田舎居住者から


 拳術家だの詩人だのといふ連中は先天的に保守的なものだ。かれらは文明や科挙の饅達を悦ばない。かれら
はいつも時代遅れで、古風な牡合ばかりを憧憬してゐる。と言ふのは、フリードリヒ・ニイチエの痛罵である
が、たしかにこの言は一般の事賓に官つてゐる。カーライルでも、モリスでも、ホイツトマンでも、トルスト
イでも、ツルゲネフでも、ルツソオでも、私の知る限り、たいていの文学者は気質的に自然主義者だ。かれら
は口をそろへて文明と都合を呪ひ、すぺて皆素朴な自然生活を讃美してゐる。
 づて私は、ここで近代文明や自然主義の批判をしようと思はない。況んや反自然主義の高唱者たる伊太利未
来汲「汲の味方をしようといふのでもない。ただ私は、私自身が田舎に生活してゐることの鰹験から、一汲の
あまりに浪漫的な田園讃美者に抗議を提出しょうといふのである。
 詩人は歌ふらく「おお卒和の田園! この鮮新な峯気! ここには都合の煤煙がない。ここには都合の罪悪
                               い き
がない。大地は健康に輝やいてゐる。野菜は青々と畑に呼吸づいてゐる。愉快な労働! 美しい自然! おお
望ましき田舎の生活!」と。たしかに、それはさうだらう。都合の繁雑と煤煙と、その忙しく煩はしい生活に
なやまされた人たちが、たまたま日曜日の散策に郊外を歩くとき、いかにも田舎の生活と自然とは望ましき限
J〃 文明論・杜曾風俗時評

りであるだらう0或は都合の騒々しい狭い事務室に居て、思ひを逸かなる閑静の田舎によせるとき、海青く山
の静かな自然、そして何の煩はしい憂苦もない平和な田園生活の幻想は、たしかに彼等にまで楽しい仙境を夢
                                       ポエム
みさせるであらう○さればすべての都合人にまで、げに田舎は一つの美しい「詩」である。幻想の夢に浮かぶ
 ユートビア
「理想郷」である0かくて彼等は、詩人でないものすらも、伺且必然的に田園讃美の言をもつてゐる。日曜日
の朝、かれら都合からの散歩者が、郊外の畑や森に立つて言ふ言葉はかうである。「おお平和の田園! この
                                                               0 0 0
鮮新な杢気! 羨むぺく幸両なる田舎の生活!」と。然り、都合居住者の詩は皆これである。反封に、由舎居
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佳肴自身の詩を鵡け!
.都合の生活と田舎の生活と、その何れが華梱であり、何れが華々しく生甲斐のあるものであるかは間ふまで
もなく明かなる次第であらう0何より明白な澄接として、田舎を讃美する人それ自身が、容易に都合を離れ得
ないではないか〇.つまや君等の欲するのは「幻想としての田舎」であつて、賓際の煤ぼけた田舎生活の質感で
はないのだ〇四五年も都合生活を経験した人は、たとへ乞食をしても田舎に締ることを欽しないだらう。文明
                                     ヽ ヽ ヽ ヽ
圃の貧乏人は、未開圃の富豪よりも、はるかに生甲斐のあるぜいたくの生活をしてゐる。欧羅巴の下級労働者
は、亜細亜の未開囲に於ける貴族よりも生活が高級である。同じやうに東京の乞食は、田舎の大地主などより
       ヽ ヽ ヽ ヽ
却て汲手でぜいたくな生活をしてゐるかも知れぬ0すぺてに於て都合は生活の程度が高く、より文明の政令を
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組織して居る故に、したがつてまたそこにより意義のある人生が享楽されることは言ふ迄もない。

