新芸妓論
げいしや
『蜃妓はつまらない』
今の青年の大部分は、
げいしや
たいていかういふ意見をもつてゐる0所謂『肇妓買ひ』なるものは、今日では老人た
ちの遊びであつて、時代的杢気に生きてる若い者はたいていカフェーの方へ走つてゆく○
現代の青年が、なぜに蜃妓を嫌つて、カフェーの女給に走るか?その理由は明白である0今日の蜃妓なる
j∂∫ 文明論・敢合風俗時評
性情や、気質やの仝膿が、花柳界といふものの杢気全饅が、どこか我々の時代とちがつた、昔の俸統を保存し
てゐる0ところが今日の青年は、さうした昔風の江戸趣味や、荏柳情調を悦ぶものは、江戸風の粋なつぶし島
田でなく、耳かくしやシングルの断髪である。今の大概の若い者は、三味線よりも西洋音楽を好んでゐる。羽
左衛門や梅睾の芝居は、今の時代の人々には鰐らない。彼等の好きなのは、バラマウントの西洋映董である。
彼等の興味のある話題はスポーツや活動馬眞のことであつて歌舞伎劇や芝居役者の話しでない。
然るに拳者の趣味や風俗は、かうした時代と正反封である。彼等は依然として江戸趣味であり、羽左衛門や
梅幸に狂熟し、二上り新内の花柳情調に生活してゐる。彼等の住んでる世界は全く今の新時代と関係のない、
はな
古風な俸統のせ界である。だから今日の青年にとつて、拳者と話しするほど退屈のことはない。趣味がちがひ、
気風がちがひ、人間の肌がちがつてゐる。どこにも話しの合ふ鮎がなく、感情の食心ちがつた、不愉快な、面
白くない時間がつづくだけだ。今日の若い人々が、蜃妓を嫌つてカフェーの女給へ行くのは、全く官然の次第
といはねはならぬ。
・元来、拳妓といふものは、決して今日のやうな『時代遅れ』のものではない筈である。昔の江戸時代では、
常に拳者が流行の先騒をした0その時代時代における、すぺての新しい流行風俗は、まづ肇妓によつて先騒さ
れ、つぎに一般に移つたものだ0単に衣服や装飾のことでなく、劇や音楽や、民詰や、小説のやうなものでも、
すぺて花柳界を中心とし、そこから新しい文化が生れたのだ。即ち江戸時代における拳妓は、まさに『文明の
筏』であつで、常に時代の最も新しい先頭に立つてゐたのだ。
然るに今日では昔と反対に蓼妓が『時代遅れ』の代表者になつてしまつた。今日の政令におけるすべての苛
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笥箋当.パ。8い流行風俗湖貸」とへば耳かくしや断髪)は花柳界から始ま餅な叶で女畢生や活動女鹿の方かn先座された○
単に風俗ばかりでない。一般の趣味や蜃術における新潮流は、すぺて他の方面から指導され衣柳界は更に是と
交渉がない。昔は『文明の中心』であつた筏柳界が、今日では『文明の落伍者』になつてしまつた0
奉妓の存在は、いふまでもなく『男子の慰安者』『男子の話し封手』として意義をもつてゐる0家庭におけ
る妻女は、炊事や育児のために忙殺されてゐる。我々の妻女に語ることは、生活の世帯のしんみりした話しで
ヽ ヽ ヽ ヽ
ぁる。妻女以外に、男は異性の慰安者を要求する0そこでこの目的から、奉妓といふ存在が考へられた0奉妓
と話すことは世帯の地道な話しでなく1生活の明るい世界における情操即ち宰衝や、思想や、娯楽や、社交や
のことである。ゆゑに蛮妓は、教養ある男子の話し封手として、十分なる知識、趣味、才能を持たねばならな
い。すくなくとも奉妓は、男子の封手として、話題に快けない程度の、一般的なる廣い知識を持たねばならな
ヽ 0
.し
昔の江戸時代の奉妓は、賓に正にその通りであつた0彼等は常に第一流の高い趣味をもつてゐた○この鮎で
はどんな教養ある紳士にも恥なかつた。そしてまた昔の拳妓は、常時における一般男子1尤も江戸時代の男
