藝術偏重主義を憎む

h‥鵜川謂憫領激倹lイ山〉
「新潮」の映童漫談合で、映董が拳術であるか香かといふ質問が出、皆が之れに答へてゐた0かうした質問は、
最初に間を態する前に、先づ「季術」といふ言語に於ける、正しい定義を定むべきで、それが不分明である中
は、いくらでも勝手な異論が出てくるし、結局ノンセンスな愚問愚答にすぎないのである0しかも出席者の一
人もが、この肝心な反間を提出せず、皆が呑気な態度で−むしろ退屈のやうな態度で 好い加減に問題を
ぁしらつてゐる。要するにそれは、質問に深い興味がなく、ムキになつて考へるほど、重要な議事でないから
であらう。
 賓際言つて、映童が蛮術であるか香かと言ふ如きは、たいして面白い質問でない0我々にとつてみれば、そ
んなことは、「どうでも好いもの」の一つである。だが何故に一般者は、時にしばしば熱意を以て、かうした
質問を出すのだらうか。たしかにそこには、次のやうに考へられてるものが、先入見の中で根を張つてる0日
く、若し活動馬眞の本質が、蜃衝的なものでないとすれば、それは軽蔑すぺきものであり、娯楽としてすら存
在の意義がない。映董が映童として、数々に鑑賞されるためには、必ず拳術的でなければならないい
 資にかうした思想が、文壇を始めとして、日本の一般に行き渡つてゐる。単に映蓋ばかりでない0あらゆる
∫〃 文明論・杜合風俗時評
訂写

すぺてのものに向つて、人々は「肇術的」であることを要求し、そして肇術的でないすぺてのものは、何かの
意のやうに考へてゐる0この思想の底には、人生に於て、何よりも奉術だけを唯一のものとするところの、誤
つた拳術尊重主義が根按してゐる○そしてこの拳術尊重主義は、日本に於て特別に甚だしい。日本人の大多数
は!文壇人でも一般人でも1あらゆるものに対して彼等の所謂「拳術」を要求する。例へば素人が娯楽用
の克眞を映すにしても、所謂奉術馬眞でないと菊がすまない。そして普通の記録的素人馬眞を楽しむものは、
何等か俗物的に低級硯される○そこで奉術なんかまるで解らない人物さへも、妙に膝腱とした馬眞を映して、「
自ら大に得意で居るやうな現状である。
 日本の現状は、何でも皆この通りである。銀座のカフェが、妙に電気を薄暗くして、陰気な感じをあたへる
ので、或る男がそれを注意したら、女給が軽蔑した顔をしながら、貴郎は拳術がわからないのねと言つたさう
だ○先づ大抵の日本人が、この女給と同じことで、何でも奉衝的でなければ高尚でないと思つてゐる。だから
日本人は、澤正劇が奉術であり安来節が拳術であり、そしてキートンやチヤツプリンさへ、奉術でなければ承
知しない。香彼等は、無理にもそれを「拳術的」なものに見ようと考へてゐる。
一膿日本人は、どうしてこんな考へ方をするのであらうか。それは日本人が、昔から「風流」を尊ぶ国民で
あり、日常衣食住の一切を、轟く趣味的に美化しょうとするほど、先天的に肇衝尊重主義の国民であるからと
も考へられる0だが一層眞理に近い理由は、我々の文化が低く、囲一竺般の教養が、拳術の杜合的意義を理解
すぺく、充分の常識に達してゐないといふことにある。
 蓼術といふものは、全くの野攣囲では、始めから問題にされてない。野攣人には、目ざめたる文化意識がな
 いからして、彼等に蓼術を愛する心は有つても、それを尊重する心はない。むしろ彼等の政合にあつては、蜃
 術が酒興的なものに考へられてる魚、それを職業的にする詩人や音楽家は、】種の賎しい大道蛮人へ乞食の部
jア2
重点
■興)として取扱はれる.然るに異の文明的牡合にあつては、挙楯が文化意識によ?て尊敬され、▲拳衝家の晶椅
が、軍人や政治家やと同じやうに、敵合的紳士として好過される。しかしながらその政令では、蓼衝ばかりが、
他のものに優つて尊敬されたり、蜃術家ばかりが、政治家や軍人以上に、超人的に過重されたりすることはな
い。つまり言へば文明図では、奉術が丁度あるやうに、その位地に於て過不足なく待遇される。
 ところが世界には、眞の文明園ではなく、と言つて野攣園でもなく、その中間にあるやうな過渡期の囲家、