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           ニ

 都合に住んでゐる人は、質際に都禽生活の恩恵をあまりに感じてゐない。水道の水は、常に自動的にスイッ
 チから担ると息づてゐる0都合生活のあらゆる利便と、趣味や欲望の最高級に於ける日常の満足 都合の乞
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食ですらが、四舎の富豪よりも逢かに高級な生活欲情をもつてゐることを考冊巌頂はLmりどは彼等にまで慣れづ
こになつてしまつてゐる。いつでも彼等は、都合生活の悪い方面だけを意識しでゐる。即ち除裕のない生活や、
煤煙に汚れた不潔な峯気や、虚偽の社交や、罪悪の巷路や、不健康な自然や、さういふ惑い所ばかりを高調的
に感じてゐる。かくて一方に田舎生活の美鮎を反照させるからして、常に彼等にまでこの都禽は呪ふぺきもの
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に感じられる。しかも彼等の計算は本質的に誤つてゐる。彼等はその一方に於ける「快欒」の量を計算してゐ
ない。そして「苦痛」の量だけを表出してゐる。
 人生の目的は、かの功利主義の倫理挙が説くやうに、果して快楽の量によつて決定されるものかどうか。も
しさう上すれば、田舎の生活は、多分都合の生活にまさつてゐるだらう。なぜならば田舎の生活は、一方に快
楽の量がすくないと共に、一方にまた苦痛の塞がすくない。之れに反して都合の生活は、一方に快楽が多いと
共に一方にまた苦痛が甚だ多い。故に之れを相殺すれば、田舎の生活の方に差引き快柴の量が除刺するであら
ぅ。しかし幸摘主義は決して人生の眞理でない。人間の本能的意慾は、華南の「賓際の結果」とは関係なしに、
常により高級な生活、より意義のある生活を望んで止まないのである。すべての田舎者が都合にあこがれる心
理が此虞にある。多くの利口ぶつた人々は、彼等に向つて功利主義の人生観を説教する。人生の意義を「幸礪
の相殺的飴剰」によつて挽算すぺく、それによつて彼等の意志をひるがへすべく、口を極めて都合生活の罪悪
と苦痛とを説教する。しかも動機の原因が、全く別の人間的文北欲情にあることを洞察し得ないのは笑止であ
る〇


           三

 都合人が田舎の生活を羨むのは、田舎に於ける苦痛の少量を見て、同時にその快楽の少量を見ないからであ
JJj 文明論・政令風俗時評

る○田舎の生活は、すぺてに於て生活の程度が低いのであるから、苦痛も少い代りに快楽も少く、平々凡々な
る「退屈な平和」が績くのである01「平和」を望む詩人よ○平和とは如何なるものであるかを考へて見る
が好い0−おょそ都合人が田舎を愛する心理は、文明圃の人々が未開圃の風物や人情を憧憬する心理と同じ
である0つまり言へば一種の「物珍らしさ」である○彼等自身は、近代文明のあらゆる利便と快楽とを享楽し、
その華南に慣れてしまつてゐる0それ故にこそ、この「原始らしさ」や「素朴な風俗」や「非文明の客気」や
が、珍らしく鮮新な興味をあたへるのである0感心なことは、彼等自身が文明人であるといふことの意識であ
る0恰度あの貴婦人等が、非常なる興味を以て貧民窟を観察するやうに、そのやうに彼等「都合からの族行
者」は田舎居住者の生活を眺めるのである。
 此の観察の裏面に於ける感情は、明白に言つて我々田舎居住者に封する侮辱である。亜弗利加の内地を探検
した二人連れの白人が、猿のやうな攣人の生活を見たとき、彼等はステッキで之れを指づし乍らかう言つた。
「どうだ君! 自然そのものぢやないか0」「賓に好いね!」この言葉が、そしてこの感嘆が、轡人に封する侮
辱でないと思ふか↑ かれら都合からの族行者が、我々田舎者の生活にあたへる讃辟が皆之れである。
 都合の人たちが、田舎生活を讃美する言葉は、きまつて自然の美である。所が我々田舎居住者にとつて、こ
の讃美ほどもひどい不愉快と侮辱を感じさせるものはない○なぜといつて自然の実の賞頒は、明白に人文生活
の香定ではないか0「ここには何の見るべき文化的生活もない○ただ自然だけが美しい。」といふとき、その地
方の人間にまで、それが何の意味になるかを考へょ0賓際に於ても、人間生活の幸不幸を決定するものは「自
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然」でなくして「人間」である0我々の環境を構成する杜合生活それ自身であるn然の美なんていふものは、
人間生活に於てあまり重要なものでない0況んやどんな美しい風景でも、毎日見慣れてゐる人にとつては無慮
輿の平凡夢にすぎない0かの西洋人の漫遊客が、日本に来て最初に感嘆する言葉はいつもかうである。「おお
jJイ
美しい風景! 檜のやうな日本の自然!」と。所でこの嘆賞が、我々日本人にまで何の悦びをあたへると恩ふ
か。この「美しい牛開園」に於ける日本人の生活が、あの「実しくない文明囲」に於ける西洋人の生活よりも
幸福だと思ふか。
 都合の人の田舎讃美は、風景についで必ず人情の美をあげる。日く、田舎の人情は純朴である。日く、田舎
の人は重厚で義理固い。日く、田舎の人は正直で親切である。日く、何々と。是が最も笑ふぺj誤謬である0
成程! 杢想的な物語りにでもある棟な、奥の、奥の、人煙稀なる山奥へでも行つたならば、或はさういふ原
始さながらの人情があるかも知れない。しかし今日、一般に言はれてゐる所の「田舎」は、決してそんな神話
的のものでない。田舎者は、一般に都合の人よりも慈ずれしてゐる。r純朴」といふと人聴きが好いが質は「野
卑」なのである。あまつさへ彼等は備屈で強慾である。就中、田舎者の所謂「義理固さ」と来ては、その美鮎
でなくして賓は惑癖である。なぜといふにその義理なるものが、すべて煩頸なる郷薫の慣習を意味してゐるか
ら。一村の中に一人の祝儀があるとき、何人も必ず挨拶に押しかけて行かねばならぬ。それをしない絹のは義
理知らずと呼ばれる。これは勿論一例である。日常生活の苗端が、それによつて如何に煩はしく不愉快なもの
にされるか。けだしかくの如きは家族主義の遺習である。思想上に於ても、、感情上に於ても、全く個人主義の
道徳を奉ずる我等にとつて耐へ得る所でない。
 田舎に於ては、すぺて個人の自由な行動が束縛されてゐる。犬の子一疋飼ふためにすら、郷真のうるさい批
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剣と交渉とを免れない。狭い世界に住んでゐる人たちは、すべてに於ておせつかいであり、他人の行為に封し
て、紬経質である。そしていやしくも周囲の慣習や風俗にはづれた新奇のことは、あくまで異端として之れを
J〃 文明論・紅合風俗時評
ト可

