鏡や、自縛車や、今では古風な趣味に属する此等の者が、日々に績々とtて磯明され
たのも此の頃である。青杢に浮ぷ怪奇な風船の像をあふいで、いかに人々が夢魔をみるやうな思ひをしたこと
だらう。古き銅版童に馬された常時の景色は、我々の思慕する限り「最も魅惑にみちた文明」の情操を俸へて
ゐる。
げになつかしきは十九世紀の文明である。科挙全盛時代の若々しい文明である。この頃の世界ほど、人心が
「夢」に充たされてゐた時代はない。多くの人々は峯想してゐた。もし科挙だにあらば、火星や金星の世界に
も自由に族行することができるだらう。そして尚且つ人造動物、人造人間をさへつくることが容易だらうと。
何といふロマンチックな世界だらう! 賓に時代そのものが一の峯想的な「詩」にみたされてゐた。今我々は、
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どこにこの文明の情感性を眺め得るか↑ 肯き西洋酒の瓶に張られたレッテルほど、この文明的情緒に於て趣
の深いものはない。たとへばラム酒やジン酒のレッテルを見よ。そこには必ず月世界旗行の檜が描かれてある。
或は不可思議の磯城があり、天饅を象形するコンパスがあり、丁度十九世紀の時代が情感したやうな、さやう
なる「科挙的妄像の夢」が毒かれてある。これぞ即ちボドレエルのユリキシイルで、酒の芳烈な酔心地を象徴
したものとして、時代の作つた肇術的の意匠である。(註。酒は年代の盲きを尊ぶ故に、今日新しく製酒され
た者であつても、レッテルには古風の意匠を残すのが普通である。)
我が国の歴史芯就いて言へば、私は明治初年時代の文明を最も好む。肯き日本がすたれて、新しき日本の起
らうとする頃、あらゆるものが攣化しっつある頃、西洋文明の輸入によつて、日々に人心が驚異の眼をみはつ
た頃、げに私にとつてみれば、幕末から明治初年にかけての日本ほど興味のあるものはなく、その時代の特貌
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Z凋瀾瀾周瀾湖瀾絹空い責。
な文明ほど魅力の強■いものはない。私の詩人的な杢想は、いつも鹿鳴舘の不思議な社交ダンスを考ヘイ」ゐるO
「文明開化」といふ言葉が、新智識の合言葉となつてゐた時代、洋服に下駄をはき、鼻の上に椅子を琴へて文
明開化の先駆者を人々が誇つた時代。「西洋」といふ概念が、それ自ら魂の思慕するイデヤで、日本のあらゆ
る民衆が「西洋へのあこがれの夢」をもつてゐた時代。これほど若さと峯想とにみちた時代がまたとあらう
か? 日本人の旺盛なる浪漫主義運動は、明治の初年の文明を一貫して横溢した。すべての囲の過渡期の文明
がさうであるやうに、我が明治初年の文明もさうであり、雑多と、猥雑と、不行儀と、混乱と野攣との文明で
あり、その精神は若々しい浪漫主義の情熱を本質とした。
今や、世界的に浪漫主義は段落してゐる。交通の便利からして人々は異囲への夢を失つた。そして科学はも
はや奇蹟的樺威を失落した。今では通常の教育あるものは、物質から人間の製造されることを考へてゐない○
火星世界への旗行も官分の所は絶望である。そして古来から人顆の夢想してゐた多くのこと、たとへば峯中飛
行や、活動馬眞や、琴音域や、無線電信やは、轟く一通りには敏明された。この上の饅明は、ただその映鮎を
除いて完成するのみで、本質的に我々を驚かすやうな奇蹟は、殆んど残されてない。汽車や電話が相次いで日
毎に餞明された十九世紀初菓に較べれば、今の科挙的新態明は言ふに足りない。その上に科学そのものが眈に
「偶像の魅力」を心から失つた。カントの樺威ある畢説は、認識に封する眞理の見解を一欒して、科挙的ミス
テリズムの妄想を幻滅させた。不思議なるエレキの作用は、今はその魔術的魅力を失ひ、畢なる常識的の事茸
にすぎなくなつた。平凡、平凡、退屈、退屈。紳もなく信仰もなく科挙の偶像さへも無くなつた時代。全人類
の××××。これが賓に耐へがたき官世の時潮である。
私は夢の中に生きてゐたい。私一人でなく、皆が一所に「時代と共に」夢を見てゐる世相に生きたい。私は
ロマンチシズムの文化がもつ情操の中に生きたい。たとへば明治初年の日本に。十九世紀初頭の欧羅巴に。
〃J 詩論と感想
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私は過渡期の文明を好んでゐる。あらゆるものが現に攣りつつある季節を愛する。既に撃つてしまつた時で
はなく、攣りつつある流動の時である。私は風のやうに生きてみたい。「完成」ではなく、常に「未完成」 へ
の浪漫的の造を歩いて行きたい。然り、私はいつも攣化と革命を熱愛する。
∫イ2