子は、たいてい無智無季であつたが1に比して、可なり高い程度の教養と知識を持つてゐたゆゑに彼等は、
どんな客に対しても時事を論じ、政令に廣く、見聞に明かるく、優に男子の話し封手として恥なかつた○
然るに今日の奉妓はどうだらう。全然無智文盲の徒ならばとにかく多少教養のある青年や紳士の封手として、
話すに足るものがどこに居るか? おょそ無智といつて、今日の蜃妓の中には無智識の者が多い0したがつて
話題に乏しく、新聞の三面種さへ話すことも出来ないほどだ○これで奉妓に退屈しないものがあるならば、そ
れこそ却つて不思議である。だから今日、蜃妓買ひをする人々は、時代遅れの老人連か、さなくば、蜃妓同様
の智識しかない江戸時代の古い俸統に生きてる人たちばかりだ0教養ある紳士や青年にして、もし蜃妓遊びを
j6J 文明論・政令風俗時評
する人があるとすれば、その目的が何にあるかは推察にかたくない。印ち彼等の『遊び』は、一にも二にも性
あひ て あひ て
慾の一鮎に存するのである。けだし嚢妓にして男子の『話し封手』でなく、生活のょき『遊び封手』でもない
とすれば、蛮妓の存在は、単に性慾の一事となつてしまふから今日の意味での『蜃妓買ひ』は、それ自ら『待
合入り』のことになつてしまふ。
かくなれば今日の拳妓は、事賓上の高等娼妓と同棲の意味合となり1またかく言はれても仕方がない。昔
の江戸時代の蜃妓は、決して今日のやうなものでなかつた。彼等は高い見識を持し、容易に肌を人に筍さなか
つた。そこで今日の堕落を欺く人々は、今の肇妓に向つて、昔のやうな菊節を求め、しばしば時世を憤慨して
ゐるけれども、是また眞に愚の骨頂である。昔の奉妓は、常に時代の先駆者であり、新しき実の創造者であり、
教養に於ても、趣味に於ても、常に男子と封抗し得る所の、したがつてまた男子のょき『話し封手』であり
『遊び封手』であつた。昔の拳妓は、常時の一般男子にとつて、賓に『異性の友』であつたのだ。然るに今日
の奉妓は、どんな鮎に於ても、男子の『友人』たる資格がない。話し封手としても、遊び封手としてもい全然
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物足りない退屈の存在にすぎないのだ。しかも猶今日彼等を要求するものが居るとすれば畢にその肉を欲する
ための需要であり、待合専門の奉妓だけが必要になつてくるのだ。
ゆゑに拳妓を救はうと思ふならば何よりもまづその教育を高め、趣味を新しくし、男子の話し封手や、遊び
封手として、優に足りるだけの素養を訓育すべきである。昔の江戸時代に於ては、男が一般に無教育で、無智
低級であつたからして嚢妓もまた多くの教育を必要としなかつた。然るに今日では、一般男子の教養が著るし
遥歩してゐるから、これの友人たる資格を得ぺく、宰妓豊た大いに警を高める必要がある○すくaと
も今日の蓼妓は高等女学校卒業程度の常識と、素養をもたねばならない。現在のごとき無智識では、到底、男
子の友人たる資椅がなく、したがつて眞の意味の垂妓たる資格がない。即ち堕落した▲彗妓となる外はない。
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もし教書自然に新しき時代の文明を理解するやうになるからして、趣味や東風も1自らま
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た新しくハイカラになるだらう○昔の江戸時代の蜃妓は常に常時の菅新しい、最も文明に先勝した趣味をも
ってゐたゆゑに、今日の墾妓が眞に正しい蜃妓たるためには、現賓の最も新しいハイカラ趣味を持たねばなら