情意せずには己まない。されば田舎に於て、多少新しい.時代的の趣味をもつてゐる人たちは、根砥からその生
活をおびやかされ迫害される。げに我々田舎居住者の詩はかうである。「おお自由なる都合! 個人が、個人
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の好きな生活をすることのできる都合! 不愉快なる義理責のない都合。おせつかいのない都合。非人情であ
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る故に、それ故に異に道徳的である所の都合。都合こそ我々の住むべき世界である。」
 要するに田舎は人生の隠退所である。そこには「平和」がある。そして 「活動」がない。そこには「慣習」
がある。そして 「創作」がない。そこには「生活の憂苦」がなく同時にまた「生活の意義」がない。すぺてに
於て田舎の生活は、一つの惰眠的な「眠たげなもの」である。然り、田舎は人生の休息地である。都合の繁煩
な生活に疲れた人たちにまで、それはこの上もない慰安と休息とをあたへる好個の別荘地であるだらう。しか
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も我々にとつて、この田舎は別荘地でない。我々の不幸は、この田舎に居住すぺく運命づけられたことである。
都合の人よ、君等が田舎に来てこの閑静な境地を賞讃するとき、これらの燐れなる別荘地の田舎青年等に、そ
れが如何なる侮辱的の審をあたへるかを知るか。かつて私が或る遽都な漁村に滞留してゐたとき、都合から海
水搭に来て居た一紳士が、黒く日に焼けた漁師に向つてかう言つた。「結構な生活だね。かういふ景色の好い
所に住んで、君のやうな生活をしてゐれば人生の憂苦はない。僕なんかの生活は全く不愉快なものだ。君は賓
                                         ヽ ヽ
に粛ましいょ。」すると少し酒を飲んでゐた老漁夫は、むつとした様子で一喝した。「馬鹿にしやがるな!」
 都合居住者の田園讃美に対して我々田舎者の答へる言葉はこの一語に表されてゐる。「馬鹿にしやがるなI・」
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■【Fト声r