即ち所謂牛開園がある。さうした半開園に於て、蜃術の社合的位地は特別である。そこでは季術が、一方伶野
轡時代に止まるところの、無智の人々から購辱されてゐるに反し、他方で文化的教養を受けたところの、その
圃の新時代に属する人々からは、過度にまた「高すぎる」位地心買ひかぶられる。故にさうしか牛開園では時
に奉術がケタをはづして、漫常識な天界にまで持ちあげられる。この同じ状態は、或る一国の中に於ても、田
舎と都合の関係から常に見ることができるのである。即ち文化の全く及んでない、眞の純粋の田舎(それは野
轡園に比較される)にあつて、奉術家の存在が理解されず、畢に臓辱を以て眺められるに反し、文他の中枢た
る大都合では、蜃術家が相常に尊敬され、政令的に過不足のない位地で眺められる。然るにこの中間地帝にあ
るところの、地方の牛ば文化的の小都合では、時にしばしば拳術家が、異常な尊敬によつて渇仰され、漫常識
にまで高い位地に買ひかぶられる。箕に地方の文化的小都合に於けるほど、拳術家の持てることはないのであ
る0
 我々の住んでる日本は、丁度この地方の文化的小都合、即ち世界の半開圃に嘗るのである。その文化の程度
は、あらゆる意味に於て半開であり、何事も充分に理解し得ないところの、一知半解の半可通に属してゐる。
だから日本では、嚢術が馬鹿馬鹿しく貫ひ被られ、一切何事も「奉術的」であることが、償値の棟準のやうに
考へられてる。しかもその箕、肇術の異本貿は.、少しも理解されては居ないのである。彼等はいつでも、電気
j〃 文明論・杜合風俗時評

題叫一
を薄暗(きへしておけば、それで「拳衝的」だと思つてゐる。彼等にはべトトペンもワグネルも解りはしない。
しかも世界一の大奉術を敢くといふことの、その崇高な蜃術意識に感激して、むやみやたらにアンコールの喝
采をするのである。だから日本では、決して公園音楽は凌達しない。日本人は鰐つても解らないでも、べトー
ペンでなければ喝宋しない。ずつと平易で親しみ易く、眞の音楽的陶酔をあたへる軽いポピユーラーの音楽な
どは、始めから皆が敢くことを恥辱とし、故意にも近づくまいと身構へてるのだ。
 日本人の通有癖たる、こ、の一知牛解の拳術意識は、特に就中文壇人に於て甚だしい。日本の文壇には、世界
に顆なきプロレタリヤ文学と稀するものが、堂々として威張つてゐるが、これなども拳術偏重主義の結果であ
つて、我々の牛開国に於ける文化程度を、遺憾なくさらけ出してゐる。奉術が、その正しき意味に於て理解さ
れ、杜曾的に過不足なく批判されてゐる園にあつては、一般の理性ある常識が、宰術と政治とを直別してゐる。
拳術は政治以上のものでもないし、また政治以下のものでもない。率術と政令主義とは、常に二つの線に於て、
別々に改行すべきものである。故に文明圃では、杜令室義は政令主義として研究され、蜃術は季術として、そ
の時潮的ジャーナリズムから、別の慣値によつて批判されてる。然るに日本人の常識では、この二元的判断の
笹分ができない。日本人の牛開的な文明観では、嚢術が最高萬能のものと思惟されてゐるため、それが一元的
であるために、どうしてもマルクス理論と結合させ、政治的ジャーナリズムの最高地位に、奉衝を塵かねば束
がすまない。彼等にあつては、拳術は一切のものであるか、然らずんば皆無である。故にまた、奉術はマルク
スの経済革と結婚するか、でなければ皆無として亡びるか、二つの中の一つょり、他の場合を思惟することが
できないのだ。
.かうした蓼衝備垂主義が、いかに牛開的なる稚態に属するかは、特に言ふ迄もないことだらう。吾人はもち
 ろん、蓼‥衝を容垂す・ぺき理由を彗セゐる。だがそれを過度に備重して、社合的文化やJ篭チ鼻音やの、
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つ。・†切旬上位に全能させょうとするやうな」漫常識な一元的観念は、女学生の感傷的思想に属するもので、少年
題頂頂′、a去.時代の稚態と共に、言Hも早く脱却しかければならないのだ0第一に我々は、さうした蓼衝偏重主義の迷信か
