藝術の映画化に就いて

著名なる文争を活動馬異にすることは、嚢術の民衆化といふ方面で、非常に効果が多いと息ふ。今日めやう
な時代では、人々が落付いて讃書する除裕がない○特に古典に属する長篇の文寧などは、一層さうであり、生
涯かかつて讃む横合がない0然るに二万では、時代が多方面の常識を民衆に要求する。今日の民衆は、すくな
くとも文寧の常識として、古来の世界的名著、たとへばミルトンの失楽園、ダンテの地鉄筋、ゲーテのフアウ
スdホーマーのオデツセイ、それからアラビアンナイトや、ドン・キホーテや、ガリバアの旗行記や、その
他の一般的名著を知つて居らねばならぬ○同時に自国の代表作を知ることも必要で、我が国で言へば、源氏物
語、平家物語、古事記の顆を始め馬琴、西鶴、春水等の小説も、国民常識として一應は讃まねばならないのだ。
.か(今日は、民衆に課せられた讃書の負槍が非常に多く、しかも時間の飴裕が益ヒすくなくなつてゐる。以
上の多き多数の名著は、その梗概を讃破するだけでも容易でない。その上に讃書といふことは、非常に頭脳を
疲らせる仕事であるから、一般の民衆はあまり好まない○固書館といふものも、民衆文化の普及的意義からは、
今日既に時代遅れであり、博覧曾や馬車と同じく、もはや古風の詩実に廃してゐる。
 そこで現代の通俗文庫は、どうしても活動馬眞でなければならない0活動は眠から印象が入つてくるためト
蓼零の如く頭脳を疲らすことがない○それに短かい時間の中に、よく作の梗概を合得できる。その上筒}の得
難直h古典の堅苦しい文畢を、興味本位の通俗に噛みこなして、素養のない民衆にも解り易くして見せること
だ。尤もそれだけ原作の眞趣が失はれ、
名作の償俺を傷つけるゆ竹でぁるが、一般の民衆首藤としで紹介する
旧瀾\
、題∬
∫2β
には、それで充分であり、それ以上の理想は望まれない○何となれば民衆は、萎術の深い素養をもつでゐない
から、通俗的の興味が無い限りは、彼等を牽きつけることができないのである○
 かくの如く「肇術の映董化」は、賓に「奉術の民衆化」といふことに意義を有する0所謂「文香映毒」を見
る人は、鑑賞の基準を此所に置き、その常識で償俺を判断すべきである0さうでなく、もし費に純粋の奉術を
馬異に要求するならば、いつでも必ず失望するにきまつてゐる0所謂文拳映真の鑑賞における興味は、いかに
巧みに原作を通俗化したか? といふ見方にあるので、いかに忠賓に原作を紹介したか? といふのでない0
といふのは、今日の活動馬眞なるものが、多数の民衆を封手にする娯楽的の興行物であり、本質的に通俗のも
のであるからである。活動馬異に高級な拳術を要求するのは、民衆娯楽の本質を忘れてゐる、一の温常識にす
ぎないだらう。ただ劇における自由劇場のやうに、小人数の識者ばかりを合貝とし、限られたる範囲で興行す
るものならば、吾人の欲求してゐる如き、眞の高級の拳術映塞が見られるだらう○今の所で言へば、その最も
高尚で「拳術的」と呼ばれる映董も、貰は表の通俗小説にすぎないのである0(すべての高級映真に就いて、
その興味の中心を考へて見よ。いかに浅薄で通俗であるかがわかる○)
 それ故に翻詳映董は、その原作を知らない人が、興味と好奇心で見るのであつて、眈に原作を讃んでゐる人
は、決して見ない方が好いのである。見れば必ず失望するに極つてゐる0名著の原作から受けたやうな肇術的
感動は、どんな名監督の翻案からも、掛して受けることができないのだ0尤も原作の性質により、或る程度の
ものは成功する。一般に古代の文孝は、事件を筋で運んでゆくため、映董に翻案することが容易である0しか
J2ク 文明論・敢合風俗時評

るに近代の文筆は、ずつと心理的であり、気分や、思想が主になつてゐるため、映董に馬すことが困難である。
私の見た範囲でも、比較的古典文寧の映董化には難がすくなく、近代文学の方で著るしく原作を傷つけてゐる。
ドストエフスキイの「カラマゾフ兄弟」や「罪と罰」の映董化などは、所謂ファンの喝采するに関らず、柄詳
としても失敗である上に、映董それ自身の興味がなく、賓に退屈千苗のものであつた。その他近代文学の郁詳
映董で、一として感心したものに出逢はない。単に原作の感動がないといふのでなく、映童それ自膿として退
                                                           0 0 0 0
屈なのである0そこで所謂「文奉映董」なる観念が、概ね私には「欠伸の出る映董」を表象させる。けだし映
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
真申での、最もつまらぬものは文蜃映董である。
 思ふにこの失敗の理由は、監督や筋書者が、生じつかの拳術意識で、原作に忠賓にならうとするからである。
映董は始めから文学でない。映董で原作を生かさうとするならば、全く原作のプロセスを叩き壊して、全然別
な組織の上に、その「精神」だけを抽象せねばならないだらう。強ひて映童に文学の組織を求め、木に竹を継
ぐやうな無理をするから、不自然で退屈なものができるのである。むしろその奉術意識を捨ててしまひ、文季
の民衆他を目的として、思ひきり原作を通俗北し、ひとへに興味本位のものとして、大饅の骨格だけを紹介す
るやうにせょ。さういふ仕方で行つたものは、今迄にも決して失敗してゐない。
3∫0
 そこで私の望んでゐるのは、「蜃術の映董化」ではなくして、逆に「映董の香術化」である。輿へられたる
原本を、映童に銚辞するといふのでなく、始めから映毒それ自身を、蜃術として創作することだ。しかしこれ
も前言ふ通り、自由劇場の組織でない限りは、思ひ切つたことができないだらう。劇の方には「讃む脚本」と
いふものがあり、それだけで拳術品たり得るけれども、映董の方は、馬眞となつて始めて表現ができるのだか
ら、上演不可能のものは仕方がない。そして上演の可能性は、一般の通俗向にあるのだから、蜃衝映毒の筆現


