青猫スタイルの用意に就いて
先日佐藤惣之助君と詩の話をした時、表現についての議論が出た。佐藤君が言ふのに、近頃流行の形容詩体 ― ××のやうに ― は幼稚であるから、自分はそれを捨てて新詩体を選んだと。然るに今月の「轟々」とい
ふ雑誌を見るに、南江二郎君が同じやうな説を述べてる。日く「××のやうに」といふ形容詩句は、仏蘭西あ
たりではずつと幼稚なものに属し、此頃ではもう使ふ人は全くないと。よつて此所に一言、自分の表現用意に
ついて説明しておく。
そもそも我が詩壇に於て、この形容詞句「やうに」を最初に有効に使つたのは、私の知る限り福士幸次郎君
であつたやうだ。しかしそれを最も盛んに使用し、殆んどそれで以て詩膿の一特色を構成するやうにしたのは、
賓に私の詩集「青猫」であつた。それ故に上述の非難は、正常に私の費任に負ふぺきもので、佐藤、南江君の
悪聾に封しても、一應自分として答へねばならない立場にある。
● ● ●
元来、何々のやうにといふ顆の形容が、詩的表現として幼稚愚劣なものであることは、一通りには始めから
解りきつたことである。特に近頃の印象を重んずる新詩風で、こんな気の利かない概念的形容を使ふのが、既
に既に時代遅れであることは、彿蘭西詩壇を引き合ひに出すまでもなく、日本に於ても常識で鮮つてゐること
と思ふ。もちろん私自身も、始めからそれ位のことは知れきつた筈だ0しかも私としては、普通さうした常識
以上に、別の新しい用意から特にそれを選んだのである。
そこでこの「やうに」といふ形容は、普通には畢なる比喩として用ゐられる0たとへば「血のやうに赤い」
「繊のやうに強い」「矢のやうに速い」等である○かうした普通の形容が、詩語として如何に幼稚なものである
かは言ふまでもないだらう。なぜならば「早い」といふことを言ふために、矢といふ別の概念を借りてきて、
しかもそれを「やうに」の御丁寧な諜朋入でくどくどと書き立てる。この詩語の構成は全く気の利かない散文
式で、近代詩として最も愚劣なものに属する。近代詩の特色は、印象的、象徴的の強い効果に存するのだから、
かかる概念的の説明凰な此喩を排することは言ふ迄もない0思ふに佐藤君や南江君がそれを非時代的として難
Jj 詩論と感想
rし
Jイ
ずる所由は之れであらう。
所が私としても、それ位のことは前から知つて居るのであつて、その常識のも一つ↓に、別の新しい用意で
土はば或る濁創的な創造として土れを使ひ、以て「嘉」の我流なスタイルを作つたのである。では
どんなに私がそれを使つて居るか↑それは「青猫」の中の詩をどれでも讃んでもらへばすぐ驚ことである
が、此所に念のために用意の存する所を話しておかう。
普通の形容としての「やうに」は、↓適した如き説明の比喩にすぎない0「血のやうに赤い」といふ時、血
といふ嘉の働らく意味は、単に赤いの説明であり、この「血」と「赤」との間には、比喩としての聯想の外、
何の必然不離の関係もない0然るに私の詩法に於ては、決してさういふ説明的形容詞を用ゐない。私のやり方
ではこの「血」と「赤」とを、盃想的必然にょつて結びつけ壷の関係を比喩でなく、恵めた象徴
にしてしまふのである。
此所で毒比喩と象徴との直別を遽ぺておかう0たとへば櫻琶本人のシムボ〜であるといふ時、この
所謂シムポルはその賓表の比喩である○なぜならば櫻慧淡泊にして散り易き特性を、是人の国民讐
概念的に結びつけ、甲にょつて乙を笠したものであるから0然るに夏の自責を描くに燃ゆる太陽を以てし、
.1,..チ.人二/,監まコマンチックな憧憬を描くに遽貴
勇箸表はすに太く雪線を以てし、悲哀を現はすに雪線を以てし、或はロマ
ポ.ノ八′ロー甘く一Hハ7Ll. 1
.ヽ ∃「 ヽノ\一転はu
地平線の囲を以て表現するのは壷の間に何の概念的説明がなく、甲の心像がそれ自ら乙の表象の上にぴつ
男気を表はすに太く鞘き鮎を£「t 召1づ;∃.く.