     ら、どれだけ現貰の敵合に於て、眞の愉快な娯楽物を失つてゐるかわからない○
     前にかへつて再度言はう。何故に人々は、活動馬眞に「肇術」を要求しょうと言ふのであるか0我々にとつ
    てみれば、映董は「面白いもの」であれば好いのであつて、必しも「襲術的」である必要はないPそして「面
    白ご上いふことと、「拳術」的といふこととは、必しも常に一致してゐない。例へば手品や曲蜃のやうなも
    のは、決して蜃術的ではないだらうが、たしかに面白いものであり、奉術とは全くちがつた、別の娯楽拍の興
    味がある。′そして活動馬眞が、かうし七畢なる娯楽でなく、眞の肇術でなければならないといふ経文は、一鰹
    どこにその主張の救援を置くのか。言ふ迄もなくそこには、女学生的な拳術偏重主義が根を張つてゐる0
    ▼・僕の見るところによれば、今日の活動馬眞は、むしろあまりに牽術的であるこ上から、僕等を退屈にしてゐ
    頂ので虜る。・僕等の映重界に望むところは、一切の蜃術意識を捨ててしまつて、純に「面白い」といふことに、
    意向の全力を蓋してもちひたいのだ。なぜなら僕等は、始めから一般の観覧席に於ける公衆とは、蜃衝に封す
    る鑑賞牒を別にしてゐる。一般の公衆は、蜃術に対する深い教養が無いのであるバ彼等は丁度、腹の茎いた子
    供で虜って、何でも心でも、手首り次第のものに美味せ感ずるバところが我々奉衝家は、その方での専門家で
    ぁゃ、常人が美と感ず渇種顆の蜃術味は、既に飽き飽きjてゐるばかりで鬼く却つて我々の批判からは、醜、
     森々感ずるほどに嫌らしく、敬して遠ざけたいのである0
     上ころが活動膚眞は、本来大衆を封手に製作されるものであるから、若し活動馬眞に「拳衝的」なものがあ
    るとすれば、それは大衆に美と感じられ、大衆を悦ばし得る程度の蜃術でなければならない○そしてさういふ
    願の蓼術美が、我々専門家にとつて醜であり、それ故にま七非蜃術由に考へられることは、前に述べた通りで
J〃 文明論・敵合風俗時評

ある0故に活動馬眞が、大衆によつて奉衝的に考へられ、彼等に詩的陶酔をあたへてゐる時、我々の方では、
逆にいつでも、それを不快な非肇術的のものと考へてゐる。そこで奉術家の先生たちが、映董に季衝を要求す
る時、その要求する賓のものは、大衆の批判し得る蜃術でなく、それょりは程度の高い、別の高級拳術を指す
のである。
 此所で吾人は、改めて「奉術とは何ぞや」といふ如き、大きな問題を出すことを、特に控へておかうJ思ふ。
だが一般に、単なる娯楽と直別され有意味の奉術は、その魅惑の本質感に、何等か感覚以上のものがあり、人
のセンチメントに鱗れるところの▲、宗教感や倫理感を持つたものだと思はれる。然るに僕等の知つてゐる限り、
たいていの活動馬眞は、さうした人倫的センチメントに解れるところの、通俗的な拳術性を有してゐる。そし
て詩が僕たちを酔はすやうに、一般の公衆たちを、それの拳術的陶酔に導くのである。もちろんその肇衝要素
は、僕等にとつて耐へがたいほど、低劣で甘たるいものにちがひない。だが「奉術」であることの本質から、
程度の相違を別として、それを香定することはできないのだ。
 賓に僕等の不愉快は、今日の多くの活動馬眞が、かうした通俗的拳術性の要素に於て、僕等を悩まし切つて
ゐることである0そこで我々奉術家が、今日の映董界に望むところは、二つの決定された道しかない。即ち一
つは、映董を充分高級にして、僕等の高い鑑賞性を満足させてくれるところの、第一流の拳術要素を持つてく
れるか、でなかつたら、いつそ全然、通俗の感傷的な拳術要素を捨ててしまつて、別の興味本位の娯楽として、
僕等を満足させてくれるかである。
 然るにこの二者の中で、前の方の証文は、到底望んでもできないし、また大衆封手の興行物に、始めから要
求するのが解理である0そこで結論は、どうしても後の要求に向つてくる。即ち僕等の見たいものは、始めか