ぬ。今日のごとく蜃妓が時代遅れの趣味にかたまり、反つて融合の流行に取り残されてゐるのは、それ自ら萎
みづか
妓の自滅を澄明してゐる。この鮎で所謂通人の批判ほど誤つたものはない○彼等はしばしば今日の肇妓の堕落
を欺き、昔の江戸蛮妓の気質を説いてゐる○けれども彼等は、今日の蜃妓が、なぜに堕落したか、堕落しなけ
ればならなかつたかといふ、理由の洞象を全く快いてる0即ち彼等は、牽妓の堕落が客の堕落に基因してゐる
如く、単純無智に考へてる。もし妄進んで、客がなぜに堕落したか、なぜに茶屋が塵つて待合が全盛するか
の理由を考へれば、今日の奉妓を、さらに扁古風にして、昔の江戸拳妓に逆行させょうとする顆の思想が、
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いかに根本的にまちがつてゐるかが解るだらう0今の垂妓が堕落したのは、彼等が『草世的』になりすぎた為
ではなくして、反対に官世向きでなく、時代から取残されたためである0もし昔の肇妓のごとく、今の蜃妓達
が、時代の新しき趣味を理解し、客のよき話し封手や、友人であつたならば、必然に茶屋の遊びが主となつて、
待合の必要は起らないのである。
それゆゑに蜃妓は、今後大いに新しい教育を受けねばならない0香、新時代の教育を受けてないものは、今
日の時世に於て、蜃妓たる資格がない○即ち『待合専門の蜃妓』として丁生を終らなければならない0ゲイシ
ャといふ名が今日のごとき堕落した意味でなく、昔のやうな眞正の意味に於て、もし伶未来に存在するとせば、
策謀現在するごとき花柳界の特殊な杢気を、根本から改造すべきである○即ちあの時勢遅れの江戸趣味や、
昔ながらの神棚気分や二上り新内や都々逸やの古い音楽 そんな音楽は、今の時代の青年と交渉がない1
を全廃して、すくなくも女学生や活動女優がもつ程度の、新時代の若々しい杢気を取入るぺきだ0もし出来る
∫β∫ 文明論・杜合風俗時評
ならば、今後の蓼妓は、よろしく洋装すぺきである0何よりも先づ、あの三味線といふ楽器を廃し、代りにピ
アノやマンドリンを弾くやうになることだ0茶屋の形式も、恐らく未来に於ては西洋館になるだ\打う。祀合金
饅が洋風に化しっつある時代に於て、蛮妓遊びだけが古風な形式を保持しっつあるのは、それだけでも今日の
花柳界が事貰上に磨滅してゐることを語つてゐる。
最後に、現在の日本に於ける唯忘『眞正な奉妓』は、東京になくして、大阪に居ることを附記しておく。
即ち大阪におけるあの所謂ダンス奉妓がそれである0彼等は常に洋装し、比較的時代の新しい文化に濁れてる。
単に服装について言ふのでない0現代に於ては、とにかくダンス蓼妓が、普高い程度の教養をもつてる。
あ ひ て
ハたいてい高等女寧校を出てゐるさうだ0)ゆゑに彼等は、他の表拳妓に此して、男子の▲話し封手や、遊び封
手となる所の、やや十分の資格をもつてる0ゆゑにまた彼等の客は、これを待合に呼ばずして、茶屋へ呼んで
る0即ちすぺての鮎に於て、彼等は最も『嚢妓らしい拳妓』であり、江戸時代の杜禽に於ける季妓の存在を、
今日の新しい杜合に、正しい郁藷したものである0今日の杜合に於て、奉妓が奉妓としての、正しき存在をし
ようとするならば大阪のダンス拳妓、.もしくはそれに顆似のものとして、全然新しい形式の蒜界を新造すe
外はないであらう0もしさうでなく、現在のままで行くならば、奉妓の堕落は、途に救ふことができないだら
う0香、それ所ではなく、拳妓といふ江戸時代の魯垂品だ久しからずして鞋曾から廃滅してしまふであらう。
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