かa雰的に重なつてゐるから、之れは即ち比喩でなくして象徴といふぺきである。
そこで私の詩句法が、同棟にこの象徴の↓に立つて居るのである0例をあげ姦しょぅ0今、かりに「夜」
と苧る詩が此所にあつて、それの闇黒の表象を先づ歌ふ必要があるとする0この時普通の形式句法は、何等
かの比喩にょつ嘉翼を形容する0たとへば「曇のやうな闇夜」とか「墨のやうに翼の夜」とか言
ぬ は たま
チックな憧憬を描くに透き
ヽ ヽ
頭「/
ふだらう。而してこの 「夜」と題する詩のテーマが、かりに夜の神秘的な恐怖を歌ふものだと線定したならば、
前のやうな形容詩句が何の意味をもつかを考へて見よ。この場合に「墨のやうに闇黒の夜」といふ詩句は、全
然無意味な説明的の冗句にすぎ頂い。なぜならば「墨のやうに」は、畢に周黒の比喩的形容にすぎないので、
虫 ば たま
何等の表現的必然性をもつて居ない。もし墨の代りに鳥羽玉を以てしても、詩的効果に於て攣りはなからう。
然るに此所で「墓穴のやうに闇黒の夜」と言へば、もはやこの詩句は比喩でなく象徴になつてくる。なぜな
らば「墓穴」といふ心像自身が、夜の神秘的な恐怖を以て直接迫つてくるからである。思ふにこの詩句の讃者
は、先づ墓穴といふ詩譜からして、一の主題的心像を感解してくる。而して次の「闇黒の夜」がさらにその心
像の上に重なつてくるのである。故にこの場合に於ては、墓穴と夜とは必然不離の関係をもつて一如となつて
ゐる。したがつて賓際には、この「やうに」といふ連尉は必要がないのである。もし単語たけで書きたいなら
ば、山単に
墓穴、開票、夜
と三語改ぺただけでも好いのであつて、単に詩想を俸へる上では、それでも全く同じである。しかし詩といふ
ヽ ヽ ヽ ヽ
ものは、連鮮のてにをはや言語の音律の響きによつて、主観のデリケートな情操を俸へるもので、そこに眞の
複雑な意味と情趣とがあるのだから、単にボツボツの単語を地べたのでは不完全だ。(世にはボツポツの単語
を泣ぺて、それが印象的だと思つてゐる人がある。之れは印象といふ観念を、皮相な祓覚上の意味に解した結
果で、最も笑ふぺき謬見である。)
● ● ● ● しじみ
も一つ通常の例をあげょう。室生犀星君の詩には、よく鋭といふユニツタワーヅが使はれてゐる。「鋭のや
うな夕暮」「晩のやうな悲哀」等である。或る人がそれを不思議がつて私に聞いた。一饅鋭のやうな悲哀とは
どういふわけでせう、悲哀がどうして鋭なんだらうと。かういふ疑問が生ずるのは、この「やうな」を文法的
Jj 詩論と感想
に鮮辞して、現を悲哀の形容語とし、それの寓意された比喩を静かうとするからである。これは比喩ではなく
象徴である0冬の塞い蕎などで、氷つた溝水の中に棲んでる、あの悲しくかじかんだ睨といふ魚介の聯想が、
それ自ら作者の主観する特殊の悲哀を象徴するので、その悲哀が即ち鋭、睨が即ちその悲哀であり、両者は全
く表念に重なり合つてる0かういふ詩語を我々は「ぴつたりしてゐる」と言ふ。ぴつたりしてゐるといふこ
とは、比喩を脱して象徴の域まで進んだ表現を言ふのである。
比喩と象徴との直別は、これで大慧肝つたと思はれる0もし比喩ならば「やうな」は形容であり、普通の文
