都会と田舎


 私は、純粋の田舎は知ちない。ここに語るのは、東京に封していふところの田舎 さういふ廣い意味の田
舎についてである。
 田舎の生活には感覚的要素がすくない。感覚的刺戟がすくない。田舎の人の気分はいつも沈鬱だ。従つてお
のづから思想的に傾いてくる。宗教掛になり、瞑想的になつてくる。
∫∫j 文明論・牡合風俗時評

 都合の人の作る田園の詩は、日ごろ静かな環境に鱗ゑてゐるが故に、静かな田園への憧れの詩である。そし
てその詩には、田舎の気分がょく出てゐる。それは都合の人が、たまに郊外を散策し、田舎に旗をして、静か
な青い自然の気分が非常にフレッシュにめづらしく感じられる。狭いじめじめした町から急に自由な廣々とし
た田舎に来ると、それを讃美する気持にならずにゐられない。その気持は都合に住むものには分るが、田舎に
始終住むものには分らない。
 用舎の人の田舎の詩は、都合の人のそれとはまるでちがつた田園詩である。しかしさういふ田園詩は、従来
の詩壇にはなかつた。従来の詩壇の田園詩は、今云つたやうな都合の人の田舎への憧憬、情緒を歌つたものだ
った。これは何故かといふに、文化の中心は常に都合であり、詩を作る人も多くは都合に住み、而して都合の
人は一般民衆の感情思想を代表してゐるからである。
 田舎の人は常に都合文化を習ふ。だから田舎の人が田舎の詩を作る時には、やはり都合的の感情、思想を模
倣して作る。もし本官の田舎の人の感情、思想を書いたものを文学仝慣に求めるとしたならば、過去の自然主
義小説の或るもの 非常にじめじめした、陰気で、生の倦怠を感じさせる小説1がそれらしく思はれる。
それ等の田舎の情操を多く書いた小説家の如く、詩人もまた田舎の情操を歌つたとすれば、その詩は普通の所
謂田園詩とは全然反封で、自然を讃美するのではなく、自然から歴迫されてゐる苦痛、歴迫Y中にゐる倦怠、
陰鬱、畢調といふやうなものが詩の根本的の情操になつてゐたことと思はれる。
Jj4
」用
田舎の人がたまに都合へ出るのと、都合の人がたまに田舎へゆくのと、そのいづれもの新しい刺戟はおなじ
である。田舎の人の都合に封する渇望、都合の人の田舎に対する渇望、そのいづれもが急激に輿へられて、そ
こに都合讃美わ詩、田一園讃美の詩が作られる。
F町
⇒紀代文明は都合中心主義だ畑り、一それゆゑ拳術も丸十の方面へ饅達し∵そして名賀番うな彰・やめあるり故に近代の
蛮術は、詩ばかりでなく、檜董でも音楽でもその他凡ての新しい肇術を理解するには、先づ都合生活の情操を
味ははねばわからない。換言すれば、都合の生活をしなければ近代奉術の味はわからないと思ふ。その鮎から
田舎の人には近代蜃術を味ふ資格が完全ではない。
 理想を云へば、人は一年の三分の二を都合に、三分の一を田舎に、といつた風に暮らさなければいけないと
僕は思ふ。そして都合でみた事した事の一切を田舎にゐて綜合し、思索することが必要だと思はれる。
 都合に住んでゐると、革も木も土もめづらしく思ふ事が屡々である。鉢物の一輪の花をなつかしみ、自然の
美しさをしみじみと感じる。ゆゑに庭は都合生活には非常に必要だ。しかし田舎では革も木も土も始終目にし
てゐる為に、それ等に封しての気持は極めて平凡でさらに刺戟をうけない。ちやうど客気の中に住みながら杢
気の有難さを感じないやうに。まつたく田舎では、自然に対してなんの意味をも感じない。ただなんでもない
もの、つまらないものと思ふにすぎない。
 要するに自然を愛する気持は都合生活によつて、初めて慣験することで卒る。
 都合の家はどこもみんなせせこましく、まるで船室の中の様である。そして航海の途中にあるやうに、住居
に対して落着きがない。都合にゐると、公園とか、街路とか、遊園地とか、人は、さういふところを散歩する。
そしてその人は、散歩してゐることに落着きを感じる。そこが公園にしろ市街にしろ電車の中にしろ、自分が
∫∫∫ 文明論・融合風俗時評

まさにゐるぺきところにゐる、といふやうな落着きを得てそれを楽しんでゐるやうに見える。そして群衆の菊
持が散歩の気分と融合してゐる。
 田舎では家屋が大きいから、家の中でゆつくり落着いてゐられる。しかし戸外にはみ′るものがなく、何等の
刺戟も輿へられない。それで猶田舎の人は家庭内にゐるよりほかに仕方がない。家庭を楽しむことが唯一の娯
楽なのだ。もし戸外を歩くとすれば、それは用達しの時ばかりだ。都合の人のやうに散歩をたのしむ人は一人
もない。それゆゑに都合に住み馴れた人が田舎へ行つて、都合にゐた時の気分で散歩するとなると、その人は
必ず、周囲と不調和な束のおちつれない不安な或るものを感じる0それは田舎の路上に全然散歩の気分がない
ことから起る感じなのだ。田舎の路上には、急いで往来する人ばかりで、カフェーにはいるとか植木を買ふと
かいふやうな気分は全くないのだ。
J∫β
 田舎の人の住むのはただ家庭だけで、家庭と家屋とは、田舎にあつては同じ意味をもつ。つまり家庭と家屋
とが『家』の中に混合してゐるのである。
 近代の生活は都合中心の生活であつて、個人が自分ひとりだけの家を持つことがだんだん出来なくなつてく
る。事賓今日では『家』といふ観念が昔とはちがつてきてゐる。即ち家屋と家庭とは、まるで別なものと考へ
るやうになりつつある。
要するに田舎の生活は、本質的に家族主義にできてゐる。それと反封の都合生瀬から、\個人主義の思想が優
生するのは官然だ。都合の街路をゆく群集がもつところの感情と思想を享柴することのできる人は本質的に個
人主義者だ。一例をあげれば都合の人は難問の中に飲食することを好むが、さういふ風な群集の中にあること
を非常にたのしむところの都合の人の情操は、田舎の人は全然もつてゐない。