Fノ
頂ぜヨ彗」e照責栖難解ぁる・ド担い輝いの折i∵短浴槽Tに轡蹄昧を暗示する位のものだ。
   それ故に我々怯・ぶ今日の所針厳重に奉衝を要求しnつと思はないPり映董に射する僕等の興味は、純粋に娯楽
   本位であり、ただ面白く、気持ちの好い時間をすごさしてくれれば満足なのだ。即ち僕等の鑑賞は、それが娯
   楽として、いかに気が利いてゐるか? いかに監督の磯智が働らいてゐるか↑ いかに俳優が表出するか↑
   等の興味にのみかかつてゐる。即ち探偵小説や筋書小説などに封する興味と同様であり、畢に「気の利いた頭
   脳」を監督に要求し、技巧の未技を馬眞と俳優とに見れば好いのである。
 映董の本質をかうして見ると、世界第一の頭脳の所有者は、どうしてもチヤツプリンである。悲劇、喜劇、
史劇等のあらゆる映董を通じてみて、矢張最も面白いのはチヤツプリンの映董である。しかし近頃では、ロイ
ドの方が人気が高いやうに思はれる。
 ロイドの喜劇は、賓に「新時代そのもの」の象徴である。所謂「新時代」の何物たるかを知らうとする人は、
ロイドの映董を見るに限る。陽気で、明るく、無邪気で、自由で、快活で、皮肉や陰謀の暗い影が少しもなく、
眞に自然兄のオープンハートであり、若き民族の有する撥刺たる元気と精力が躍動してゐる。即ちロイドそれ
自饅が、アメリカニズムの生きた象徴である。今やアメリカの新興文化は、ジャヅバンドとロイドの映董で、
全世界を風靡しょうとしてゐるのだ。(汎米国主義を世界に宜俸し、アメ肌か魂で世界を統一することが、米
国の内部で計董されてゐる。先年の決議によれば、活動馬眞宣俸中、ロイド映童が第一位に選ばれたさうであ
る。)
∫J∫ 文明論・融二合風俗時評
映董に対する私の不満は、色と浮出しのないことである。色彩といふものが全くなく、立饅としての奥行も

なく、陰気で眞果の影檜が、薄ぺらのシーツの上で動いてゐるのを見てゐると、何とはなしに悲しくなつてく
る。生きた人間ではなく、手ごたへのないそれの影、厚みも色もない、幕に篤つた陰気の影檜を、いつしんに
見てゐる人々の心を思ふと、この世紀の文明といふものが寂しくなる。
 この一の感情は、私の映真に封する根本の憂鬱である。色もなく、饗もなく、匂ひもなく、そして肉饅その
ものが賓在しない。幕に馬る幽壷の動作を見てゐるといふ意識が、たまらなく私を憂鬱にする。しかもそれが、
● ● ● ●
この時代における唯一の民衆娯楽であり、地球のすべての人間どもが、唯一の慰安をそれに求めてゐるではな
いか。活動馬異に対する憂鬱は、賓に「文明の漁落」である。「人間の末路」である。磯城文明に心酔して、
唯物思想に壷魂をくびられ、生きた肉情を失つてしまつた所の、あはれな造兵のやうな人間共が、陰気な壁に
映つてゐる、眞黒の影檜を見て悦んでゐる。悲しいせの中のすがたでないか! 活動馬眞館の中に入るとき、
いつでも絶望的な厭せ思想が、私の心に湧いてくるので、苦痛にたまらなくなるのである。それ故に私は、活
動が好きでありながら、それを見に行くことを好まない。
j∫2
絹し映真に色彩と浮出しがついたならば、私の病的な憂鬱性が、ずつと軽くなつてしまふであらう。なぜな
れば、それは「眞黒のさびしい影檜」でなく、現賓の色と厚みを有する、生きた肉憶の再現であり、この三次
元の室間に棲む、賓の生物の幻燈だから。
 毒を刺するものは毒である。人類の娯楽に於ける文明的堕落は、より進歩せる文明に止って救はれねばなら
ないのだ。「色なき世界」は考へるだに陰惨である。「厚みなき世界」は思ふだに崎形である。世界の民衆が、
いつまでもかかる不倫の娯楽を愛し、崎形にして陰惨な趣味に惑溺してゐることは許されない。それは文化の
健全偉から許されない。正義人道のためにすら、映董は改良せねばならないのだ。もし患県に完全なる「天L然色
 汀
準用
立態映毒」を簡明する人があるならば、その文化的名著は不朽であらう。但し現在せる如きものは、伺不完全
の玩具にすぎない。
 褒術映童といつても、現在のものは畢に演劇映童にすぎない。もつと技術が進歩したら、美術映童(動く給
董)や、叙情詩映董(馬眞で表現する詩)などが創案されるであらう。そして活動馬眞そのものが、董家のカ
ンバスや檜具に代り、詩人の思想や韻律に代り、一の新しき宰術表現となるであらう。僕等はその未来を期待
してゐる。
T一人一謡 −