法通りの意味に属するけれども、象徴の場合の「やうな」は、もはや文法↓の意味とはちがつてくる。前に室
生君の詩句が鮮らないといつて不思議がつた人も、つまりこの「やうな」を文法通りの形容に併した結果であ
る0では象徴の場合に於て「やうな」はどういふ意味を持つだらうか0もしそれが厭ひならば、前に言ふ通り
除いてしまつて、単に個々の畢語を彗ても好いのであるし、或はまた「烏雲の闇」式に、連辟「の」を以
て「やうに」の代用にしても好いのである0然るに私が好んでこの「やうに」を濫用するのは、そこに私自身
の特別な詩想的條件があるからである○先づ私の詩から−篇を引例しょぅ。
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−′▲
題のない歌(青猫九四頁)
● ● ●
南洋の日にやけた裸か女のやうに
夏草の茂つてゐる波止場の向うへ
ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた。
ふはふはとした雲が白くたちのぼつて
船員の吸ふ煙草のけむりがさぴしがつてる。
● ● ●
わたしは鶉のやうに羽ばたきながら
たけ
さうして丈の高い野茨の上を飛びまはつた。
ああ 雲よ 般よ どこに彼女は航海の碇を捨てたか
(以下略す)
私がこの「やうに」詩饅で、特殊なスタイルを作つたといふわけは、もちろん単にそれを象徴として用ゐた
といふだけの話ではない。畢に「墓穴のやうな闇黒」といふやうな詩句ならば、既に人々が普通にやつてるこ
とであつて、何の新しいことも珍らしいこともない。上説した所は、畢に比喩と象徴との別を明らかにして、
以下述べる所の前提としたにすぎない。
さて此所に引例した私の詩で、最初の第一行に「やうに」が使はれてゐる。此所で私は″
南洋の裸か女のやうに
と言ひ、次に
夏草の茂つてゐる波止場の向うへ
ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた。
と績けてゐるから、文法上の解浮上からは、この「南洋の挽か女」といふ観念が、嘗然「赤錆びた汽船」の此
J7 詩論と感想
喩となつてゐるので、それが「やうに」の形容語で説明されてゐるわけである0しかしさう女法的に鰐稗して
は、此等の詩に償値がなくなつてくる○何となれば此所では、この「南洋の裸か女」が、それ自ら翌詩句と
なつて、さうした島の南圃的情景を表象してゐるからである0つまりこの詩は、次のやうに言ひ換へたのと同
じである。
.南洋の島に日にやけた裸か女が居る。
● ● ●
そして夏草の茂つてゐる波止場の向うへ
ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた。
これでょく誓だらう0即ち「やうに」はこの誓「そして」といふ語と同じほどの意味をもつてる。では
なぜ「そして」と言ふ代りに「やうに」と言ふか、それを説明しょぅ。
今、前の書き換へのやうに
∫∂
る0その上にこの誓として、詩句が風物の自然的賃になりすぎるのである0此所ではさうした島の風光を
〈 一 .一一口Ur I■− ..′一1.
