秘密
容量や春本ほど、一般に秘密にされながら、しかも普遍的なものはないだらう。貨に至る所に、僕等は々の
表現を磯見する0たとへば町の共同便所や、寄宿舎の壁や、工場の集合所や、それからたいていの中畢生のノ
ートなどに。
此等のものについて、僕の賓に驚くことは、すぺてが一様の型にはまり、同じ言語、同じ董面が、至る所に
約嵐されてゐるといふことである。そこにはいつも、気の利かない、馬鹿馬鹿しい、無刺激の言語が羅列され、
ただ醜悪の外、何の春情をも挑撥し得ない、誇張した局部の稜董がある。何故に人々は、こんな醜劣な、非色
情的なものによつて、性感の満足と表現を得るのだらうか。もし人間の性生活が、賓に果してこの通りで、一
様に、単調に、平凡に、型にはまつたものであり、且つそれが一般的であるとすれば、人生は何といふ陰惨な
存在だらう0あらゆる春真の表現は、僕を絶望的にまで憂鬱にする。茸に春童や春本ほど、僕にとつて人生を
味菊なく、退屈に感じさせるものはない。
、遥
或はもちろん、此等の街路に見る落書は、何等質感からの表現でなく、子供等の燕心にする揆倣の悪戯であ
るだらう。しかしながら歌麿や豊囲やの大家等が、時に全くその「同じもの」を措いて居るのだ0すぺての美
術的な春董が、同様に醜悪の局部を描き、型にはまつた一様式のものであるとは?他の創作に於ては、かれ
ほどに濁創的で、特異な個性と創見とをもつてる董家が、人生の最も情熱的な董題に対して、一も顆型の平凡
を脱しないといふことは、いかに人間の性生活が、一般を通じて畢調であり、馬鹿馬鹿しく、無刺激なもので
あるかを澄援する。
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果してけれども、それが人間の賓の表現だらうか0たいていの人々は、思ふにその賓の表現を秘密にしてゐ
る。人間の羞恥心は、資の恥づかしい、デリケートな性感を人にかくし、一般に知られてゐる1紋切り型の、
公開されたものだけを表現してゐる○容量や淫本に於てさへも、人生の明らさまの表口しか、僕等は見ること
ができないのだ。