 ら何等蓼術窟藤を持たないところの、チヤツプリンや、キートンや、ロイドやの「愉快極まる」喜劇でちる。
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澗ゾ、
Z瀾謂」。、もこ}′
ZZZ瀾淵項朋瀾彗頂
召濁り.■ち 義に今日の活動馬共で、倹等の見て面白く、また異に見るだけの償値あるものは、単に「軍馬レと「孝劇レ
のこ種しかない。他は皆通俗的センチメンタルの愚劇であつて、僕等の蓼術家にとつて見れば、腹立たしくも
馬鹿馬鹿しい者のみである。すくなくと皇普劇と貰馬以外の活動馬眞は、文学者の見るぺきものでない0若し
見る場合があるとしても、時に僕等が「文蜃倶楽部」や「講談雑誌」を讃むやうに、人にかくれて内密に、こ
っそりと見物すべきものである。でなかつたら、それは睾術家の恥辱である。
 然るにかうした場合に於ても、蜃術至高主義で固まり切つた日本人は、チヤツプリンやキートンにさへ、そ
の所謂「嚢術」を要求せねば菊がすまないのだ。僕は不思議な光景を見た。或る映真の常設館で、チヤツプリ
ンの「サーカス」が映されてゐる時、だれも笑ひこける人がなく、イヤに厳粛に四角ばつて、智聾者のやうに
見物してゐた。さういふ奇妙な人間たちが、無数に生棲してゐる牡合のことを考へた時、僕は「牛開園」とい
ふ言語の悲哀が、痛切に寂しく感じられた。そして銀座のカフェの女が、「貴郎は蜃術を知らないのね」と言
った講が、いかに世界の田舎らしく、日本といふ園を聯想させた。
 拳術といふものが、人生に於て必要であることは、今更ら特に言ふ迄もない0だが必要であるものは、必し
も肇術ばかりでないだらう。僕等は時に、拳術の外にも眞の娯楽を要求する。眞の娯楽とは、生活の憂苦を忘
れさせ、感覚に美感をあたへ、或る時間を面白く、愉快にすごさしてくれるものである○僕等が活動馬異に求
めるものは、何等の拳術でもなく宗教でもなく、ただ賓に時間を面白くすごさしてくれるところの、無邪気で
愉快な娯楽である。そしてこのことは、畢に活動馬眞ばかりでなく、一般の政令的な演奉物に向つても、同様
に覆せられる証文である。なぜなら今日の牡合−特に日本に於て1快けてるものは、我々を面白くさせて
くれるところの、この種の娯楽的演撃であるからだ。
 今日の日本の融合は、資に通俗の奉術意識によつて中毒されてゐる0文壇人を始めとして、一般の公衆に至
jアア 文明論・政令風俗時評

る・まで、すぺて「奉術」でないと菊のすまない日本人は、どこにも;として、眞の愉快な娯楽的興行物を持
つてゐない○洋行した人の話にょるト、濁逸や、俳蘭西や、アメリカやの欧米圃には、到るところ面白い箋
演蓼があるやうである○例へば大規模の曲馬圃や、ヂヤヅダンスの色物寄席や、美人のエロチックな操踊や、
jアβ
ハントマイムや、それからルナパ
奇想天外のボードビールや、痛快無比のパ
ハークや新天地やの、わけもなく愉快
で鳥藤尾鹿しく、娯楽としてこの↓もない演肇物が、都合の到るところにあるさうである。
ところが是には、一つとしてさaいふものがない○たとへ有つても、落語や曾我廼家芝居のやうな、江戸
時代の陰気臭い真演拳の名残りであつて、今日の時代に通したやうな、感覚的で面白い娯楽物は、殆んど全
く無いのである0(尤も東京と大阪では、大阪の方がいくらかこの種の物が差してゐる。それは大阪の人間
には、誤つた拳術至意識がなく、眞に自然的の批判に於て、正しく扁のものを見るからである。大阪の人
間は、すくなくともかういふ鮎で、東京の人間より純粋であり、したがつてまた頭脳が世界的に進歩してゐる。
近い未来に於て、大阪は日本文化の新しき中心地になるであらう。)
日本人は曲歪やルナパークを、議に「芸術的」だといつ完難する0そしていやしく墓術的でない
ものは、始めから見るはどの償俺がなく、存在を要されてしまふのである0だから是には、どんな愉快な
娯楽物も、決して差することがない○日本に要するものは、↑手な拳術意識をこね廻して、女霊のセン
チメンタリズムを煽動させたり、惑く陰気くさく窮屈がつた、欒な安肇術の新汲劇や、さうした種顆の「牛ば