南洋の島に日にやけた裸か女が居る。
と切つて、次に
夏草の茂つてゐる波止場の向うへ
とする時には、初めの第一行が印象的に攣止したものとなり、
次行との問に詩情の濃やかなつなぎが切れてく
「 ■
描くと同時に、或る標砂たる主観の情緒的気分を出さねばならぬ。したがつて此の壊合では、単純な風光描馬
になつては拘るので、一方にその景色の印象を暗示しながら、それと同時に主観の情緒的節奏を俸へねばなら
ヽ ヽ ヽ ヽ
ないのだ。故に「そして」で次につながずして、「やうに」でぼんやりつなぐときは、描馬としての印象が弱
くなる代りに、自然それが主観の中にぼかされ、印象と同時に情緒、客観と同時に主観を匂はすことができる
のである。
ぁまつさへこの「やうに」といふ言葉の、妙に物柔らかい、そしてどこか薄ぼんやりした感じが、私の趣味
として特別に好きなのである。すくなくともこの「題のない歌」の如き、或る神秘繰紗とした柔らかい情緒詩
挽をテーマ上する詩では、とりわけこの「やうに」の薄ぼんやりした感じが適切なので、青猫全巻を通じて、
私がそのスタイルを用ゐた理由も此所にある。けだしあの詩集の中心的主題は、多くあの種の詩境にあつたか
ら。
要するに「やうに」は私にとつて一の汝滑なテクニックで、そのやや曖昧な語感を利用し、二重三重の複雑
な意味や気分を、それでズルクぼやかしてしまふのである。もちろん一方では、それに文法通りの形容的意味
をあた・へてることは言ふ迄もない。伶、引例の詩の第六行目を見よ。
わたしは鶉のやうに羽ばたきながら
たけ
さうして丈の高い野茨の上を飛びまはつた。
この場合は一層直接である。ここで→鶉のやうに」と言つてるけれども、箕の意味は形容でなく、鶉そのも
のが野菜の上を飛んでゐる景色である。ではなぜ直接に「鶉が羽ばたきしながら飛んでゐる」と言はないで、
ノタ 詩論と感想
特に「私はニトトのやうに」などと除計な形容をするのだらうか0言ふ迄もなく、自分の主観的な気分を書写
それを客観の情景と高に結びつける必要があるからである0即ち次のやうに説明されたのと同じ。
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鶉は羽ばたきながら
たけ
丈の高い野茨の上を飛びまはつてゐる
私の心もまたそのやうに
草原の上をあちらこちらさまよつ・てゐる。
かく四行で言ふ所を、簡潔に「私は===のやうに」で表現したのである0その他、青猫の中の詩は、どれを
取つても皆同じテクニックが利用されてる0たとへば「輪廻と縛生」と苧る詩の最初の三行。
地秩の鬼がまはす車のやうに
冬の日はごろごろとさびしくまはつて
輪廻の小鳥は砂原のかげに死んでしまつた。
.りんわ
この第右における「やうに」が、単なる冬の日輪の形容でなく、輪廻における地鉄の心像をあたへたもの
であることは明らかだらう0その他「さびしい来歴」で、
● ● ●
私は騎駐のやうにょろめきながら
l
椰子の軍の日にやけた核を噛みくだいた。
等皆同じである。茸に風景の中を歩いてゐるのは賂駈であつて私でない0しかもその「印象の影に」私自身が
また歩いて居る気分を感じさせる手段である。
思ふにこのスタイルは、大して猫創的のものではないかも知れない0私自身とした所で、ことさらそれを得
意にしてゐるわけでなく、況んや白まんしようなどと思つてゐる次第では全くない○けれど皇日通の比喩的形
容として用ゐられる、文法的常識の「やうな」とは多少ちがつた用法と信じてゐる0すくなくともそんな説明
的の本質をもつて居ない。私は信ずる。すくなくとも最近以前の詩壇に於て、この種の形容詩句を象徴に使用
した詩の無かつたことを。昔の詩句ではすぺてそれが単純な比喩形容にすぎなかつた0だからどんな非難に於
ても、私の「やうな」詩膿を時代遅れといふのだけはひどすぎる○況んや幼稚なものと見るのは乱暴である0
幼稚なものは畢純な比喩形容で、私の青猫スタイルではない筈である0もちろん佐藤君や南江君の指す所は、
或は私に関しない別方面にあるのだらうが、表面↓の貴任はつまり私に辟するのだから、此所に自分の詩作用
意を将明しておく次第である。