蓼術、牛ば娯楽」の混合物で、異にそんな蜃術意識をさつばり捨てたところの、眞の意味の痛快な娯芸劇が
少しもない。
一)の娯楽瘍が解いといふことは、是人の表公衆の立場に於ては、もとより痛揮を感じないことだらう。
志な.ら彼等は、到るところにある活動馬眞や新汲劇で、いつでも彼等の最高満足を充たすところの、」真一い、
                                                                                                                   臣
▲歪町を買ふことができるからだ.賓際に於て、
鸞絹川和
架場も欲しはしない。なぜなら宰術的の深い陶酔は、
僕等絹々ん力絹畑心ヰ酵ふ′γとがでjるならば、何の妖
曲馬やヂヤヅバレーの感覚的な魅惑よりは、ずつと轟か
湖埋彗
に精神的で、悦びの度が深いからである。しかし不幸にして、我々の奉衝的教養が、大衆から仲間はづれにさ
れてしまふ。そこで我々肇術家は、日本に於て二重の不幸を経験する。若し西洋に住んでゐたら、我々は到る
ところに、どこでも愉快な娯楽を見つけ、面白い演拳を見るであらう。然るに日本に於ける華術家は、どこに
行つても不幸であり、既に我々が飽き飽きしてゐる、くだらない通俗向の安肇術を、無理強ひにも見せられな
ければならないのだ。
 僕は賓にこの鮎でも、日本の杜合を寂しく思ふ。そして日本人の通有性たる肇衝意識を、呪はしいほど反感
する。だがこんなことを考へるのは、或は日本の文壇では、ごく少数の異例者であるか知れない。なぜなら日
本の文壇人等は、たいてい多くの意見として、活動馬眞の奉術化を唱導したり、浅草の民衆劇にさ一へも、垂術
要素の存在を要求したり、甚だしきは、、、エージツタプレトの喜歌劇をさへ、奉術的でないと言つて非難したり、
或はチヤツプリンが道化すぎると言つて不満したりするほど、それほど御多分にもれない季術尊重主義者上
それは「非常識」といふ言語の洒落に通ずる であるから。僕のしみじみと情なく思ふことは、かうした文
壇の先生たちが、一般の低脳な民衆たちと、何等選ぶとJ言のない、我々の「牛開園」を代表してゐるといふ
ことである。
 最後に一つの比喩を言はう。拳術家と公衆演蛮との関係は、日本に来た外国人と、西洋料理の関係のやうな
ものである。外国人が、もし「本官の西洋人」であり、本場の精製された洋食を食ひ慣れてゐるならば、日本
へ来て場ちがひの洋食などを、心から官美して食ふ筈がない。彼等の日本で求めるものは、本国のそれと全く
ちがつた、別種の珍らしい味覚であるだらう。同様に奉術家が、若し.「本草の拳術家」であるならば、公衆封
Jアク 文明論・敢合風俗時評

手の演蓼物から、場ちがひの奉衝を要求するほど、無恥の食ひしん坊である筈がない。彼等のそこで求めるも
のは、本場の奉術には全くない、別種の欒つた者でなければならない筈だ。(賓にこの攣つたものから、時々
我々の全く知らない、別の新しい嚢術がヒントされる。)
故に眞の拳術家は、この鮎で子供と同じく無邪気であり、自然のままの本性で、罪のない演拳物を嬉しがる。
彼等の最も恵むものは、牛可通な奉術意識をこね廻した、場ちがひの安洋食である。しかも僕等の不幸は、今
                          ● ● ● ● ●
日の日本に於て、到るところこの安洋食ばかりを、公衆と共に、食はされねばならないと言ふことであ.る。か
つて僕は、前の著書「新しき欲情」の中に於て、「拳術家の娯楽はどこにあるか」といふ短章を儀表した。賓
に奉術家の大なる不幸は、娯楽場に於てさへも、公衆から孤濁であり、一人寂しく、何の観るぺきものさへな
いと言ふことである0そして我々の日本に於て、特にこの嘆息を深くする。我々はいつも、純粋に自然性を有
する人々(例へば大阪人のやうな)と、眞の子供との居る杜合に住みたい。そして牛開園的なる、女畢生的奉
術尊重主義の人々から、文壇的にも政令的にも、早く逃れ出したいのである。
Jβ0
題二一